10 years

(前)

―あれから10年も―


「いるかちゃん応援部」10000hit記念 ふうさまに捧ぐ




「桂、どうだった?」

プールから顔を出しているかが聞く。
ストップウォッチを片手にしているのは日比野桂。
彼女はタイムと高一からの友人の顔を見比べた。

「はぁ……すごい。あと少しで女子高校記録だよ……いるかちゃん。
本当に水泳部に入ってたこととかないの?」
「ないって。あたしがまともにやったのは剣道とサッカー。あとはソフトボールもかな。試合に出るだけならバスケとかテニスとかバレーとか、いろいろやったけどさ……」
「しんじらんないなぁ……ピンチヒッターのつもりがとんだダークホースってところね。」

いまだにそのタイムが信じられない面持ちで、大して息のあがっていない小柄な友人を眺めた。

「えーっと、400メートルリレーのアンカーだっけ。あたしがかわりに出るのって。」
「そう。出るはずだった子が怪我してね。個人の部は仕方ないけど、リレーはみんなに迷惑かけることになるって気に病んでたから。うち、部員少なくってさ。 補欠、っていえるほどの子がいないんだ。で、いるかちゃんにお願いしたってわけなのよ。本当に、迷惑じゃなかった?」
「ぜーんぜん!一応もう進学は決まってるしサッカーの練習だってたいてい午前中だからさっ。」
「そう?ホント、助かるよ。ありがとう。」
「やっだなぁ、改まって。大会まであと三日だっけ?あたしも泳ぐの好きだしさっ、ちゃんと練習してなんとかかわりができるようにするよ。」
「いるかちゃんのタイムなら、いまのままでも十分……」
「でも、やるからにはちゃんとやりたいじゃん?」
「わかった。あ、でもあたし今日はこれから塾に行かなくちゃ……いるかちゃんも今日はこれでおしまいにしない?」
「あ……あたしは……もうちょっといてもいい……かな?」
「うん、もちろんいいけど。更衣室の鍵、預けておくよ。あ、さては……」
「……図書館に閉館時間までいるらしいの。そのあとここに来るっていってた。」
「相変わらず仲いいねー……」
「桂だって彼氏いるじゃん。何組だっけ?たしかめがねをかけた背の高い……」
「やだぁよしてよ。」
「いままでさんざんからかってくれたもんね。ちょっとはおかえししたっていいじゃない?」

いたずらっぽくウィンクをする。 思えば自分はさんざん彼女と生徒会長の山本春海のことをからかってきた―――
ささやかな仕返しは甘んじて受けなくてはいけないか。
頬に熱が上がってくるのがわかって、口元が緩む。
それを見て、余裕の表情で微笑む友人。
下から面白がってのぞく表情は小悪魔的ともいえる。

「もう……あ、鍵はこれだから。じゃ、お先に失礼するね。あんまり無理はしないでね。」
「うん。わかってる。またね。」
「じゃ」




里見学習院高等部は校舎の屋上にプールがあった。
校舎をとりかこむ木々もここまでは高くない。
水に浮かびながら周りを見渡すと、
空と、自分と、世界がそれだけになったような錯覚を覚える。

ふぅ……・・
疲れたわけではないけれど、水の抵抗が少し重く感じる。
気がつけば夕陽が正面にあった。

ああ、いまこの夕陽と自分のあいだには何もない、

雲が透けて、溶けそうな色をしている。

今なら、この光の中に溶けてしまっても後悔しないな―――

このひかりと一体になって
あの雲に吸い込まれて
あの色の中に自分を溶かしてしまいたい、

自分よりずっとずっと大きなものの懐に抱かれるようにして
自分を消してしまいたい。

滑らかな水面はすっかり夕陽色に染まり
ゴーグルもキャップも取って水と戯れる。

静かだ―――

遠くから帰宅する生徒たちの声が切れ切れに聞こえ
グラウンドからは掛け声が届きはするものの
ここはまるで別世界のようだった。

自分がたった一人取り残されたような
奇妙な寂しさが心に滑り込んでくる。
春海にも、もう会えないような―――







「あれから十年か……」

エアコンの効いた図書館から外に出て、
春海は熱気のおさまりきらない夕方の風を心地よく感じていた。
身体にまつわりついていた冷気がじわじわと離れていく。

彼女にはじめてであった八歳の夏。
出会って、別れて。
幾度か出会いと別れを繰り返してきた。

まるっきりカナヅチだったいるか。
名前も聞かないまま泳ぎを教えた、
あの夏からちょうど十年がたっていた。





プールにはいるかが一人でいた。
扉の音に気がついて、こちらに向かって泳いでくる。
飛沫もあげす、すうっと近付いてきた。


「待った?」
「うん……」
「……何だよ、いつもはお前が待たせるくせに。」
「そうだよね。ゴメン。」
「……いやに素直じゃないか。どうかしたのか?」
からかいを含んだ声が耳をくすぐる。
「ううん……何でも。もう、あがるよ。」

もう、二度と逢えないような気がしたなんて―――言えない。

ほら、と春海が差し出したバスタオルを受け取る。
軽く顔を拭いて肩から羽織った。
「身体を冷やしたんじゃないのか?」
「え?」
「ほら……唇が少し青い。悪かったな、待たせて。」
「ううん……」
心配そうに顔を覗き込む。
手の甲が体温を移すように頬に触れてくる。
下唇を親指がゆっくりとなぞっていく。
触れるか触れぬかといった感触に、思わず視線を泳がせた。

夕陽が―――あたたかい。
熟れきった陽の中で体温を戻すように
いるかはしばらく立ち尽くしていた。


気がつくとバスタオルごしに春海の腕に包まれている。
「……春海、ぬれるよ……」
夕陽に目を向けたまま語りかける。
肩を抱く春海の指先にふと目が留まる。
ペンの当たる関節のところが少し赤くなっている。

―――大変だよね、受験勉強も―――

そんな彼の指先がなんだかいとおしくなって
少し痛々しい中指に軽く口付けた。
振り返って春海を見上げると
照れて困ったような表情を浮かべている。
ふんわりと熱を帯びた彼の頬に手を添え
はじめて、視線をあわせた。

「……お疲れさま」
「……あぁ……」

こんなやさしい微笑を向けられたら
疲れなんて忘れてしまうさ―――

自然と肩を抱く腕に力が加わる。
「春海、ぬれるってば……」
軽く嗜めるような言葉も
春海の耳には煽っているように聞こえる。
「かまわないさ……」
前からも後ろからもあたたかなものを感じて、頬に血の色が戻っていくのがわかる。

「もう平気だから……」
そう言ったところで、彼が腕をほどかないことはわかっている。

水から上がったばかりの身体が重い。
心地よい疲れが、全身に広がっている。

こんなふうに、おとなしくしていられるようになったのはいつからかな……

そんな昔ではない気がする。
でも、忘れたわけではない。
あのころ感じた胸の高鳴りを。

春海は、ちゃんと待っててくれた。
私の歩みがゆっくりなのにあわせてくれた。
だから―――今、こうして、こんなに自然にそばにいることができる。
ありがと。春海。
面と向かってはなかなかいえないけど、
あなたを好きでいた自分を誇りにおもうよ。

川面に映る 夕陽は熟れる……
あの時は川だった。
鹿々川に夕陽は照り映えて、まぶしいほどだった。
いまは、プールに夕陽が映っている。
風にさざめいて、かすかに波立つたび光りもまた千切れ揺れる。

あれから10年か……

名前も聞かないまま別れて、あのあとずいぶん悔やんだ。
勝手に東京に連れ戻した両親を恨みもした。
でも、やがて忘れていって……
再会したときさえ覚えてはいなかった。

10年後、こうして一緒にいるなんて―――

「春海……覚えてる?」
「ああ……」

感慨深げな言葉の響きに、彼もまた自分と同じことを考えているのを知る。

あれから10年も。
そして。
この先10年も。

きっとそばにいる。
きっと、二人でいる。
こうして、二人で同じ景色を見つめていく。
同じひかりに包まれていく。













「お待たせ……あっ!」
「なんだ?」
「あたし、ゴーグル忘れてきた!とってくるっ!」
いるかは春海の手にかばんを預け、小走りにプールサイドへ戻っていく。
「いるか、プールサイドでは走るなよ……って聞いてないか。……おいっ!!」

「あっ……き・・ゃぁぁぁぁぁっ!!!!」

ザッバーンッッッ!!!!!

ぷは―――っ

「……ったく、何やってんだよ、おまえは……平気か?」
春海も慌てて―――でも走らずに―――プールサイドにやってきた。

「おまえ、気をつけろよ。水んなかに落ちたからいいようなものの、頭でも打ったら大変だろ。」
「えへへっ」
「いるか、わらいごとじゃない。」
春海は珍しく真剣な口ぶりだった。
「ゴメン……今度から気をつける……」
しゅん、としているいるかに手を貸して引き上げる。

水を吸った制服は思いのほか重かった。
いるかはスカートの裾を絞り
身体にまつわりつく夏服をいかにもうっとおしげに眺めた。
「あーあ、びしょびしょ。どうしようかなぁ。今日は着替えも置いてないんだ、あたし。」
「うーん……なら、うちに電話して着替えを届けてもらったらどうだ?」
「あ、そーだね。そうしよっと。じゃ、あたし電話してくんね。」
「あ、それはおれが。」
「え?いいの?でも……なんでまた?」
「いや……その格好ではさ、ちょっと。」
「……え?あ、そうだね。水が滴ってるもん。廊下をぬらしちゃうね。」
「いや、そうじゃなくてさ。……おれは別にきらいじゃないけどね。そういうのも。」
「へ?」
「いや……ともかくおまえんちに電話してくるよ。」
「あ……ありがと……?」

救護室からタオルを探し出しているかに手渡すと
春海は出て行った。

―――きらいじゃないって……何が?

春海がドアを閉めて数秒後。
いるかの短い叫び声が聞こえた。

真っ赤になっているいるかを想像して、春海は笑いをこらえるのに必死だった。






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