10 years | |
「春海くん」 「あ、こんにちは。ご無沙汰しています。」 シルバーのフレームのサングラスをした葵はいるかの姉、でも通りそうなほど若い。 道端に停められたアルファロメオの渋い赤に負けない堂々とした物腰に 道行く人が何人か振り返る。 「これ、いるかの着替えよ。ごめんなさいね、こんなことにあなたを使って。」 「いえ、これくらい」 「ね、今日はこれから何かご予定があるの?」 「いえ、これといって別に。」 「もしよろしかったら、うちにお夕飯を食べにいらっしゃらない? 今日は如月もいないし、ぜひそうなさってくださいな。 いるかもきっと喜ぶわ。 あの子、いつもあなたのおうちにお邪魔してばかりでしょう。 たまにはうちにもいらしていただかないと。」 そういって葵はサングラスをはずし、 いるかとよく似たはしばみ色の瞳で微笑んだ。 笑うとこの二人はいっそう似ている……春海は新たな発見をした。 やさしげで、愛嬌があって、誘いを断るのはとても難しい。 「……ご迷惑でなければ、ぜひお伺いさせていただきます。」 「そう?よかったわ。私、先に帰って準備しているわね。 いるかと一緒にいらしてくださいな。……じゃ、お待ちしているわね。」 今一度微笑が浮かぶ。 晴れやかな表情は鼻立ちの美しさだけで作れるものではなかった。 その笑顔につられて自然と他人は従ってしまう。 似たもの夫婦とは言うけれど、いるかの父である如月鉄之介にもそんなところがあった。 「では……のちほどお邪魔します。」 春海は未来の義母に軽くお辞儀をした。 暑さも彼女をよけて通るようだった。 よどみなく流れるような動きで運転席に収まり帰っていく。 風のような人だな、と春海は思った。 こんなところもいるかによく似ている。 自由で、気ままで。 好きになって、付き合うようになって、婚約までしているのに いつまでたっても彼女を捕まえられた、という気がしない。 いつまでたっても、追いかけている気がする。 逢いたいと思う気持ちも 抱きしめたいという思いも 彼女を絡めとるかわりにすり抜けてしまう。 そして捕まえれば風は風でなくなってしまう。 いろんなものに縛られている自分。 風のように軽やかな彼女。 好きだ―――という想いと同じくらい憧れている。 失いたくない、側においておきたい。 天女の羽衣を隠した漁師の気持ちがよくわかる。 葵に預けられた着替えを隠して 少しいるかを困らせてみようか――― 今頃いるかは救護室をひっくり返して 身を覆うものを探しているだろう。 ―――いや、あのままじゃ風邪ひくな。 とりあえず春海の中で天使が勝利した。 「おい……誰だよ、あの美人。」 「え?」 巧巳だった。 練習を終えて、いま帰ろうとしているところなのだろう。 夏の甲子園も終わり、春海は他の外部受験者と同じように部活動から引退している。 プロとしての将来を嘱望されている友人は、春海がいなくなった野球部に残って後輩の指導や自分のトレーニングに余念がなかった。 「いま、車に乗ってった人。やけに親しそうだったな、お前。」 「……何を想像してんだよ。あの人はいるかの母親。」 「えっ、そうだったのか?そういや、似てた……ような気もするなぁ…… しっかし……いるかも将来はあんな感じになるのかなぁ……」 「さあな。若いころの写真を見せてもらったら、確かにいるかによく似てたけど。」 「ふーん……」 巧巳はアルファロメオの去っていった方角をどこか名残惜しげに見つめている。 春海は白球を追うのはこの夏限り、と決めていた。 ついに彼から四番の座を奪うことは叶わなかったけれど、 それはそれでいい、と思う。 自分は一生懸命やった。 負けた、とは思わない。 敵わなかったけれども。 自分よりもいま少し日に焼けている友人を後目に、春海はいるかのところ へ帰っていった。 春海を呼ぶんなら待っててくれればいいのに――― いるかは春海から今夜の夕飯に呼ばれた旨を告げられ、そう思った。 しかしすぐ母の心遣いを読み取った。 いるかはここのところずっと春海と過ごしていなかった。 遊びに行くのはもちろん、休みに入ってからは学校でもめったに顔をあわせることがなくなっていた。 だから――― 二人でゆっくり帰っていらっしゃい、というつもりなのだろう。 ―――いいトコあるよね、かあさん。 いるかは久しぶりの二人一緒の帰り道、ずっと笑顔を絶やすことがなかった。 「ただいまっ!」 「お帰り。春海くん、いらっしゃい。」 「お邪魔します。」 「あたし、もうおなかすいちゃって。すぐご飯でしょ?」 「ええ。準備はできてるわ。着替えてらっしゃい。春海くんは居間で待ってていただける?」 「はい。」 「じゃ、ちょっと待っててね。着替えてすぐ来るから!」 パタパタパタ、と軽快な足音を立てているかは二階へと消えていく。 ―――よかった、これ買っといて。 いるかはクローゼットからまだ一度も袖を通していないワンピースを取り出して広げた。 淡い鴇色が気に入って買ったものの、今年はこれを着る機会はないだろうと思っていた。 肩の開いた五部袖のデザイン。 ウェストは締まって膝丈の裾はフレア仕立てになっている。 出かけるわけじゃないもんね、とアクセサリーの類はしないことにして素足にスリッパを引っ掛けて階下へ降りていった。 「いるか、これ持っていって。」 居間に行く前に顔を出したキッチンでいるかは葵にお盆を手渡された。 「ウン。なんか手伝わなくていい?」 「こっちはいいわ。お客様のお相手をしていて。」 「ん。わかった。」 「……お待たせ。」 心地よい音楽に身をゆだねながら春海は軽い眠気に襲われていた。 「……ありがとう。」 薄荷の香りのする冷たいタオル。 ミントのリキュールに発泡水。 暑いところをやってきた客に対する心遣いだろうか。 軽いアルコールが疲れを和らげていく。 身体は疲れていないのに頭だけを使う日々を送っていた春海には 久しぶりの休息だった。 それに何より、すぐそばには彼女がいる。 一人掛けのソファに浅く腰を掛けて背筋を伸ばして。 うすいオレンジピンクのワンピースははじめてみる。 「……よく似合ってるよ、それ。」 「……ありがと。」 そういっているかは少しだけ目を伏せた。 こんなとき見詰め合って微笑みあえるほど春海の視線に慣れていないのだ。 付き合って、婚約して、何年たっても。 その様子がいじらしくていつまでも見つめていたくなるけれど ややあって視線をそっとはずしてやる。 そうすることで彼女は伏し目がちにしていた双眸をやっと上げる。 ややロマンティックな内装のこの部屋に彼女が華を添えていた。 Aqua de Beber …… Desafinado…… ボサノバの軽くけだるい旋律が 二人の耳をくすぐるように 流れて続けている。 春海は左手をいるかに差し伸べた。 その意図するところを考えるかのようにいるかはちょっと小首を傾げた。 なるべく小さく笑うように意識しているような微笑。 本当はもっと弾けるように笑いたいのに 瞳の奥に本音を隠したように微笑む。 扉の向こうを少しだけ意識して。 一呼吸おいて、いるかはそっと右手をその上に重ねた。 軽く触れるだけだった彼女の指をくるむように、そっと撫でる。 指を一本一本絡めていく。 何も話さなくてもいい。 しばらく見ることの叶わなかった姿をただ見つめていたい。 しばらく触れることのなかった甘い指先を皮膚に覚えさせたい。 彼女の髪の伸びたのに気づくほど 会っていなかったのだ。 そしてこれからはもっと逢えなくなるだろう。 受験―――卒業―――そして違う大学へ。 あと何年、こうして離れていなければならないのだろう。 出会って10年――― では、10年後は? やはりこうして彼女は傍らにいてくれるのだろうか。 そのころ自分は今より力をつけて 社会の波を掻き分け泳ぐことができているのだろうか。 手始めに大学受験―――そしてその後にも続くいくつもの競争を乗り越えていくこと。 自分を待ち受けるものの大きさに気が遠くなることもある。 そしてそんなときはいつも―――いるかに会いたくなる。声が聞きたくなる。 不安と呼べるほど明確な感情ではなくて。 疲れた、といえるほどこの状況に倦んでいるわけでもなくて。 ただ、無性に――― 「お支度ができたわ。春海くん、こちらにいらして。いるかも。」 葵にそう促されて二人は席を立った。 それと同時に二人のあいだにかかっていた薄紅色の靄も すぅっと消えていった。 三人で囲む食事は初めてだった。 給仕はお手伝いの人に任せ、葵も食卓についた。 「あったしもーおなかぺこぺこ!」 大げさなくらいいるかははしゃいでいる。 「ハイハイ。まったく……おまえって子は婚約者の前で いつまでそんな色気のないことを言ってるのよ。」 軽く嗜めるように葵が言う。 「えー、だって今日はいっぱい泳いで疲れたんだもーん!」 屈託のない笑顔に春海のかすかな緊張もほどけていく。 「これおいしー!!!」 「おかわりない?」 「春海、もっと食べなよー」 いるかの食べる量は相変わらず結構なものだが がつがつ、というよりするり、と胃に収まっていく。 気がつくといつの間にか皿が空になっているという按配である。 この小さい体のどこにあれだけの食べ物が入ってしまうんだか、いつものことながらまったく春海には不可解だった。 新種の消化酵素でもあるんじゃないかという考えがよぎってひそかに苦笑いする。 葵は久しぶりに見る娘の婚約者をそれとなく注視していた。 いまさら値踏みもないのだが、こうして夫のいないところで彼に会うのは初めてだった。 このごろいるかは少し元気がなかった。 たぶん、原因は彼だろうと想像していた。 いくら秀才の誉れ高い彼でも受験勉強をおろそかにすることはできないだろう。 娘は気が強いわりに彼に対しては言いたいことを飲み込んでしまうところがある。 能天気で悩みなどと無縁だろうと思っていた彼女も 年頃になればそれはそれ、ため息の一つも似合うようになっていた。 電話のまえでしばらくじっとしていたかと思ったら 居間をぐるぐると歩き回ったり 掛かってくる電話の音に過敏に反応したり。 見守ることしかできないのだと、わかっていた。 たまには素直におなりなさい、きっとよろこんでくれるわよ、と何度言いかけたことか。 彼の勉強の邪魔をしたくないという気持ちが痛いほどわかって 見ている自分のほうが切なくなる。 今、彼に微笑みつつ食事する娘のうれしそうな姿を見て知らず口元が緩む。 娘の恋愛の後押しをしてやるなんて、わたしもそんな年になったのね。 鉄之介さんと婚約したのはついこのあいだのことのようなのに。 気がつけばいるかも自分と夫が出会った年齢になっていた。 ―――大人になったわね、いるか。 「……でね、代々木の体育館。 やっぱりさ、出るからには勝ちたいよねー…… 春海さ、……」 しゃべる合間にもいるかの皿に乗せられていたローストビーフはなくなっていく。 そして彼はというと――― はじめて家に来たころよりいっそう大人びて落ち着いて見える。 礼儀正しく、物腰も品があり、非の打ちどころのない完璧の見本のような青年―――だと思っていた。 特に夫と話しているときは、未来の義父子というより仕事仲間とでも話しているようだと思っていた。 こんな青年と破天荒を絵に描いたような娘が一緒になってやっていけるのだろうか。 数年来葵の胸を去らなかった一抹の不安だった。 でも―――心配いらないみたいね。 葵は愉しげな二人にしばし見惚れていた。 いるかを見る彼の目の、なんと優しいことか。 物静かな眼差しの中に他人に気取られぬほどの情熱を隠している。 当たり障りない会話を自分にも振ってくるものの、その視線がいるかを離れることがほとんどない。 いるかは隠し事のできない子だ。 何を考えているか、すぐわかる。 今は―――うれしくて仕方ないのね。 そのワンピース、けっこう似合ってるわよ。 迷ってたみたいだけど、買っといてよかったわね。 感謝しなさいよ。 鴇色のシルクサテンのワンピースを着た娘は、母の眼にもまぶしいほど愛らしかった。 夜風が心地よく頬を滑っていく。 まだそんなに遅くないからと、いいよ、と春海が言うを制して駅まで連れ立って歩いていた。 一雨来たのだろうか。 かすかな湿り気とアスファルトのにおいがした。 流れるようにふたりの脇を過ぎていく車のライト。 そして人の大きな流れが武道館から駅に向かって続いていた。 「コンサートが終わった後みたいだね。」 「そうだな。」 「みんな楽しそう……そういえばあたし武道館って剣道の大会以来行ってないなぁ。」 「おれもだよ」 「……男の人も結構多いね。」 「大学生なんかが大半だな……」 コンサートの熱気覚めやらぬ人々は歩きながらも歌を口ずさんでいる。 あれから10年も……これから10年も…… 「あ、この歌知ってる。」 「ああ、おれもどっかで聞いたような感じだな。」 大切なものは何か 今も見つけられないよ…… やや調子っぱずれな歌も許してしまえるほど 都会の夜は優しい。 「おれは……」 「え?」 「おれは見つけたけど。」 きょとんとするいるかの頬に軽く指をすべらせ 春海は彼女が人ごみに流されないよう小さな肩を抱いた。 ―――しかも、とっくの昔にね――― (終り) |
「10years」によせて 「水無瀬さんは、どんな10年をお書きになるのかしら?」 ―――作品の発表をとても楽しみにしていました♪ 楽曲のリクエストに応じて創作してくださる、とのお言葉にめちゃくちゃ喜びながらも、その選択には悩みまくりました。 でも、あるとき、ふと気がつきました。 「10年」という言葉は、原作・倉鹿編のなかでひとつのキーワードになっている、ということに。 扉絵に描かれた10年後のいるかちゃん。 「10年前っていにしえだと思っているだろ」と語る伊勢コーチ。 そして最後を締めくくる「10年たっても20年たっても…」のモノローグ。 そして、その「10年」=10yearsがずばりタイトルになっているうたを、思い出したのです。 ただ、渡辺美里さんがうたっているのは、楽しく明るいばかりの年月ではありませんでした。 青春時代に誰もが感じる、そこはかとない孤独感や焦燥感。 妙に気負ってみたり、自意識過剰に陥ったり。 将来への、ぼんやりとした不安。 だけど、この年代にしか持ち得ない感受性の鋭さや純粋さ。 この辺の心の機微を描いていただきたいと考えました。 登場人物はいるかちゃんでも、春海でも、他の仲間たちでも誰でもいいと思っていました。 そして、出来上がった作品を読ませていただきました。 ……なんて素晴らしい! 私の望んだ世界が、目の前にぱあっと広がっていきました。 大きな夏の夕空を背景に。 ドラマチックな展開にはなりにくいテーマだろうな、とは思いましたが、水無瀬さんはそのぶん淡々と、かつ丁寧にそれぞれの心象風景を描いてくださいました。 そうそう、後編に登場する葵さん、颯爽としてます。 わたしはちっともかっこよくないけれど(笑)、自分も母親になったせいか、共感するところがありました。 いるかちゃんと春海は、まるで我が子のような気がするときありますもの♪ 18歳から28歳へと、おそらく共に人生を歩んでいく二人はどのような10yearsを過ごしていくのでしょうね。 ラストシーン、調子っぱずれな「10years」を歌っているのは 実はあの頃のわたしです。 「大切なものは何か 今も見つけられないよ」 まさにそんな気分でした。 でも、最近はそういうバカバカしくも一所懸命だった頃がとても懐かしく、いとおしく感じられてしまうのです。 最後になりましたが、この作品を書き上げてくださった水無瀬さまに、心から感謝いたします。 難産だったと伺い、申し訳ない気持ちもいっぱいですけれど。 本当に、ありがとうございました!! 2004年1月18日 愛をこめて ふう |