後悔していることが、ひとつだけあります―――
その人は赤い花に視線をやったまま、そう云った。
「赤い花、白い花」
からからから、と引き戸の開く音がした。
「春海ーいないの?」
昼下がりの静けさを破る、ひときわのびやかな声。
その声に続いて廊下のきしむ音がする。
やがてここへも探しに来るだろう。
私は隠れて探し当てられるのを待つ、子供のような気分になる。
―――声の主は、よく知っている。
「春海?」
こころもち遠慮がちに開けられた扉から
小柄な、明るい髪の少女がのぞく。
白いワンピースが庇からわずかに漏れる西日を反射して
目を射るようだった。
「春海なら先ほど出かけましたよ。すぐ帰ってくるといっていましたからじき戻るでしょう。」
隠れ鬼で見つけられた子は
半ば悔しく、半ばほっとする。
私は読んでいた地元紙をとじて
声の主に答えた。
「あっ……いらしてたんですか?ごめんなさい!勝手に上がって……」
「いいんですよ。
ここもあなたの家のようなものです。」
そう云うと少女は少しだけ頬を染めた。
―――変わらないのだな。
そう思った。
知り合って数年たつ今も
少女は素朴な娘らしさを失っていなかった。
都会育ちというよりはここ倉鹿で生まれ育ったというほうが似つかわしいような
気取りのない楚々とした態度が好ましかった。
「その花は?」
少女は新聞紙に包んだ花を大事そうに抱えていた。
「あ、これは湊、いえ友人がくれたんです。家に遊びにいってたんですけどきれいだねって言ったらお母さんが切り分けてくれて。」
「そうですか。こちらの人は花を大事にしますから。」
「ええ、ほんとうにきれいですよね。あ……活けてもいいですか?春海にあげようと思ってもらってきたので。」
「ええ、もちろんです。喜びますよ。
わたしは花に疎いがあれは母親の血を引いたのかこういったものが好きらしいから。」
そうですよね、と嬉しそうに笑顔を浮かべて
少女は居間のテーブルの上に花を置いた。
夏らしい、濃い色の葉の間からのぞく鮮やかな色の花。
葉の厚み、茎の伸びやかさ。
健やかに育まれた美しさが眩しい。
いつもは感じることさえ忘れてしまうが
ここに来ると、いつも思い出す。
春を、秋を、冬を、―――夏を。
「……その花……」
「これですか?」
彼女が手にしていたのは夏になるとよく軒先から姿を現す朱に近い赤い花だった。
「なよなよしているからひとりではうまく立たなくて……お好きなんですか?」
「いや……思い出したことがあったものだから……」
そして私は記憶の扉を開ける。
いまだにちりりとした痛みを伴わないでは思い出せないことを。
大人っぽく結い上げた黒髪が、艶々としていた。
大学が夏休みに入って帰省した倉鹿で出会った彼女は
少し別人のような気がした。
ちょうど今、自分の目の前にいる少女と同じ年頃だっただろうか。
すっきりとした柄ゆきの浴衣は彼女にとても似合っていたけれど
何かが足りないような気がして
そばにあった花を手にとって、彼女の髪に挿した。
それまで大人しやかだった表情が一瞬、少女のそれに戻り
少しほほを赤らめて、彼女は目を伏せた。
自分は、いつかこの人と結婚することになるだろうな―――
そのとき思った。
そして数年後、そのとおりになった。
花を見ることなど、久しくなかったようだ。
むろん、目にはしているのだろうが意識してみることなど絶えてなかった。
忘れていたいものを思い出させ
感傷的な気分を呼び起こす。
倉鹿は、そういう街なのだろう。
何もいわず、手元の花をじっと見つめる自分をどう思ったのか、
息子の婚約者はその花を差し出した。
自分もまた、何も言わず受け取った。
蔓性の植物のせいか茎が弱々しい。
花は記憶にある色と同じ色、同じ形で
やさしげに丸みを帯びた花弁が重なり合っている。
あれも、夏だった。
知らせを受けて東京から戻り
病院の彼女の元へと悪夢を見るような気持ちで急いだ。
わたしのほうが先に死ぬはずだったのに―――
年の差からいっても、平均寿命の差からいっても
わたしのほうが君より先に逝くはずだったのに。
死ぬ前になんと言い残すかも
考えていた。
ありがとう、幸せだったよと、そういい残すはずだった。
どんな人生を歩んだとしても
きっとそう言い残して死のうと思っていた。
なのに、先に逝くなんて。
葬儀のあと、ひっそりとした家でぼんやりと前栽を眺めていた。
あれは隣家のものだったのだろうか。
これと同じ花が咲いていたのを覚えている。
そして、わたしは、後悔した。
いま一度、もう一度だけ
君の髪に花を挿してあげたかった、と。
おそらくわたしが後悔しなくてはならないことはもっと別のことなのだろう。
留守勝ちでいつもひとりにさせてしまったこと。
子供たちの面倒もこれといってみなかったこと。
けれど、季節外れの白い菊の花に埋もれるようだったなきがらを思い出して
後悔したのは―――
「あの……?」
少し心配そうな大きな瞳が自分を覗き込んでいる。
「……何でもありません。大丈夫です。」
安心したらしく彼女は小さなため息をついた。
紅をほんのりと差しているものの幼げの残る笑顔の少女だった。
似ているところなど、どこにもない。
髪の色も目の色も。
けれど同じ年頃というだけで
人はどこか似てくるものなのかもしれない。
大人になりかけのふとした瞬間の表情の揺らぎが
思いもかけず、よく似ていた。
柔らかそうな、明るい髪は無造作に上げられて
髪留めでとめられている。
しっとりと手に重いこの花を飾れば
きっともっと愛らしくなる―――
手の内にある細い茎を少し残し、花を切った。
柔らかな茎はそれでもそう簡単には切れなくて
爪には樹液が残った。
右の手のひらに花はすっぽりと収まった。
けれど。
それはわたしのすることではない。
どこからか幾つかの花瓶を見つけてきた彼女は
ためすがめつ花を挿しては少し離れて見ている。
よしずがかかって光のあまりささない居間が
華やぎはじめる。
前栽を揺らしていた風がチリン、と青銅の風鈴を鳴らした。
少し風が出てきましたね、と
彼女は言った。
そうですね、と答えた。
いつか、こんな会話を交わしたような気がする。
やわらかな時間
やわらかな言葉。
こんな時の重ね方があることを長いことわすれていた。
「……そうだ、いるかさん。」
「はい?」
「春海に聞きました。先日一緒に墓参りに行ってくれたそうですね。ありがとう。」
「いえ……」
少女は手を止め、視線をふっと上げた。
目が合った。
その目は不思議な悲しみを湛えているようにみえた。
無邪気なもの思いを睫毛の下に忍ばせているようだった。
胸のうちを推し量ろうというのではないが
心の奥まで見通されてしまいそうな
澄んだまなざしだった。
正直なところ、自分は少々戸惑ったのかもしれない。
あやふやに微笑み返して視線をはずした。
風鈴が、また鳴った。
手のひらに収まっている花は、しっとりと重かった。
後悔していることが、ひとつだけあります―――
花を弄びながら独り言のようにつぶやいた。
―――もう一度、会えるなら。
はにかんだ笑顔。
伏せたまぶた。
艶を含んでしなやかな黒髪に、この花を。
虚空につと伸ばした手から、花がこぼれて、床に落ちた。
「……活けてきます。」
彼女はそういって部屋をあとにした。
そして、私は居間に一人、残される。
この、時が止まったような場所で
静かに時が凝ったような家で
自分の時間を使い果たしてもいいような気がした。
からから、と再び扉を開ける音がする。
「…ただいま帰りました……あ、いるか?来てたのか。」
自分に対するのとはまったく違う親しげな口調で
息子は彼女に言葉をかけていた。
台所から二人の会話が漏れ聞こえてくる。
「湊んちから直接来ちゃったの。みんな元気だったよ。
女の子ばっかりだったけど結構集まったんだ。」
「そうか。」
「あ、お花もらっちゃった。すぐに水にさしたほうがいいかと思って花瓶勝手に借りちゃったけど。」
「父さんは?」
「居間にいらっしゃるよ。あたし鍵開いてたから勝手に入っちゃって。お父さんがいらしてびっくりしたよ〜」
「ああ、昨夜急にこっちに来るって電話があってさ。朝電話したらお前は出たあとだったし日向の家にわざわざ電話することもないかと思って。」
「春海、帰ったのか。」
「あ、お父さん。……もう帰るんですか?」
「ああ、さっき事務所から電話があって繰り上がった仕事があるらしくてな。
二三日こっちにいる予定だったんだが。」
「そうですか。今から駅へ?」
「ああ。」
「……仕方ないですね。駅まで送ります。」
「いや、いいよ。車は呼んである。墓参りだけは済ませたいから寺によって、その足で駅へ向かう。」
春海は私の来たり帰ったりの突然なのには慣れているが
彼女はそうではないらしく
あまりにあっさりとした別れに言葉を見つけられないでいる。
―――ではまた、とだけ言い残し
玄関前に横付けされた車に乗り込み
二人に見送られて家をあとにした。
石畳を走る車の乗り心地はそうよくはない。
木陰から木陰へ、光の間を縫うようにして車は走っていく。
ラジオから流れてくるのは甲子園の実況中継。
つい耳を傾けるが今年からはそう真剣に聞くことはないと気づいて小さく苦笑いした。
―――七年が経った。
小学生だった春海は大学生になり
幼稚園に通っていた徹も中学生になった。
七年という月日は子供が大人になるには十分な長さだが
自分にとっては徒に流れるだけの日々だったようにも思える。
こうして何とか時間を作って
一年に何度かこの場所を訪れるけれど
倉鹿は―――君とのつながりが深すぎる。
ここへ向かう足取りは軽いものではないのに
いったんここへくると、帰りたくなくなる。
君は、こんなわたしを笑うだろうか。
彼の世とやらでであったら
わたしを覚えていてくれるだろうか。
名を呼んでくれるだろうか。
―――許してくれるだろうか。
白い花―――
日の傾きかけた墓所の中で
闇に溶けまいとする色が浮かんでいた。
香りを頼りにしてもたどり着けそうな
濃くあまい香りがあたりに漂っている。
供えたときは蕾も多かったのだろうが
いま、それらはすべて開ききり、緑の葉も見えないほどだった。
掃除の行き届いた墓所では特にすることもなく
ただ墓石に少しばかりの水をかけ
手を合わせた。
ここにくれば君に会えると思うほど信心深いわけじゃない。
けれど、この百合は、自分が来るのを待ってくれていたように思えてならない。
―――百年待ってくれますか―――
待てというなら、待ちもしよう。
ただゆるゆると時が過ぎるのを、この場所で待っていよう。
もう、時間はわたしにとって何の意味もないのだから。
供えられている百合を一本だけ手にとり
大事に抱えるようにして山門を降りていった。
エアコンを効かせておくためだろうか、エンジンをかけたままのタクシーが待っている。
「駅へ。」
短くそうとだけ伝えて
彼はそっと目を閉じた。
その手には開ききって花弁が落ちそうになった百合が握られていた。
「……花みたいだな。」
「……花?」
「そう。……赤い……花みたいだ。」
指先で一つ一つをなぞりながら春海は言った。
少し肌の色になじんで薄くなってはきていたが
鬱血した痕は容易には消えそうになかった。
唇の形が残る痕は
消えかけの花の刺青のようにも見える。
「……違うよ……。」
「……え?」
思いもかけないいるかの言葉に
春海ははっとして薄暗がりの中で彼女の表情を確かめようとした。
どこか遠くを見つめているように焦点の甘い瞳。
いるかは床に落ちていた赤い花を手にとって
いとおしむように両の手で包んだ。
「……赤い花は、髪に挿すの……
胸に咲くのは……白い花だよ……。」
「いるか……?」
「……そういう歌があるの……」
(ヲワリ)
ふうさんよりのコメント
出来上がった作品をわくわくしながら
読ませていただきました。
そして読み終わったら・・・、ちょっぴりうるうるしてました
。
哀しいなあ、春海のお父さんもお母さんも・・・。
自分が結婚して子供ができたせいでしょうね。
最愛の妻を亡くした夫の後悔、それから自らの命より大切な夫
と子供を残して逝った妻の無念がひしひしと感じられました。
また、彼がある意味このように深い愛情を心に湛え続けられる
ことを羨ましくも思います。
きっと春海のお父さんにとって、倉鹿の町とあの家は桃源郷の
ようなものなのでしょう。
美しく穏やかな、帰りたい、だけど帰れないところ。
でも、きっと心の拠りどころはいつもあの風景の中にあるので
すね。
作品中「赤い花」は生命を、「白い花」は儚くなってしまった魂を表しているのかなと感じましたが、
そのあたりは勝手に解釈させていただいちゃいました♪
旧盆を迎えるこの季節にふさわしい・・・。
晩夏の風情にしみじみといたします。
背後でツクツクボウシが鳴いているような。
それから最後の二人の会話がしっとりと味わい深く、
たおやかな余韻を残してくれました。
うんうん、胸に挿すのは白い花のほうですよね。
罪深いヤツだ、春海は〜(でも素敵♪)。
また、今回もレイアウトが素晴らしいです!
冒頭から咲いていた、お話に登場する「赤い花」を調べてみました。
「ノウゼンカズラ」でよろしいのかしら?
お花そのものは家の近くでよく見ていたのですが、花の名前は知りませんでした。
お盆のころ、よく茄子や胡瓜で馬を作って仏壇に置いたものですが、
その脇にちょんと飾ると可愛らしいかななんて思いました(花が大きすぎるかな)。
それからこの曲を選んだ経緯について書かせていただきます。
勿体なくも2度目のキリ番リクエスト。
今回は楽曲ではなく詩や短編小説を題材にしていただこうかな、などとも考えましたがそれはどうもピンとこなくて。
というか、あんまり知らない(笑)。
また、楽曲といっても歌詩のあるものは具体的すぎて水無瀬さんのご想像の範囲が狭くなるかもしれないし、そうでないものはこちらの希望をお伝えしにくいし・・・、う〜ん。
とかなんとか思いあぐねてようやく出てきたのが「赤い花、白い花」だったんです。
何しろ「みんなのうた」ですから、歌詞はシンプル(最近はそうでもないんですけどね)!
けれど誰かを好きになったことがあるなら、想いを寄せずにはいられない歌のような気がしました。
そして、「花々のささやき」みたいに美しくどこか哀しい物語を書いていただけたら・・・と思い、リクエストを決めた次第なのです。
ほどなく、出来上がった物語を読ませていただきました。
・・・私の想像なんてはるかに超えた、素晴らしい物語です。
皆さまもこの感動を、ぜひ。