anniversary (後) |
いるかは何も言わない。 ただ口元にほんのりと笑みを浮かべて、大人たち全員を―――ことに春海の父を―――見つめている。 けれどその瞳は口元と対照的に大人しやかなものではなく、微笑んでいなければ少々傲慢ともとれるようなものだった。 春海の父の驚きを受け止めて悠然と微笑むその姿は、とても16の少女のものとは思えない。 決して飼いならされない野性の目、強い意志の力をもった、力でねじ伏せることのできない者の目、そして、人の上に立ち導くものの目だと、山本代議士は感じ る。 人物を鋭く見抜く経験をつんだ彼だからこそわかることであった。 こんな目を自分はどこかで見たような気がする・・・ 猛禽が服従より死を選ぶことがあるように、まっすぐで激しい気性を感じ取る。 従順そうな着物姿のうちにこのような気性が隠れていたとはどうして想像できようか。 たいていの人間が目を合わせることを避ける自分のまなざしさえ、平気で見 つめ返す。 この少女は、一体何者なんだ・・・ いや、この子は・・・ひょっとしてとんだ拾い物かもしれない・・・ 春海の将来については以前から気にかけていた。 もともと頭のいい子だ。 キャリアについては特に心配することもない。 法曹界に進みたければそれもよし、国家公務員になりたければそれもよし。 だが、いずれ春海は国を動かす人間の一人になる。 親の欲目ではない、確信があった。 本人もそのことはわかっているだろう。 自分の跡をそのまま継ぐかどうかはわからないが、代議士になるなら伴侶は慎重に選ばねばならない。 はやいうちに最良の伴侶を見つけておいてやりたかった。 見合いという習慣がやや時代遅れになりつつある昨今でも、政財界ではそれは未だ健在だった。 社会的な背景を無視した恋愛結婚はこの世界では眉を顰められることすらある。 「青田買い」は何も就職活動のときのみ使われる言葉ではない。 まだ結婚年齢には早すぎるうちから婚約を整えることも、それほどめずらしいことではなかった。 家柄、資力、人間的な資質、容姿、・・・代議士の妻に要求されることは数限りない。いざとなれば夫のかわりに立候補することもあるくらいなのだから。 だからこそ、人生の早いうちにもっとも条件の整った娘を、と思っていた。 それははやくに亡くなった妻への罪滅ぼしでもあったかもしれない。 四年前事故にあった彼女は二人の子供に心を残したまま世を去った。 仕事の性質上生活を変えるわけにはいかなかったが、親として彼らの進む道を均しておくことは自分の義務だと思っている。 だが、春海のため、とは思うもののやはり自分にも有利になる縁組を、という思惑も働く。 もっぱら外交問題を専門にする山本代議士は常々外務省内にもっと強力なパイプがほしいと思っていた。 偶然、たまには親らしいことも、と見に行った駅伝で彼女を見かけた。 これとて私学連会長への顔つなぎの意味もかねていたのだが。 ゴールも間近、沿道の声援は彼女一人のものだった。 それだけで、興味をそそられた。 遠目に走る姿をちらと見ただけだが、小柄でひた走る姿に惹かれるものを感じて、何者なのか、知りたくなった。 ゼッケン15のアンカー。 わかっていたのはそれだけだった。 学校名までは読めなかった。 秘書に命じて素性を調べさせたらなんと父親が外務省のキャリアだという。 しかも同期で事務次官に最も近いといわれている人物。 それだけ聞けば十分だった。 運命という言葉は大げさで好きではないが、この子しかない、そう思った。 意外だったのは春海が渋ったことだった。 まあ、学生時代には好きな子の一人もいて不思議ではないが、将来のことは将来のこととして受け入れるかと思っていたのだが。 しばらくなんだかんだと断る口実を作っていた。 なのに。 先月末、わざわざ事務所まで出向いて言ったのだ。 先方さえ承知なら、僕には異存ありません、と。 ただし先方が不承知ならどうか無理に進めないでください、と。 丁寧な物言いと裏腹に、春海の目には有無を言わせないものがあった。 そう、この目だ。 一見してわかるほど似てはいないが、春海と如月いるか、この二人には、同質の力がある・・・ あのときの声援からして学習院内外でも相当の人望があり、しかも春海とは旧知の間柄らしいし、親のことをおいても・・・この気性、将来の代議士 の妻 になるものとしては打ってつけかもしれない。 控えめに、けれど気丈に。 大人しいだけでは代議士の妻は務まらない。 里見学習院の生徒なら頭も悪くないだろうし、父方の祖父が倉鹿修学院の学院長というのは願ってもない。一気に人脈も広がるというものだ。 倉鹿で修学院といえば名門。そこと縁続きになれば地元の票が確実に集まる。 しかも着物姿も堂にいったもので、これなら今だってどこに出してもおかしくない。 これは、早々に手を打ったほうがいいな・・・ 彼の頭の中ではいろいろな計算が働く。 沈黙を破ったのは春海だった。 「・・・・もう、いいでしょう・・・」 春海がいった。 「おわかりですね。僕が彼女と会ったのは今日が初めてではありません。 彼女は中学二年の春に倉鹿修学院に転校してきて、僕と同じクラスになりました。そしてすぐ行われた鹿鳴会役員を選出する校内陸上オリンピックで僕と争い、 最後まで決着がつかず 前代未聞の会長二人ということになったのです。ご存知のように大変運動の得意な彼女ですから部活動でもさまざまに活躍していました。アクシデントがあって 惜しくも十分な結果が出せなかったこともありましたが。御両親が帰国するまでの一年五ヶ月を僕らは一緒に過ごし、この春に再会したというわけです・・・ 里見学習院では僕らが入学した当初、生徒会と学校側の癒着が暗黙の了解としてまかり通っていまして、僕たちが中心になって生徒会のリコールを成立させま した。里見松之介理事長のお力添えもありましたが、彼女の正 義感の強さと意思の強さが成し遂げたことです・・・ そして僕らは新生徒会役員として、僕は会長に、彼女は副会長に選ばれて今にいたっています。」 そしているかがやっと口を開いた。 「・・・初めてお目にかかったのは小学二年生の夏でした。 倉鹿に連れてこられた折にお父様も一度お目にかかっているのです。 川原で何人かで遊んでいた男の子達の、お一人でした。 私は彼に泳ぎを教えてもらい、危うく溺れそうになったところも助けていただきました。・・・高熱を出した、あの時です。お名前も存じ上げないままお別れ し、再会したのが中学二年生のときでした。あのときの男の子が春海さんだとわかったのはしばらくしてからのことでしたが・・・ 倉鹿では弟の徹さんともお親しくさせていただいておりました。お宅へも何度かお邪魔させていただき・・・」 いるかと春海の二人は初めて目線を合わせてにっこりと微笑を交わした。 もう 言うべきことは言ったね ささやかな復讐は済んだね お互いの目を読んだ。 母との約束は守った。 誰にも失礼のないようにした。 けれどさんざん振り回されたことへの仕返しはちょっぴりできたかなとおもう。 春海はエスプレッソを一気に飲み終えて口元をナフキンで拭き、席を立った。 いるかの座っているところへやってきて、 立ち上がろうとする彼女の椅子を引き、手を取って立たせる。 重ねられた手はそのままに、背中をそっと支えるよう包むようにして腕を回す。 いるかはそっと春海を見上げて微笑む。 ありがとう、など言うまでもないことのように。 何も言わなくても、そのしぐさだけですべてがわかる。 彼にとって、彼女がどのような存在なのか。 そしてごく自然に寄り添う彼女にとって彼がどのような存在なのか。 「・・・僕たちには見合いなど必要なかったのです。 ここからは三人でごゆっくりどうぞ。 僕たちは庭でも見せていただいていますから・・・」 16という年齢は少年と呼べる年かもしれない。 けれど春海は居合わせた誰よりも落ち着き払い、濃いグレーのスーツに身を包んださまは成人といっても十分通るだろう。 照れもせず女性をエスコートするさまも、それが昨日今日身についたものでないことをうかがわせるに十分だった。 いるかのいでたちは成人の日に巷で見られるような振袖姿とは一味違い、まるで明治時代の小説から抜け出してきた令嬢のようである。 ことさら作りこんでいない髪も、縮緬の無地の振袖も、その部屋の雰囲気と調和していた。 鉄之介は娘のそんな姿を見て、おもわず目を細める。 ふと、いるかと視線が合った。 ―――この人なら、いいの――― 大人びた表情は少しさびしげに見えないこともなかったけれど、その目は確かにそういっていた。 春海に促され、いるかもまた何事もなかったかのように三人に微笑み会釈をした。 そして彼らは二人連れ立って部屋をあとにした。 おりしもその時流れていたのは「プレリュード」だった。 誰にも気付かれぬまま、彼らの人生の前奏曲となって送り出すかのように。 クラヴサンは繊細でどこかもの悲しく、けれど旋律は華やかに弾かれる。 時の止まったような洋館に、しばらくその音色だけが響いていた。 ◇◆◇
「は----っ・・・」「これは・・・してやられましたな。」 「まったくです・・・・まさか、ふたりが・・・・」 「いやはや、なんと・・・」 三人は信じられないといったふうでしばらく唖然と二人の出て行ったドアを見つめる。 「しかし・・・・」 しばらくして春海の父が口を開いた。 「これは・・・かえって好都合ということですね。 これで婚約には双方異存がないということで・・・」 「おお、そういうことだな」 「そ、それは・・」 「如月君?何か問題でも?」 「いえ・・・問題というほどでは・・・ただ娘はまだ16ですし春海くんも同い年。 まだ婚約には早いのではないかと・・・」 「そうかねぇ。 まあ・・・実際結婚するのはもっとあとだろうが婚約に早すぎるという事はあるまい?」 「如月さんのお気持ちはわかりますよ。 あんな清楚なお嬢様、しかも一人娘でいらっしゃる。 少しでも長くお手許におきたいとお考えなのでしょう?」 「い・・いえそういうわけでは・・・それにあれはその・・・あまり清楚という性格では・・・」 普段の娘の様子を知っているだけに、鉄之介は複雑である。 この縁談は彼自身にとっては願ってもないものだったが、まさか一生猫をかぶっていろとは言えない。 政界への足がかり、または後ろ盾として山本代議士はうってつけの人物であり、その息子山本春海も娘の夫として文句をつけるところはない。 理知的なところも物怖じしない堂々としたところも。 彼はその父親より大物なのかもしれないとさえ感じた。 そして何より彼が見せた娘へのさりげない思いやりは、男親としては少々複雑ではあるもののやはりありがたいことだった。 けれど鉄之介には一抹の不安があった。 自由にのびのびと、と育てた娘がこの世界に入って生きていけるのかと。 いるかは結婚前の葵によく似ている。 姿だけでなく、性格も。 好きで一緒になった自分たちではあったが、結婚後は何かと衝突することが多かった。 原因はたいてい自分の仕事のことだった。 外交官という仕事上の付き合い、それに付き合わされる葵の立場。 自分を押し殺すことを強いられることへの反発はそのまま彼にぶつけられた。 離婚を考えたこともないわけではない。 それでも何とか乗りきって今までやってはきたが、いるかにはできるなら葵のような思いはさせたくなかった。 しかしこの場に来てしまっては、もう彼の力では断れない。 いるかも、それはわかっているようだった。 覚悟はできている―――さっきのいるかの瞳にそんな決意を読んだような気がしていた。 けれど根の単純ないるかのことでもあり、外務大臣を仲人として婚約することの重さを理解せず、ただ相手が彼ならば・・・と思ったのかもしれない。 鉄之介の思いは千路に飛びまとまらない。 だが、この場は承諾するより他にない――― 「まあまあ、当人たちが好き合っておるのなら何も問題はあるまいよ。 では正式な結納はもうしばらく日延べすることとして、内々で婚約ということでは?」 「そうですね。是非そのようにお願いいたします。私としては一日もはやくといいたいところなのですが、ここはお譲りいたしましょう。」 「如月君、これでいいかね?近いうちにお宅に伺って奥さんにもご挨拶しよう。」 「わかりました。・・・家内も喜ぶと思います。」 「では・・・祝杯といこうじゃないか!・・・きみ、KRUGをもう一本たのむよ・・・・」 ◆◆◆◆
「・・・寒くないか?」 「ううん、平気。こんなに陽射しが暖かだもの。」 屋敷の小ぶりなのに比して、庭は広く、丁寧に手入れされてあった。 枯野色の芝生に葉の落ちた木々に混じって常緑樹の艶やかな緑が鮮やかだ。 橘、柊、そして椿・・・ 凛とした赤と穢れのない白に目を奪われる。 赤い椿 白い椿と 落ちにけり・・・ 碧梧桐の句にちなんだのだろうか、椿の下だけほかと違って掃き清められていない。 美しい姿を保ったまま落ちた椿が赤、白と木の根元を飾る。 いるかはそっと花を拾って、振袖の袂を押さえながらそばの池に浮かべる。 ゆらゆらと水面を漂う椿はまたひとつ命を与えられたように美しい。 「つめたい・・・」 池の水にくぐらせた指先が赤くなっている。 春海は微笑んで、自分の白いハンカチを差し出して包むように拭いてあげる。 こんなしぐさも今日は当たり前だ。 元気そのものといった彼女はすっかり鳴りを潜めている。 淡い色の着物が芝の枯野色に溶け込んで、軽く結われた髪は日差しを反射しきらきらと輝く。口紅をひかなくても赤い唇が、さながら花のようである。 着物姿を見るのは初めてではなかったけれど、華やかな大振袖を着た彼女は大和撫子という言葉がまさにふさわしい、そんな感じだった。 大人しくどこか控えめな態度はあまりにも自然で、言葉遣いもしぐさも普段とまるでちがうことに気づいたのは食事もだいぶ進んでからだった。 息子夫婦がいるかを自由奔放に育てすぎた、と学院長はいつか言っていたが、なかなかご両親はしっかりした方らしい・・・春海はそう思った。 普段は普段として、こういった準公式の場に出たときにその場に適った態度が取れる。それはきちんと育てられた証であった。 父親の鉄之介は先日のうろたえた態度とは打って変わり、外務官僚らしい、いかにも仕事のできそうな人物に見えた。父のどこか威圧的な態度との違いは代議士 と官僚という立場の違いからくるものだろうか。 洗練された物腰と端正な容姿。 ものやわらかな口調は決して威圧的ではないのにどこか人を納得させる力がある。・・・もっとも娘に対しては 失敗したらしいが。 利害の絡み合うどろどろした国対国の交渉を何度も乗り切ってきた、その自信は態度にも表れている。 代議士を、大臣を目の前にして臆することなく淡々とした態度は人物の大きさも思わせた。 父がいるかを通してまでも味方にしたかったのがわかる気がする。 だが・・・・ 「ありがとう。」 いるかはハンカチを春海に差し出す。 指先だけがまだほんのりと紅い。 「・・・・」 「・・・春海?」 「おまえは・・・」 「え?」 「おまえは、これでよかったのか?」 「・・・よかったって?」 「だから・・・・・」 春海はうまく言葉を継ぐことができずにいる。 彼には父親の考えていることはわかっている。 今回自分たちのことが明らかになれば婚約に異存なしとうけとって、すぐにも結納にもっていくつもりだろう。いるかのことが気に入ったのはよくわかるが、外 務省に強いコネクションができることをも望んでいたのだから。 だからこそ、いるかのことをほとんど知らなくても見合いしろと勧めてきたのだろう。 少し調べれば自分たちのことなどすぐわかっただろうに。 そしているかが家出することもなかったのに・・・ いるかは、それがわかっているのだろうか。 「いいのよ。」 「え?」 「お父さんのことを気にしているんでしょう?私のことならいいの。 春海のお父さんは外務省内に気脈を通じた人間がほしい、私の父は政界に後ろ盾がほしい・・・そういうことなのでしょう、今回の事は。 たまたま私が春海のお父さんの目に留まって、たまたま私の父が外務省の役人で、ただそれだけのこと・・・ 利用されているって言えばそうなるんだろうけど、別にかまわないわ。 春海は春海だもの・・・ 皆に都合がいいなら、それでいいとおもう。 春海さえ、いやでないのなら・・・」 淡々と話す彼女は口調もいつもと違う。 それはどこか春海を不安にさせる。 「いるか・・・」 「それとも・・やっぱりいや?私では・・・」 「いやなわけないじゃないか・・・!」 「・・・本当に?」 「もちろん・・!」 「春海。」 ふと表情を改めているかは春海を見つめる。 「・・・ん?」 視線が、まともにぶつかり合う。 いるかは軽く息を吸った。 「わたし・・・愛してる。・・・あなたのことを。」 真剣な、まっすぐなまなざしを向けて、いるかは春海に言う。 ためらいのない視線を春海はそらすことができない。 風が凪ぐように、時間が止まる。 口もとを引き締めて、瞬きもせず、いるかは春海を見つめる。 耳元で囁かれるより 腕の中で呟かれるより きっと、ずっと、 重たい。 いるかがずっと言いたかった言葉。 言うべき場所と時を待って ずっとしまっていた言葉。 大切に心の中で暖めていた言葉。 これが、答えだった―――。 これほど重く尊く、また優しい言葉を聞いたことがないと思った。 すべてを許し、すべてを与え、そしてすべてを奪う、何者にも冒せない絆を はっきりと感じた。 「好き」と「愛してる」のあいだには明確な違いがあると思う。 好きになったのは、惹かれたのは、自分でもどうしようもないことだった。 気が付いたら、好きで好きでたまらなくなっていた。 もはやもとの自分に戻ることはできないとわかっているのに、それでももがいて何とか自分を取り戻したいとさえ思った。 理由などなにもなくても人を好きになるのだと、春海は知らなかった。 いるかに出会うまでは。 けれど愛してるといったのは、ただ彼女が好きだから、ではなかった。 あの日、新潟駅のホームで呟く様に彼女に言った。 訳を言わす家を出た彼女を追って倉鹿へ、新潟へ。 ひとり列車の窓に向かって反芻した言葉は、なぜ、どうして、だった。 簡単な手紙一枚で自分の前から姿を消すほど、いるかにとって自分はそれだけの存在でしかなかったのかと悔しかった。 どんなに時間がかかってもきっと連れ戻す。 その決意は変らなかったけれど、不安だった。 自分が彼女を想うほど、彼女は自分を想ってくれてはいないのではないかと。 足が棒に鳴るまで捜し歩いて、疲れきった身体に勧められるまま熱い酒を流し込んで、何も考えず眠るようにしていた。 ただの親子喧嘩なら、家出までするようなやつじゃないと思っていた。 激しく罵り合うことはあっても、実にさばさばしたやつなのだから。 せいぜい芹沢家に行くくらいだろう。 倉鹿に行ったということは父親よりも強い人間の庇護が欲しかったからではないのか。 そんな風に推測した。 「あんな話をしたばっかりに・・・」 彼女の父親がふと漏らした一言を春海は聞き逃してはいなかった。 どんな話なのかを聞くのは立ち入りすぎたことだろうと思った。 何か、彼女が承諾しかねる話があって、しかも彼女ひとりでは断ることができない何かがある。 そして東京を離れたほうがいいと思えるほど事情は切迫していた。 自分には何も話さなかったところを見ると、能天気ないるかのことだから、倉鹿に行きさえすれば何とかなると思っていたふしもある。 けれど倉鹿で望む保護が得られないとなると、無謀とも言える行為に出た。 よほど帰りたくなかったのだろう。 それほどまでにいるかを駆り立てた事情とはいったい何なのか――― こればかりはいくら推理しても答えが出なかった。 本当は、聞くのがこわかった。 さりげなく話を切り出したけれど、家出の本当の事情を聞くのには勇気が要った。 それが縁談を断るためだとわかったとき、 そして相手が自分だとわかって、 わかっていれば家出なんかしなかったのに、という彼女の言葉に 心が舞い上がるのを感じた。 何日も抱えていた不安が氷のように溶けて、厚い雪の下から春の大地がのぞいたような、そんな気がした。 彼女を愛している――― 雪の下に眠っていたのは小さな花の種。 たったひとつ、自分の心に花を咲かせる種。 それが、彼女だとわかった。 好きになったのは自分にもどうしようもないことだったけれど、愛してるといったのは、愛する覚悟ができたからだった。 自らの意思で選んだ、彼女を愛するのだということを。 そして愛するといったからには一生をかけて愛しつづけることを。 いるかがどのように自分の言葉を受け取ったのかはわからない。 けれど説明など何になる? 言葉は二人の間を滑っていくだけだろう。 いるかはいるかなりのやり方で受け取ってくれれば、それでいい、春海はそう思っていた。 そして今――― どうしたらいい? 抱きしめるにもキスをするにも、今この瞬間はあまりにも尊かった。 春海はいるかの左手を押戴くように両手で持ち上げて、 眼を閉じその白い手の甲にそっと唇をつけた。 愛も信頼も尊敬も永遠におまえひとりのものだと、 春海の無言の宣誓は空へと放たれた―――。 できるものなら、親たちの思惑でこの瞳の曇ることのないように守ってやりたいと思う。自分にささげられたこんなにも無垢な愛情を、この世界の利害や悪意 に満ちた争いで汚された くないと思う。 今はまだこんなささやかな形でしか表せない決意を、これから長い時間をかけて伝えていくのだと、春海は自分自身にも誓った。 いるかは春海の思いを心で受け取る。 「・・・これからも、いるかをヨロシクね。」 ふっと表情を和らげて、ほんの少しはにかむ様子は、彼が今まで見たことないものだった。 やさしく、甘く、瞳が頬が唇が、すべてが声にならない声で囁く。 あなたを愛してる―――あなたを信じてる―――と。 きっと自分一人にしか見せない彼女のこんな表情が、 自分には何よりの贈り物――― この気持ちを一体どう表現したらいいのか。 今ならなんだってできそうな気がする。 高らかに心がうたいだす。 季節は冬。 けれど人生の春というものがあるなら、 今がそのときだ―――。 春海はいるかをふわりと高く持ち上げ、その場で大きく一回転する。 重さなど感じない。 振袖の大きな袂がひらりと宙を舞う。 驚いて、大きな目をさらに大きくするいるか。 大人というにはまだ少し早い春海の、涼やかな目許には春の色が燈る。 枯野色の芝生に花が咲いたような、あるいは雪が舞い降りたような、ほんの一瞬のあでやかな光景だった。 一人中座して電話を掛けていた春海の父がそれを窓越しに見ていた。 ・・・春海は子供のころから何につけ人に遅れをとることのない子だった。 親としてはそれが嬉しくもあり頼もしかったが、いつからか・・・あれの母親が事故でなくなったころから、急に大人びてあまり笑うことのない子になってし まった。 あれが変わったと思ったのは私中連会長の申し入れを断ったと聞いたときだ。 そして同じ年の秋には今度は東京に行きたいと言い出した。 何かある・・・とは思っていた。 せっかくの申し入れを断るほどバカな子だとは思わなかった。 自分の力で受験して入るなど青臭いことを言うやつだとも思っていなかった。 その理由は・・・たぶんあの子だったのだな・・・ 最後まで手のうちを見せず、最後にやんわりと止めを刺したあたりは、わが子ながら高校生ばなれした態度だったと思う。駆け引きのうまさは自分譲りなのか。 春海には自分よりさらに大きな舞台が用意されているのかもしれないと思う。 如月いるかという女性をそばに置くことによって、それはいっそう確かなものになるだろう。 けれど一人の親としては、子供がいつのまにか自分の手を離れようとしていることが嬉しくも少し さび しい。 春海が、あんなに嬉しそうな顔をするのを見るのは、いったいいつ振りだろう・・・ 家庭を顧みることのなかった自分の人生に、ほんの少し後悔の念が燈る。 あの子なら、そう、あの子となら、春海は幸せになれるだろう。 今はまだ二人とも気付いていないかもしれないが あの少女なら、春海と同じ地平を見ることができる。 まっすぐ過ぎる気性が仇になることもあろうが、 頭のよさだけではわたっていけないこの世界で春海と二人 恋人のように、そして戦友のように寄り添って 荒波をくぐっていくことができるだろう・・・ ◆◇◇◆
冬枯れの庭園に穏やかな光がふりそそぐ。 婚約というくすぐったい微風が二人のあいだを通り抜ける。 いままでとは何かが違う、けれど一方で自分たちは何も変わらないとも思う。 明日もまたいつもと同じように待ち合わせの駅で会い、おそらく遅れてくるいるかと一緒に校門まで走って、教室の前で別れる。昼 には生徒会室で顔を会わせ、部活のあと一緒に帰る。いるかはきっと部活でのあれこれを楽しそうに話すだろう。授業のここがわからなかったといって聞いてく るかもしれない。日常と呼ぶには変化がありすぎる日々ではあるけれど、それでも明日からの毎日が今までと急に変わってしまうとは思えない。 けれどいつか・・・もっと先には、自分たちを飲み込もうとしているこの大きな渦の中で、互いを見失うこともあるのかもしれない。 里見学習院に入ってしばらく感じたように、お互いの違いを意識せざるをえなくなるときが来るのかもしれない。 そんなときは・・・・ 今日のこの日の、この穏やかな日差しを、常に変わらず緑でいる木々を、赤と白の椿が水面で寄り添うさまを、そして今自分の隣で微笑む彼女の姿を思い出すよ うにしようと春海は思った。 この日付が一年の中で埋もれてしまっても、 心の中で唱える記念日となるように。 (終わり) |