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BY AIR ―きっとわすれない―
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「い るか、あんたにエアメール。」
「へ?誰から?かーちゃん?」
「ううん、兄さんから。めずらしいわよね、葵さんからじゃなく、しかもあんた宛なんて。」

そういって叔母は一通のエアメイルをいるかに渡した。
梅雨明けには今少しある、7月はじめの夕方のことである。

「ふ―ん・・・なんだろ、わざわざ。」
そういってその場で封を切った。
叔母もなんとなく気になったのだろう、覗くようなことはしないがその場に残っている。

BY AIR―――

漢字で書かれた住所と宛名のほかに
ブロック体がひときわ目立って書かれている。

濃淡の美しい整ったブルーグレイの文字。
透かしの入った象牙色の便箋はきちんと三つに折られている。
父は万年筆や便箋にこだわる人だった。
きっとこれもいつも胸に差していたモンブランのマイスターシュトゥックで書いたのだろう。

『如 月いるか様―――』

なつかしい父の 文字。
様とつけて呼ばれたことが少しくすぐったい。

『元気にしていますか。
剣道の全国大会では見事準優勝だったと聞き
とても嬉しく思っています。
その後足の具合はいかがですか。
おまえの性格はわかっていますがくれぐれも無理はしないように。

私のこちらでの仕事は思ったより早く終わりそうです。
この夏中にはお母さんともども帰国することになるでしょう。
おまえも一学期が終わったら東京に戻ってきてください。
中学卒業まで修学院で、とも思いましたが
高校のこともあります。
そのつもりで準備をはじめてください。
追ってお父さんにも手紙を出し、必要な手続きをとるつもりですが
まずおまえに知らせておくべきだと思い、筆をとりました。

東京で会える日を楽しみにしています。

―――父より』

一瞬、何が書かれているのかわからなかった。
二度、三度と読みなおす。
けれどそこに書かれているのは、同じ文字。同じ言葉。
戻ってきなさい―――
東京へ、帰ってきなさい―――

「いるか?兄さんはなんて?」

返事ができず、便箋をそのまま渡した。
すばやく目をとおした叔母の口から溜息がひとつもれる。

「こんな、急だねぇ・・・」

「なんじゃ、どうかしたのか?」
祖父が新聞を持って居間に入ってきて、何やら雰囲気の違う二人に声をかけた。
叔母もまた黙って手紙を父に渡す。

「・・・」

いるかは手紙を祖父の手に残したまま席を立った。
心配そうな叔母の視線を感じながらも振りかえらず、
後手でふすまをそっと閉め、自分の部屋へ向かう。

ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
池の水に小さな水紋が浮かんでいることからそれと知れる。
乾ききっていない地面が、また雨を含んでいく。
石灯篭の屋根からも雨が滴り落ち始めた。
紫陽花の大きな葉は嬉しそうに雨を受け止める。
葉蘭の緑が洗われていっそう鮮やかになる。
採るのを忘れられた梅の実がひとつ、重みに耐え切れず枝から落ちてきた。
熟し過ぎていたのだろう。
地面に落ちたそれはあっけなく崩れた。

一雨来るごとに緑は濃く、深くなる。
夏に向けての準備をはじめている。
少し肌寒いこんな日ももうじき終わり、やがて夏がやってくる。

遠く五重塔は雨でけぶり
夏至を少し過ぎたばかりの日は長いけれど
鐘の音が聞こえるころにはその姿を消してしまうだろう。

別れを告げそれぞれ家路につくこどもたちのざわめき。
やや小走りの靴音が軽快に聞こえてくる。
石畳に響くカラン、コロン、という下駄の音。
ときおり交わされる短い会話。
白壁の塀の外ではいつもと変わらない日常が繰り広げられていた。
倉鹿で迎える二度目の夏がやってこようとしている。

去年の夏はどんなだった?

徹くんの怪我―――剣道の県大会―――武士道水練大会―――

そしていつも、隣にはあの人がいた―――

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