「あー・・・
おっもいなぁ・・・」
「なんで?」
「教科書とかさーノートとかさー・・・かばんに詰めたら重いのなんのって。」
「・・・おまえが?重い?」
どこかからかいを含んだ声が上のほうからする。
「なによー、その言い方はぁ。」
いるかは不服そうだ。上目遣いで春海を軽くにらむ。
「だってさ、おまえはえらく重い防具だって平気で担いで走るじゃないか。」
「防具は防具。きょーかしょはきょーかしょ。勉強道具だと思うとやったら重く感じるんだよね―」
「・・・ったくおまえは・・・」
春海は苦笑を隠せない。
梅雨明けのさわやかな風が吹く。
日差しは日増しに夏の輝きを備えてきていたが、時折吹く風がそれを和らげていた。
二人は川縁の土手をいつものように並んで帰る。
「貸してみろよ。」
「あ、持ってくれんの?やったぁ、手ぶらだっ!」
そういっているかは川原ではしゃぐ。
梅雨の雨に夏の日差しに力を得て、ぐんぐん伸びた叢は丈も高く輝いていた。
いつもより水量の多い川が夕陽を照り返し、とうとうと流れている。
ピ――・・・カタン カタンカタン・・・・
鉄橋を列車が渡って行く。
ふといるかは去っ
て行く列車を見送るように動きを止めた。
穏やかに吹き寄せる風に揺れる髪を押さえる。
「・・・どうかしたのか?」
急に黙ったいるかに春海は後ろから声をかける。
「・・何でも・・・ねぇ・・・春海・・・」
「ん?」
春海は赤く染まった川に目を向けて眩しげに目を細めた。
いるかは春海に背を向けたままだ。
「・・・見送るのと、見送られるのって、どっちが辛いのかな・・・」
春海ははっとしているかの後姿を見つめた。
そのどこか寂しげな声にいつもと違ういるかを感じて。
いるかは去って行く列車の後ろを目で追いかけるように春海に背を向けたままだ。
「おれは、見送るほうが辛いと思うな・・・」
「・・・どうして?」
「見送るってことは留まるってことだからさ。
見送られるってことは、どこか新たな世界に向かって行くってことだろ?
それが何処にせよ・・・留まるよりは前向きな感じがするからさ。」
―――船の出帆は、それがどんな性質
な出帆であっても、必ず何かしらの幽かな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性のひとつだ―――
春海は最近読んだ太宰の小説のことを思い浮かべてそう答えていた。
留まりたいという気持ちは時として人の枷となりくびきとなる。
もし自分だったら―――近い将来自分は見送られる立場になるのだろうと思う。
それがいつかはまだ決めかねているけれど―――
きっと見送る人のほうがつらいのだろうと思う。
その気持ちがわからないわけではないけど、それでもいつかはここを出て行かなくてはならないのだろう。人生は別れと出会いの繰り返しだ。別れの後には必ず
出会いがあり、出会えば必ず別れがやってくる。いつかはいるかとも別れなくてはならないのだろうか―――今はそんなことはとても考えられないけれど
―――。
なぜあんなにあっさりと東京行きを諦めたのか、その理由は親の力を借りたくなかったから―――それだけじゃないことは自分が一番よくわかっている。
「そっか・・・」
「なんでまたそんなことを?」
「べつに―――なんとなくさっ。」
いるかは感傷的になっていく気持ちを振り払うように、叢を蹴った。
見慣れた風景。
幾度もこうして一緒に帰った。
何度も聴いた列車の音。
それが、どうしてこんなに―――
夕陽に染まる川ってこんなにきれいだっけ?
列車の音はこんなに胸を締め付けたっけ?
そして春海の声はこんなに懐かしかったっけ?
すべてが、いつもと表情を変えていた。
すべてが、美しかった。
すべてが、離れがたかった。
泣きそうになる自分を感じて、いるかは無理やり笑顔を作った。
「あー・・・おなかすいたっ。もうかえろっ。」
無理をしている。
自分で自分を演じるなんて、へんな気がする。
心配事など何もないような、そんな自分を演じてみせる。
「あぁ・・・」
いつもの事ながら、春海はやれやれ、と思った。
おまえは何にも感じないのか?
ふたりでいても皆といるときと態度がまるで変わらない。
よく動いて、一所にじっとしていない彼女は捕まえることができない。
それを切ないと思うようになったのはいつからだろう。
もう、覚えていないくらい前―――
かばんを預けたまま身軽に春海の前を歩くいるか。
子供のように、興味のあるものへと次々視線が動く。
あちらへ行きこちらへ行き。
商店の軒先を覗いたかと思えば民家の庭からのぞく花に足を止める。
彼女の目に映るものはなんでも新鮮で飽きないものらしい。
自分もその目を借りてものを見ることがある、と春海は思う。
彼女を通して見た世界は新鮮で、それまでの見慣れたものとはまったく違っていた。
彼女を知ってから、世界は色を変えた。
単調な景色が味わいのあるものになり、見なれた街並が親しく語り掛けるようになった。
そして彼女がいるだけで、風景はいっそうの生彩を加える。
日々、彼女がいなかった毎日を思い出すのが難しくなってきている。
「じゃーね。かばん、ありがと。また明日!」
「ああ、またな。明日は寝坊すんなよ。」
「わかってるよっ。じゃあ、また。」
歩き出した春海。
ふと、背中に視線を感じて振りかえった。
「・・・いるか?」
何か遠いものでも見つめるようないるかの表情。
「あ、あぁごめん、何でもない。じゃあね!」
慌てたように門の中に消える彼女。
―――いるか?いったい―――?
何か、あったんだろうか・・・?
七月に入ったころから、春海の敏い心にはいるかの抱える影がはっきりと映っていた。
けれどそれがいったい何なのかが掴めずにいた。
その影は日一日と濃くなっていくようで、そのたび春海は軽い不安に襲われる。
待つしかないのだろうか。
今日も、話してはくれなかったか―――・・・
春海は小さくため息をついて家路をたどった。
「おばちゃん、ただいま。」
「あ、お帰り。」
「じーちゃん、ただいま・・・」
「・・・ああ・・・」
あの日以来、祖父はまともに自分の顔を見ようとしない。
わかっている。
辛いのだ。
別離に備えているのだ。
自分の部屋に帰って制服を脱ぎ、着替えをする。
あとこれを着るのも何回かな・・・
何をしても、あと何回、あと幾度と思ってしまう。
―――今日も、結局言えなかったな・・・
ふぅ、といるかは小さなため息をついた。
別れの日は、一日、また一日と近付いている。
それなのに。
倉鹿での日々を悔いのないものにしたいから、勉強もがんばることにした。
今まで面倒だからと再三の誘いを断り続けてきたバスケ、バレー、硬テも試合にだけは出ることにした。
ルールを覚えるのも一苦労だったけど、何とかなりそうだった。
だけど一番大事なことをやりのこしている。
一番大事なことから逃げている。
春海に向き合えないでいる。
春海を想う自分の気持ちに向き合えないでいる。
今までそばにいることに慣れきって、あえて名前をつけてこなかったこの関係に甘えてきた。
まだ好きだとさえ言っていないのに、何をどういったらいいのだろう・・・
◆◆◆
春海になにも言えないまま一学期は終わった。
休みに入るとお互いに別々に過ごす時間が多くなる。
当然のように一緒に学校にいき、一緒に帰ってきた毎日に比べて春海はすこしずつ遠くなっている。
それでも、言えなかった。
言わなくちゃいけない、けれど言いたくない。
いってしまえば、きっと春海は驚いて、別れを惜しんでくれるだろう。
だけど、わかれてしまうから、ただそれだけの理由で特別扱いされるのはいやだった。
もうじきいなくなるからというだけで優しくされるのはいやだった。
感傷的になるのは柄じゃない。
いや、感傷的になっている自分を見られるのがいやなだけな
のかもしれない。
サッ
カーの練習も、いつもよりずっと身が入る。
みんなと練習するのもあと少し。
きっと今年こそは全国優勝するのだろう。
去年のつらかった時期をばねにして、みんな確実にうまくなり、そして成長している。
あたしは全国大会は一緒に行けないけれど・・・
―――伊勢コーチが結婚するって、本当なんですか―――
真樹の口から突然聞かされた。
銀子の少しさびしげな後姿。
伊勢コーチの結婚相手は中学のときの同級生だという・・・
いつか離れ離れになっても、あたしと春海もコーチ達のようにまた出会うことがあるのだろうか。
明
日のことさえわからないのに、五年後、十年後の自分など想像もできない。
この残された
倉鹿での日々を大事に大事にしていくだけ。
このまま、誰に知られることもなく、あたしはみんなの前から消えるんだろうか―――
来年のいま、来月の今日、二週間後の今日、あたしはもうここにいないけど、
みんなはずっとここにいて―――
あたしひとりがいなくて―――
◆◆◆
「春海?」
「え?」
「どーしたの?ボーっとして。」
「あ、ああ、悪い。何か?」
「ここんとこ。
『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に合わんとぞおもふ』
これを現代語訳せよって。瀬って何のこと?」
練習の合間を縫って、いるかは春海の家に来ていた。
宿題を手伝って―――というのが理由だったけれど、
いつもは宿題はほったらかして徹と遊んでばかりだったのだが。
おとなしく居間に収まって宿題を黙々と片付けていた。
時折顔を上げては、春海に質問する。
「ああ・・・これは百人一首にも入ってる崇徳院の歌だな。
川の流れが速くて岩に引き裂かれても、その先でまた一緒になる。それと同じように、今はあなたと別れてしまっても、またいつか会いたいと願っていま
す。・・って感じだろ。」
「ふ―ん・・・瀬って川の事なんだ。」
「まあそうなんだけどこのあたりは掛詞みたいなもんでさ。瀬ってのは逢瀬の瀬でもあるわけだから、そういう含みがあるわけ。」
「なるほどねー・・・」
そういっているかはノートにさらさらと答えを書いていく。
・・・チリーン・・・
涼しげな音色とともに、庭を通ってきた風が部屋に届く。
いつになくなるべく自分で解こうとするいるかの姿勢に春海はかえって戸惑っていた。
それは喜ばしいことなのだろうけど、どこか素直に喜べない自分がいる。
手を伸ばせばすぐ届くところにいるのに、とても彼女を遠く感じる。
気のせいだろうか?
ノートに目を落として一心に何か書き込んでいる表情が、ひどく遠い。
あどけない顔立ちも、時折こぼれる微笑みも、いつもと変わらないのに―――どこか違う。
何度か聞こうとした。
何か言いたいことがあるんじゃないかと、それとなく水を向けてみたりもした。
けれどいつも答えは困ったような、はぐらかすようなことばかり。
それ以上何も聞いてくれるなといわれているようで、もどかしく思う日々が過ぎていく。
倉
鹿で過ごす二度目の、そして最後の夏はそうして過ぎていった。
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