「・・・
春海は、知ってるのか・・・?」
いるかは首を横に振った。
夏の間に茂った庭木は秋を前に剪定され、
あたりには緑の匂いがたちこめている。
打ち水で冷やされた敷石はひんやりと
昼間の名残の熱は夕刻の涼やかな風に晒される。
カラ・・ン
コロン
いるかは足元もおぼつかなく進へと歩み寄る。
少し震えている。
食い入るようなまなざしを避けるように伏目がちにして。
「―――何度も・・言おうと・・したんだけど・・・」
その後は言葉にならなかった。
春海は何かヘンだって思ってるみたいで、
それでもやっぱり言えなくて、
なんて言ったらいいのかわからなくて
どこから言ったらいいのかわからなくて
どんな風に言ったらいいのかわからなくて
もう、どうしたらいいのかわからなく
て・・・―――
進にはそんないるかの気持ちが伝わってきた。
―――ずっと独りで、悩んでいたんだな―――
そっと肩に置かれた手。
その柔らかく温かな手のひらが、
いるかからすこしだけ苦しさを吸い取っていった。
「だけど・・・本当にこのままって訳には・・・いかないだろう?」
やさしく、諭すような声。
いるかが東京へ帰っていってしまうということへの驚きは、
本人の切なげな表情の前に心の奥へと押しやられた。
「うん・・・それは・・わかってるんだ・・・でも・・・」
い
つかは言わなくてはいけない。
それはわかっていた。
その日を先に先にと延ばしているに過ぎないのだと。
いるかは俯い
て、たどたどしく言葉をつなげる。
ほんのすこし涙声になっている彼女がいっそう小さく見えた。
―――おれでは、おまえを支えてやれないだろうか―――
喉もとまで出かかった言葉を何とか飲みこむ。
こんなふうに傷ついている心につけこむのはフェアじゃない。
けれど偶然とはいえ共有することができた秘密は、自分と彼女をつなぐ細い糸をすこし太くしたようにも思えた。
春海といるかの間には入りこんではいけないと、ずっとこのまま二人の友人でいようと努めてきた心が揺らぐ。
二人ながら不器用な、それでいて想う気持ちだけは人一倍大きい、そんな二人を向き合わせたのは他ならぬ自分だったことも忘れたわけじゃない。
脇役でいることに満足したわけではないけれど、自分には自分の舞台がある、そう思ってきた。
自分に心を寄せてくれる女の子が少なくないことは知っている。
自分もまた叶わない想いを抱えているだけに、
彼女たちの心を受け入れられないことが進にはつらかった。
いるかのまっすぐなところ、生き生きとして、挫けることを知らない強い真っ白な心。
分け隔てなく開かれた心に、憧れにも似た思いを抱いたのはいったいいつだったろう。
もっと話したい、もっとそばにいたい、そう思うようになったのはいつからだったのか。
そして自分の気持ちに気づきはじめたころ、
春海の視線の先にもいつもいるかがいた。
幼馴染の心の変化には本人よりも早く気づいたかもしれない。
彼女に振り向ける笑顔のやさしさに、春海の中で芽吹こうとしている小さな花の存在をたしかに感じた。
いるかは、友人である自分に対してさえ時に隔てを置こうとする春海の心にすんなりと入っていった。
春海もまた、当たり前のようにいるかを受け入れていた。
気づいているだろうか。
春海は誰に対しても深く付き合うことを無意識に避けていた。
ほんの子供のころから近寄りがたい雰囲気を漂わせ、畏れられていた。
親しくしている現鹿鳴会メンバーに対してさえ、どこか馴れ合いを避けるように孤独を纏っていた。
その彼が、傍目にもあらわに怒り、心配し・・・
春海にとっているかはそれまで誰も占めたことのない地位にいるのだ。
いるかもまた、正反対の方向から、孤独だった。
誰に対しても心を開く彼女は、誰からも愛された。
明るさも元気のよさも、みんなから好かれていたけれど
一対一で彼女と対等の位置に立てる友人は誰もいないようだった。
物事をあまり深く考えない持ち前の明るさは、、
心を割って悩みを打ち明けられる友人を必要としてこなかったのかもしれない。
だから今回も誰にも打ち明けられず一人で悩んで・・・
数ある友人の中から一人を選んで打ち明けることなど
いるかには思いもよらなかったのだろう。
打ち明けるならまず春海に。
けれどそれこそが一番難しいことだった。
銀子には杏子が
湊には博美が
似たもの同士、親友として存在していた。
けれどいるかは、誰にも似ていない。
普段はいい。
皆に囲まれて、皆の中心にいて。
けれど何かあったとき、彼女を本当に理解し寄り添えるのは
やはりひとりで生きてきた春海しかいないと、進は思っていた。
こんなに似ていない二人もいないけれど、
いるかも春海も、確かにお互いを必要としていた。
二人をつなぐものは、たぶん、初恋という甘く儚い絆だけではないのだろう。
それだけなら、引き下がるような自分ではない。
けれど彼らを結ぶのは、おそらくそれだけではない。
心の奥深くに横たわって、彼ら自身も気づいていないような孤独―――。
母親をなくした春海と、両親と離れて暮らすいるかと。
二人とも裕福な家庭に育ちながら、
どこか満たされないものを抱えて生きてきたのかも知れない。
多くのとりまきに囲まれながら
自分の弱さをさらけ出せて理解しあえるほどの相手はいない。
だからこそ。
手を触れてはいけない。
二人とも大事に思う進はそう感じていた。
これだけたくさんの男がいて女がいる中で、想い想われる相手に出会えるなんてことは奇跡に近いのではないか、と思う。
だからこそ、この二人は大切にしてやりたいと、そう願ってきたのだ。
余人に理解しがたいものを抱える二人だからこそ、
この奇跡を大事にしろよと心の中で言い続けている。
そして自分は、失恋とも呼べないようなほろ苦い想いを抱えるようになった。
だが―――
試合を終えた春海は何を措いてもまずいるかに会おうと思っていた。
応援のお礼を言いたかったし、試合を終えて心に余裕のできた今なら
いるかの話をゆっくり聞いてやれそうだと思ったからだった。
きっと、何かあるに違いない。
わざと何もないような振りをされるのはもうたくさんだった。
時間をかければ、きっと話してくれる。
一時間かかっても二時間かかっても、きっと聞き出そう。
優勝で浮かれ気分の部員たちと早々と別れ、
春海はひとり如月家へと足を向けた。
◆◆◆
「だめ!いわないで!」
そのとき、三人の頭は真っ白になった。
ぐるりと
熱を含んだ空気が揺らぐ。
重苦しい沈黙が
それぞれの喉にはりついた。
―――言わないで―――
考えるより先に、言葉が出た。
春海には言わないで。
まだ、心の準備ができていないから。
あたしの口から言わなきゃいけないから。
だから、進、言わないで。
黙っていて。
進の口から言葉が漏れるのをとどめるように、その胸に飛び込んだ。
春海に背を向けて。
ふと感じる。
軽く肩を抱く進の腕を。
そして気づいた。
春海の視線を。
振り返る。
信じられないという表情。
春海は何かを言いかけて、やめた。
そしてあたしに背を向けて、出て行った。
去っ
ていく春海の背中に、いるかは一生懸命語りかけた。
けれどおもいはどれひとつとして言葉にならなくて、口にすることはできなかった。
頭に浮かぶ言葉はどれも場違いで、春海に届かない気がした。
―――言わな
いで―――
肩にまわされた手の言い訳をするなということか。
いったい、いつから―――
夏のはじめころから感じていた、
どことなく違和感のある態度の原因は進だったのか―――?
いや、いるかはそんな器用なやつではない―――
それとも自分には言えない何かを進は知っているということか。
それとも―――
春海の心にはいくつもの仮説が浮かんでは消える。
驚いた表情はかすかに怯えていた。
何に怯えているのか、何を恐れているのか、それさえ聞くことはできなかった。
それはすでに自分の役目ではなくなってしまっているのかと、言葉を押しとどめた。
自分に知られたことをこそおそれているのかとも思った。
動けない。
何か言ってくれ。
何でもいい。
いいわけでも、謝罪でも、何もなかったような挨拶でも、何でもいい。
けれどいるかも進も何も言わなかった。
ただ自分を見つめて。
自分のいる場所はここにはなかった。
このままここを去れば、それだけ二人との距離は遠くなる。
滑稽な質問が口から出てくるのを恐れて、その場を離れた。
この状況はすべてを物語っているじゃないか?
もう、いるかはおまえのものじゃないんだと。
彼女の悩みを聞いて肩を抱いてやるのは自分の役目じゃないんだと。
誰かがこの場から去るとしたら、それは自分だと感じた。
背中に二人の視線を感じながら、帰っていった。
―――言わないで―――
いるかの願い。
それが言わないでということなら、従うしかないのだろうか。
春海はきっと誤解しているだろうに。
このままでいいというのだろうか。
このまま―――束の間でも―――彼女のそばにいることができるなら―――
肩にまわした手に少し力が入る。
春海の後を追うなというように。
お前はここにいればいいんだと語りかけるように。
お前には俺がいる―――
蜉蝣のようにはかない、つかの間の夢だとどこかでわかっている。
けれどせめてこのひと時だけは夢を見てもいいんじゃないかと思う。
いるかが去っていったあと、
自分には何が残るのだろう。
最後までただの友達のような顔をして別れることもできる。
けれど、それで自分は後悔しないだろうか。
いつか今の自分を振り返ったとき、意気地がなかったと思わないだろうか。
二人のため、といいながら傷つくことを恐れてはいないかっただろうか。
自分ひとりの胸にしまっておけばこれ以上傷つくことはないから・・・
いるかが好きだ。
いるかが春海を好きだと知っても。
春海が彼女を好きだと知っても。
傷つこう。
思い切り。
痛みを分け持とう。
いるかと、そして春海と。
覚悟は、できた―――
不安げに自分を見つめるいるかに、そっと微笑みかけた。
安心していいよ―――
「・・・明日、ソフト部の練習日だろ?朝、迎えに来るよ」
「う・・うん、ありがと・・・」
「・・・大丈夫だよ。」
「・・・うん・・・」
何が大丈夫なのかよくわからないままいるかは返事をした。
進の手が伸びて、いるかの髪に触れた。
柔らかく細い、素直な髪。
陽に透けて輝くたび、触ってみたいと思っていた。
手のひらの下で、いるかが少し身体を硬くしたのを感じる。
進はそっと手を離した。
「じゃあ、明日な」
「うん・・・おやすみ」
ほんの少し寂しさの薫る笑顔を残して、進もまた戸口に消えていった。
後にはいるかがひとり庭に残される。
降りてきた宵闇。
視界が朧になっていくにしたがって逆に浮かび上がるのは春海の表情。
去っていった彼の背中。
あのまま、どんどん、遠くに行ってしまうみたい・・・
そして進の笑顔。
さんざん迷って、勇気の出ない自分にやさしい笑顔を向けてくれた。
うれしかった。
わかってもらえたことが。
でも、
どうしてだろう。
髪に触れられるのが、少し、いやって言うか・・・
ちょっとだけ、抵抗があった。
春海にならぜんぜんいやじゃなかったのに・・・
とっ
さにいるかの口から出たひとことは、
彼女自身が予想しなかった形で三人の心に波紋を広げ、影を落としていった。
「いるかっ、
そんなとこで何つったんてんだいっ、ご飯だよっ!」
叔母の威勢のいい声がする。
「あ・・・はーい・・・」
もの思いから現実に引き戻されて
いるかは明かりのついた屋敷内へと入っていった。
蜩の声が一段と高くなる。
倉鹿の短い夏は、もうじき終わろうとしていた。
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