夏も終わりに近いというのに、むっと
するほどの熱気がグラウンドを包んでいた。
風のない空気は重苦しく、低く垂れ込めた雲が太陽をさえぎっている。
春海といるかはそれぞれ練習に打ち込みながら気まずさを押し殺して
いた。
器用にお互いの姿を視界から消しながら、あの日からすでに数日が過ぎていた。
いるかと進は互いに寄りかかるようにその時間を過ごした。
進の優しさと気遣いは
7月以来張り詰めていたいるかにつかの間の安らぎを与えた。
居心地のよさ。
安心感。
春海への罪悪感も、
もうじきここを去るのだという感傷も
すべて分け持ってくれるそのやさしさが、ただうれしかった。
けれど感じる。
こんなになっても
進との間には細い川が流れていると。
その川は細いのに、向こう岸は見えているのに、決して越えられないものだと。
あの時感じた。
あの時わかった。
進が髪に触れた、そのときに。
柔らかな髪の、その下で
いるかは体を硬くした。
それだけでわかってしまった。
この思いが受け入れられる日は来ないのだと。
自分では、彼女を救ってやれないのだと。
練習が終わって二人で帰る道すがら
少し離れて歩くいるか。
ポツリ、ポツリと話すその表情は翳を含んで、瞳は遠くを見つめているようだった。
自分に言い聞かせるように話す。
ここにいない春海に聞かせるように話す。
無理に作る笑顔が、たまらなく痛々しかった。
もう、こんなことは終わりにしなければ―――
―――好きな子ってのはね、おまえのことだからさ―――
進は笑顔を残して、その場を立ち去った。
これでいいんだ―――
いるかをひとり川原に残して走って帰った。
もう、春海に返してやろう。
そばにいてわかった。
自分のそばにいているかが傷ついているのを見るくらいなら
春海のそばにいる笑顔のいるかを見るほうがずっといいということに。
いるかのためだけじゃない。
春海のためでもない。
自分のために
あいつらを元通りにしてやろう―――
涙は出ない。
ため息もこぼれない。
ただ、告げずにはいられなかった想いが花びらのように散っていった。
夏なのに
桜が散っていくように
ひらりひらりと、薄紅色の想いはとめどなく舞って
そうして消えていった。
自分の後ろで一枚、扉がそっと閉じられたのを感じる。
それは、あるいは少年時代という名前だったのかもしれない。
諦めることを覚えて
傷つくことを知って。
そして少年はいますこし強く、大人に近づいていった。
優しさだけを貪欲に求めて
居心地のよさに甘えて。
進の言葉が耳について離れない。
はじめてだった。
誰かに好きだといわれたのは。
そして返事など聞くまでもない、というように笑って去っていった進の姿。
しばらくその場から動けなかった。
こんな風に想っていてくれたなんて、ぜんぜん知らなかった。
だって、進が教えてくれなかったら
去年の冬、あたしと春海はきっと仲直りさえできていなかった。
こんな風に離れてしまっても
春海のことを想っている。
どうせ離れ離れになってしまうのだから、
その辛さに心を慣らしておくのも悪くないか、と
自分らしくない声もどこかから聞こえてくる。
このまま、春海と仲違いしたまま帰ってしまうのも
悪くないのかもしれない。
彼に見送られる辛さをおもったら、今の冷えた関係も悪くないとさえおもえてしまう。
これは強がりなのか、それとも弱さの現われなのか。
できれば友達くらいには戻っておきたいけれど、それも無理なのかな。
このままかえれば、進とのことは誤解だっていつかわかるだろう。
そうしたら少しは、あたしがいなくなって寂しいっておもってもらえるかな・・・
春海・・・
気取ったいやなやつだっておもってた。
冷血漢だって思ってたこともある。
でも、いつのまにか、好きになってた。
春海の寂しさが見えたとき?
春海のやさしさが見えたとき?
いったいいつからだったのかな・・・
そばにいることが当たり前で
それはもうずっと前からのことで。
いったいあたしたちは付き合ってたんだろうか?
何も変わらなかったんじゃないだろうか?
変わったといえば・・・春に川原でキスしたこと・・くらい?
それだけ?
ずいぶん前のことのように思える。
忘れられないと思いながら、忘れようとしていた自分も確かにいた。
あまりにもそばにいるから。
あまりにも近くにいすぎて、始終意識していては心が破裂しそうだったから。
そうやって自分を甘やかして、彼から逃れようとして。
いつもそばにいるって思ってたから、安心しきってたんだ。
向き合えなかったのはあたし。
誰より好きなのに、素直になれなかったのはあたし。
いつか慣れると思って、一緒にいる時間を大切にしてこなかったのはあたし。
友達のような振りをして、逃げてばかりいたのはあたし。
こんな風に別れなきゃいけないのは
罰のような、気がした―――
夕方になってようやく涼しい風が吹いてきた。
縁側に座って
柱にもたれかかって
風鈴の音を聞くともなしに聞いていた。
考えなきゃいけないことはいっぱいあるけれど
どれにも答えが出ないような気がして
ただ、足をぶらぶらさせていた。
明日は最後の試合。
修学院の生徒としての最後の試合。
そういえば、最初の試合もソフトボールだった。
あの時あたしは怪我をして、春海が手当てしてくれたんだっけ―――
少し強引で、でもやさしくて。
―――がんばっといで―――
あの声、まだ覚えてる。
ポン、と元気付けるように頭に手を置いたのも。
あれから、ずっと支えてもらってた。
いろんなことにがんばってこれたのは春海がいたから。
負けたくなくて、期待にこたえたくて、反発して。
がんばる自分。
努力する自分。
まじめな自分。
そして、少し素直な自分。
この一年半で、今まで知らなかった自分をいっぱい見つけた気がする。
それは、多かれ少なかれ皆春海が引き出したものだった。
陰から日向から、支えてくれた彼のおかげだった。
―――今頃気づくなんて。
あたし、まだ面と向かってありがとうもいってない。
そう思ったら、急に春海に会いたくなった。
春海の家はすぐ近くだ。
跳ねるように立ち上がって、気持ちの向くまま足を向けた。
心は軽かった。
今なら、何もかも打ち明けられる。
そう思った。
そして角を曲がれば春海の家というところに来て
いるかの目に二人の人影が写った。
春海、それに湊―――
目にはいった次の瞬間、いるかはきびすをかえしていた。
がくがくと震える足を無理やりに川原まで走らせた。
息が切れるほど速く。
心臓の高鳴るのを疾駆のせいにするように。
こんなのは、いや―――
湊でも、ほかの誰でも、春海の隣を歩くのはいや。
別に深い意味なんてないってことはわかってる。
でも、いや。絶対にいや。
春海の隣を歩くのはいつだってあたしだと思ってた。
このままあたしが帰ったら、春海はどうするの?
いつか、誰か違う人があなたの隣を歩くようになるの?
そんなの、イヤ。
絶対に、いや―――
別れるって、こういうことなの?
今まではわかってなかった。
会えなくなるだけがつらいんじゃない。
心が離れていくことがつらいんだ。
心が遠くなることに比べたら
あえないことなんかなんでもないとさえ思えた。
人を好きになるってこういうことなんだ。
好きな人と別れるってこういうことなんだ・・・
誰もいない川原で、日が落ちるまでいるかは泣いた。
春海にあいたくて。
心が冷えていく。
身体の芯に氷が埋められたように
ぎゅっと心臓が握られているように痛い。
叢に隠れるように膝を抱えてしゃがみこんだ。
ピー・・・ カタンカタン・・・
列車の鉄橋を渡る音がする。
―――おれは、見送るほうが辛いと思うな―――
この夏の初め、春海はそんなことを言った。
春海、間違ってるよ。
絶対見送られるほうがつらい。
去るほうが辛い。
そうに決まってる―――
バカだなって言ってよ。
いつかのように髪に触れてよ。
迎えに来て
手を差し伸べて
あたしを立たせて
いつも、そばにいてよ
あたしの、そばにいてよ
春海―――
叫びたいほどの心の声に、応えるものは何もなかった―――
◆◆◆
ソフトボールの試合中、思いもかけな
い形で、いるかの帰京はみなの知るところとなった。
「で、い
つなのよ。」
湊が聞いた。
「へ?」
「だからっ!いつ東京に帰るのかって聞いてるの!」
気の強そうな声と裏腹に目には涙のあとがあった。
剣道部で一緒だった、春海にさえはっきりものを言う頼もしい友人だった湊。
「水練大会は出るんだろ?」
応援団の格好をしたままの兵衛が聞く。
いつも自分を支えてくれたやさしい友人。
みんなから見放されたときも救いを差し伸べてくれた兵衛。
「え、あ、あぁ、まぁ・・・」
「じゃ31日の夜行とか?」
博美が聞く。
弱小ソフト部を率いて二年目。普段はやさしいのにバレンタインのときはあたしを引きずっていった。芯の強い博美。
「1日じゃないか?始業式なんて出ても出なくても一緒だろ。」
「う、うん・・・まぁ・・・」
「なんだよ、はっきりしないな。」
一馬が言う。いつも斜に構えていたけど、ほんとは友達思いだってわかってる。
「あ、あんまりはっきりきめてなくって・・・」
「なんだ、そうなのか。」
「うん・・」
「決まったら教えろよ。みんなで見送りにいくからさ。」
銀子が言う。
ソフト部でバッテリーを組んだ、サッカー部で一緒に苦い思いを味わった銀子が。
「それは・・・いいよ。」
「なに言ってんだよ、行くに決まってんだろ。なあ、みんな?」
「そりゃな。」
「もちろんじゃないの!」
「あったりまえだろ。」
「あ、あのさ、一日だから。みんな学校あるでしょ。
だからいいよ。」
「なんだ、そうなのか?それじゃー・・・仕方ないか。」
「うん。」
みんなゴメン―――最後にウソついて―――
あたし、やっぱりダメ。
みんなに笑顔でサヨナラって言える自信がない。
きっと悲しくて寂しくて、ぼろぼろに泣いてしまう。
はじめてわかったよ。
自分がこんなに弱いってこと。
つらいことに向き合えなくて
逃げてばかりで。
どうしたらいいのか
わからなくって。
みんなにそんな姿は見せたくないの。
できれば、みんなには元気なあたしを覚えていて欲しいの。
楽しかった毎日だけを覚えていて欲しいの。
だから、ゴメンね。
31日まで
新学期のぎりぎりまで倉鹿にいるよ。
少しでも長くここにいたいから。
少しでも長くみんなといたいから。
でも、水練大会には出られない。
その時間、あたしは倉鹿を発って
東京へ向かう列車に乗るのだから―――
「じゃあね。」
「うん、またね。」
こんな風に―――
また明日会うかのように
何気なく別れたい。
さようならじゃなくて
またね、ってお別れしたい。
どんなにここが好きだったか。
みんなといた日々がどんなに楽しかったか。
いるかの心には、みなの笑顔が浮かんでは消えていった。
ずっと忘れずにいられるように。
一人一人を、心に焼き付けていった。
視界がにじむ。
けれど心の鏡にはみなの姿がはっきりと映っている。
み
んな、あたしのこと覚えていてね。
こんな別れ方をして
本当にゴメン。
でも、許してね。
あたし、そんなに強くないから―――
淋しさの谷、涙の谷をさまよわぬもの
は、人生を知ることすくなし―――
これはいったい誰の言葉だっただろう。
そう、確か国語の課題の読書感想文のために読んだ本に書いてあったんだ。
大げさな言葉はいらない。
けれど父からのエアメイルを受け取る前と後では
確かに自分は変わったと思う。
出会いという山を越え、別れという河を前にし
寂しさと涙の谷を今さまよっている。
タイトルも思い出せないその小説も
今読んだらきっと違う感想を持つのだろうな、と思った。
風
がふわりと前髪をかきあげる。
それに誘われるように、うつむいていた顔をふっとあげた。
精一杯の強がりで
笑顔を作った。
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