別れが辛そうな皆を遠巻きにして
春海はひとり考えていた。
いるかが帰っていく。
東京へ。
うそだと思いたかった。
いなくなってしまうくらいなら
遠目にでも進といるかを見ていたいとさえ思った。
ガクランは詰襟をはずしてもなお暑かったけれど
するりと鉢巻をほどくと
額には風を感じることができた。
異様な熱気に包まれて終わった試合。
最後に見せたいるかのサヨナラは、皆の心にも焼きついたことだろう。
あんなヤツ、きっと、もう二度とお目にかかれない。
去年の春の馬鹿戦―――
あのころからだったのだろうか。
いるかが心に入ってきたのは。
そして
いつのまにか
そばにいることが当たり前になっていったのは。
祭りの後のうつろな空気が風によって春海のもとへ届く。
観客席の誰もいない漠とした空間が淋しさを誘った。
7月に入ってからずっと感じていた彼女の態度の変化にこれで説明がついた。
野球の試合後の進との行動もこれで説明がついた。
別れは確かに受け入れがたく辛い。
けれど、昨日まで感じていた痛みに比べれば、
ましかもしれないと思った。
それに
まだはっきりとは誰にも言っていないが
高校は東京へ、里見学習院へ行こうと考えていた。
そうしたらまた彼女に会うことができる。
高校―――
今はまだ遠い先のことに思える。
けれどそれは確実にやってくる未来。
しばらくあえないだけだ。
ほんの、しばらくの間・・・
親の仕事のせいで引き離されるのは仕方ない。
自分たちはまだほんの子供といえる年齢なのだから。
そう頭では理解するものの、心はやはり痛んだ。
きりきりと身体を締め付けるような焦燥感。
鈍く疼いて、いつ果てるとも知れなかった痛みに比べてましかもしれないが、
彼女があと数日で目の前から消えてしまうという現実の重さは春海の心に大きくのしかかっ
ていた。
いるか―――
おれが東京に行くまで
おまえは待っていてくれるよな―――?
皆に囲まれている小さい彼女を遠くに見つめて
春海は祈りのような想いを抱いた。
過ぎていく毎日に、二人のあいだに時間は永遠にあると錯覚して
あせることはないんだと、急ぐことはないんだと言い訳をして
一歩踏み出すのを懼れていた。
わかりあっていると油断して
改まって気持ちを伝えようにも
風のような彼女の前に言葉が逃げていくばかりだった。
口にしなければ伝わらない思いもあるのだと
わかっていたはずなのに。
まだいい、いつかそのうちと思って
自分を甘やかしていた。
こんな急に、二人ですごす日々を奪われてしまうなんて―――
罰のような、気がした。
◆◆◆
試
合の後、暮れかけ
た日差しの中を皆三々五々家路についた。
いるかと春海は家が近いこともあって最後まで一緒だった。
二人きりで歩くのは久しぶりだった。
春海の試合のあと気まずくなってから一週間しかたっていないのに、
ずいぶん長いことこうしていなかった感じがする。
もう、こうして歩くことはないかもしれない。
いつが最後かわからないけれど
もしかしてこのときかもしれない。
こんな風に終わりを予感しながら、
それでもまだ機会があるかもしれないと期待を持ちながら、
そんな風に倉鹿での日々を終えたかった。
決定的な最後に向き合うには、あたしは弱すぎる。
だから、こうして歩くことがきっとまたあるとどこかで期待しながら歩いている。
「・・・行くよ。」
「・・・へ?」
「だから。見送りに。学校へは適当な理由をつければいいさ。」
「そんな・・・だめだよ。だって学校があるし、春海皆出席じゃない。」
「別にいいさ、そんなもの。授業があるわけじゃなし、たかが半日のことだ。」
「ほら、それに、鹿鳴会からの連絡とかいろいろあるし・・・」
「一馬にでもやってもらうさ。」
「・・・」
もう理由が見つからない。
「行かせてくれないか。」
「・・・わかった・・・」
二人は視線を合わせることなく歩いて行く。
いつもよりゆっくりと。
立ち止まることはないけれど。
のうぜんかずらがたわわに花をつけている軒先を過ぎ、
朝顔のつるの絡まっている黒塗りの塀を過ぎていく。
蜩の声に混ざって
遠く、かすかに、列車の音が聞こえてくる。
―――見送るのと見送られるのって、どっちがつらいのかな・・・
今ならわかる。
なぜいるかがあのように言ったのか。
みなれた風景が、通いなれた道が、急に胸を締め付ける。
もうこの景色を彼女と一緒に見ることはないかもしれないと
この次ここを歩くときは
もう隣に彼女はいないかもしれないと
そう思うだけで胸に熱いものが込み上げてくる。
夏の終わりを告げる虫の音がこんなに切なく思えたことはなかった。
夕陽が赤々とこんなに哀しげに見えたこともなかった。
風に揺れる大輪の芙蓉がこんなに美しく思えたことはなかった。
そしてこんなに寂しく思えたのも。
この景色はずっと心に焼き付いて離れないだろう。
何年経っても、何十年たっても、きっと忘れられないだろう・・・
なにも言わず隣を歩くいるかもきっと同じことを考えている。
盗み見た横顔に、そう感じた。
下野(しもつけ)のふんわりとした小さい花に何気なく手を触れて
打ち水をした商店の前の水たまりを大きくよけて通る。
少しでも長く一緒に歩いていようと儚い努力をして、
それでもいつか「如月上野介」と表札のかかった門の前へたどり着いた。
「じゃ、またね。」
「ああ・・・」
「あ、そうだ!」
「え、何?」
「明日さ、おうちに行っていい?宿題が結構残ってて。」
照れたような上目遣い。
いつもの、いるかだった。
「いいよ。明日は何もないし。」
「よかったぁ!じゃ、明日ね!」
湿っぽくなっていた二人のあいだの空気をからりと乾かすように
明るい声でいるかは言った。
いつもとかわらない笑顔を、言葉を残し、いるかは門をくぐっていく。
そんな彼女の後姿を見送るのはこれで何度目なのだろう。
数え切れないほどの彼女の姿が浮かんでは消える。
そして
あと幾度あるのだろう。
もしかしたらこれが最後かもしれない。
最後―――
その響きの重さに春海は耐えかねていた。
夏休みもあと二日で終わる。
水練大会を残して試合も練習もなにもない。
やりかけの宿題を片付けて、読みかけの本を読んで。
そんな風に過ごすつもりだった。
けれど―――
いったいどう過ごしたらいいのだろう。
こんな急につきつけられた別れを目の前にして
春海はふだんと同じように振舞うことしかできなかった。
時が手のひらか零れ落ちていく。
大切な時間のはずなのに、なにもできないままただただ過ぎていってしまう。
さらさらと、砂時計の砂のように。
どうしたらいいのか。
いや、そうではない。
自分がどうしたいのか―――だ。
空は暮れかけの青灰色に染まっていた。
春海は答えを願うように、ふと立ち止まって宵の明星を見上げた。
たった一つ、ぽつんと輝くその星が、何かに似ていると思った。
◆◆◆
翌日、春海の家の居間で二人は向き合って座っていた。
春海は気持ちの切り替えがうまくできずにいた。
いるかを目の前にして、
本を開いても文字が映像を結ばない。
問題集を開いても解く気力が沸いてこない。
こんなことは初めてだった。
庭のつわぶきの茂みは水を撒かれて
しっとりと露を含んでいる。
しなやかな若竹の葉がさわさわと揺れて
かすかに秋の気配を含んだ風が彼らを包んだ。
チリ・・ン・・・
青銅の風鈴の音色が心なしか鈍く感じられた。
いるかはさらさらとノートに鉛筆を走らせて
時折無造作に髪をかきあげる。
―――ちゃんとやるって決めたんだ―――
終業式の日にそう言っていた。
決して提出する必要のない宿題を、
どんな思いでちゃんとやるって決めたんだろうか。
鹿鳴会本部の山積みにされていた書類が整理されていたのも
みんな彼女のやったことだったんだな・・・
発つ鳥あとを濁さず、か――
いるからしい、と思った。
「は―――・・・だいたい終わったかな。」
「そうか。」
「春海は?」
「課題は・・・一応昨夜片付けた。」
「えっ、そうだったのぉ?じゃ、今までここで何してたのよ?」
「・・・いろいろ。英語の問題集とか。」
「・・・」
わけがわからない、といった面持ちでいるかは眉を寄せた。
与えられた以上の勉強をすることなど、いるかには思いもよらないのだった。
春海はちっともはかどらなかった問題集を閉じた。
「そういえば徹くんは?」
「あぁ。あいつは自分の部屋じゃないか?」
「そうなの?風邪でもひいた?」
「いや・・・元気だよ。何で?」
「ほら、いつも一緒におやつ食べたりするじゃん。なんか今日は静かだね。」
「・・・あぁ。」
そういったまま春海は黙り込んだ。
昨夜徹には告げた。
いるかがこの夏で東京に帰ることを。
「・・・ウソでしょ?・・・ねえ、お兄ちゃん・・・ウソでしょ?」
見る見るうちに幼い大きな目に涙がたまっていく。
「ウソじゃない。この休みが終わったら、一日にいるかは東京に帰る。」
できるだけさらりといったつもりだった。
なのに言葉にすると泣きそうになる自分がいるのがわかる。
徹は目に涙をいっぱいためている。
その髪をそっとなでてやった。
無理もない―――姉とも母とも、年の離れた友人とも思っていたのだろうから。
母を亡くしたあのときのように、慰めてやらなければ―――
けれど徹はふと後ろを向いて
「・・・ぼく、もう寝る。おやすみなさい。」
そういって部屋を後にした。
今朝の徹の目は泣きはらしたように赤かったけれど、
それでも何にも言わず、いつもと同じように振舞っていた。
しかしいるかと顔を合わせるのは辛かったのだろうか。
それとも泣きはらした目を見られるのがいやだったのだろうか。
いるかが来ていると知っても階下には降りてこない。
―――瀬をはやみ―――・・・
あの歌を思い出す。
夏の初めのあの日から
ほんの数週間しか経っていないのに
ずいぶんいろんなことがあった。
いつかまた会える。
いつかきっと。
確信とも祈りともつかない言葉を
心の中で何度も繰り返す。
そうすることが不確実な未来をすこしずつ確かにするように思えた。
机にひじを突いて
麦茶の入った深青色の薩摩切子を唇に軽く押し当てて
あてもなく視線を漂わせるいるかの横顔は
いつになく大人びて見えた。
すこし伏目がちに
まばたきもゆっくりと
物憂げな表情に思わず見入ってしまう。
その視線の先にあるものは何なのだろう。
倉鹿で過ごした過去の日々だろうか。
それとも東京で彼女を待つこれからの毎日だろうか。
―――どうして、言ってくれなかったんだ?
何度か口にしかけて、そのたび春海は言葉を飲み込んだ。
お前にとっておれはそれだけの人間でしかないのか?
何も言わないまま別れてしまってもいいと思っていたのか?
そして、そのまま忘れてしまえると?
できるなら彼女に問いただしたかった。
自分にいえなかった、そのわけを。
だけど、できなかった。
ひとりで抱えて悩んでいただろう彼女を責めることは。
出口を失ったやるせない思いが
熾火のように
春海の中で燻りつづけていた。
手探りで心を求めても
彼女の気持ちに近付けない。
わかっているのは
ただ
別れたくない、離れたくない、ということだけ。
駄々をこねる子供のようなことは口にできないけれど
せめて、まっぐに自分を見つめてほしかった。
見送られるほうが、つらいのかもしれない―――
悲しいとき、悔しいとき、いるかの涙は幾度か見てきた。
けれどいま、涙も流さずに遠くを見遣る彼女が、
今までで一番悲しんでいるのがわかる。
泣きたいなら、泣けばいい。
それで悲しみが薄くなるなら。
気持ちが落ち着くなら。
けれど、いくら涙の谷を彷徨ったとて
目前の別れの川は越えねばならない。
泣いてもどうしようもないことなら
せめて雄雄しく耐えてみせようというのだろうか。
そんな彼女は痛々しいけれど、近寄りがたくも感じた。
そして、口にしかけた問いを忘却の淵へと沈めることにした。
自分に注がれる春海の視線を感じる。
つらそうな表情を浮かべているわけではない。
もちろん泣いているわけでもない。
でも、わかる。
春海の、心の痛みが。
けれどそれにはわざと気づかないふりをして
庭の草花に視線を泳がせている。
別れたくない、離れたくないという彼の心が皮膚を通して染みとおってくる。
―――ありがとう・・・
視界の端に春海の姿をとらえつつ
心の中でいるかはつぶやいた。
いまなら―――あたしは東京に帰って行ける。
そんな気がする。
きっと、見送るほうがつらいよね。
急に知らされた、あなたのほうがつらいよね。
悲しんでくれてありがとう。
あたしのこと、想ってくれてありがとう。
でも―――
ごめんね、春海。
あなたにも、やっぱり言えない。
あなたにだから、言えない。
最後の最後まで一緒にいたいと思うけど
できるだけ長く一緒にいたいけど
本当の最後に向き合うのは、やっぱりつらすぎて。
だから
もしかしたらまた会えるかもしれないって思いながら、
お別れしたい。
もしかしたら今夜、もしかしたら明日、
もしかしたら出発のそのときに
会えるかもしれないって希望を持ちながら
お別れしたい。
いつが最後かわからないまま
あとになって
ああ、あれが最後だったなって思い出すの。
先のことはわからない。
あたしがここを去った後も好きでいてとは言えないよ。
春海を縛るような、そんな自信は、あたしにはないから。
だからせめて、友達のようにお別れしよう。
今まで、あたしも春海も好きって口にできないままだった。
付き合おうって言ってそばにいるようになったわけじゃない。
気がついたら、好きになってた。
気がついたら、いつも傍らにいた。
だから、何の約束もしないでお別れしよう。
自由な心のままでお別れしよう。
言葉に縛られていつかうそをつくのはいやだから。
別れ際の感傷から言葉だけの約束を引き出したくはないから。
「風、いい気持ちだね。」
「あぁ・・・」
「もうじき夏も終わりだね。」
「そうだな・・・」
「・・・今年は修学院の圧勝だったね。」
「そう・・・去年よりはだいぶ楽だったな。」
「・・・」
会話が途切れる。
不自然に言葉をつなげるより、二人は沈黙を選んだ。
交じらない視線。
互いの想いもまたすれちがい空回りしていた。
最後なのに―――
いるかの周りに壁を感じた。
なぜ?
触れることを拒絶するかのような、遠い視線。
最
後だから―――
このまま、髪の一筋にも触れずにいて。
おねがいだから。
友達のふりをして。
「ふり」も、し続ければ本物になるっていうよ・・・
「そろそろ、かえろっかな・・・」
「もう?」
思わずつくろわない本音が出た。
いるかはくすっと笑う。
「お夕飯までにかえるって言ってきたから。もう日も翳ってきたしね。」
「・・・わかった。送ってくよ。」
「ウン。ありがと。」
ノートを閉じ、教科書をまとめて帰りの支度をする
その指先はほんの少し震えていた。
夕刻になって急に冷えてきたばかりが理由ではないと、春海は感じた。
その手をとってあたためてやりたかった。
少し寒々しいノースリーブの肩を抱きしめたかった。
いつもより血の気の薄く感じられる唇にぬくもりを移してやりたいと願った。
けれど家に近付くにつれいるかの表情は塑像のように固くなっていった。
肩も触れ合わないまま如月の家に着いた。
「春
海、きょうはありがとね。」
「いや、別に、何も・・・」
「じゃ
あね、また。」
「ああ、水練大会の会場でな。」
無理をしていると一目でわかる表情で、いるかは微笑んで見せた。
「うん。それじゃあ、ね。」
「うん、おやすみ」
バイバイ、春海―――
いつもより少し長く彼の顔を見つめた。
忘れたくなくて、つい。
「いるか?」
「あ、ううん・・・なんでも。じゃあね・・・」
夕餉の支度をする音。
自転車が通りすぎる音。
街灯がひとつ、またひとつと燈りだした。
夕闇のせまった倉鹿の街。
映画のシーンのように心に焼き付けた。
その中に溶け込んでいる春海の姿も。
明日のいまごろは、もうここにはいない―――
明日の今ごろ、私はきっと泣いているだろう。
春海を思って泣いているだろう。
あなたはどうしているだろう?
別れも告げずに行った私を恨んでいるだろうか。
それとも軽くため息をつくだけだろうか。
それとも―――
もしかして、同じように泣いてる?
憎んでもいいよ。
恨んでもいいよ。
でも、忘れないで。
あたしがここにいたこと。
あなたを好きだったこと。
誰かを好きになっても
また恋に落ちても
忘れないで。
そして、またいつか、会えたらいいね―――
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