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BY AIR ―きっとわすれな い―
6




わたしの生徒の日のノートの上に
わたしの学習机と樹木の上に
砂の上に
雪の上に
わたしは書く あなたの名を


読まれたすべてのページの上に
書かれていないすべてのページの上に
石 血 紙あるいは灰に
わたしは書く あなたの名を




Paul Eluard "LIBERTE”






春海は疾走していた。

人ごみをかき分け、倉鹿駅に向かって。
心臓が破れるかと思うほど速く。
口の中に血の味が広がる。
なぜもっと速く走れないのか。
なぜ駅はこんなに遠いのか。
風に背中を押され
漆黒の髪をなびかせて
体中の力を振り絞って走っていた。

愛と呼ぶ にはあまりにも儚くて
恋と呼ぶにはあまりにも確かで。

たった15年しか生きていない。
それなのにもうみつけてしまったのだろうか?
こんなに早く届けられたのだろうか?

人生の、最高の贈り物を。

でも

まだ何も知らない。
どうやって抱きしめたらいいのか。
どうやって寄り添えばいいのか。
何を話せばいいのか。
どこまで心を見せればいいのか。
どこまで近づけばいいのか。
何もわからない。

まだ何も覚えていない。
あのやわらかな髪の感触も
すべらかな頬の色も。
表情を映す大きな瞳も。
小さな手のひらも。
まだ、何も覚えてはいないのに。
まだ十分見つめていないのに。

誰も教えてはくれなかった。
こんなときどうすればいいのか。
小説も、答えを教えてはくれない。
歌も、むなしく心の中でこだまするばかり。

足が砂を踏むようだ。
力の限りの速さで走っているのに
どこか頭が冷めて、いろんな言葉がぐるぐる回っている。
ありふれた別れの言葉しか浮かばなくて
もっと大切な何かははるか遠くにあって
手を伸ばしても届かない。

そして心に浮かんではきえる。
いるかの姿が。
けれど
形になるかならぬかですぐ消えてしまう。

どうか、間に合ってくれ―――

祈るような気持ちで走りつづけた。

まだ何も言っていない。
何の約束も交わしていない。
このまま別れてしまうなんて―――
どうか間に合って、どうか今一目あわせてほしい。

もし今彼女に一目会えたなら
これからもずっと好きでいられる。
もしあえなかったら
きっとこれまで。

花占いのような願掛けが心をよぎる。

ばかばかしいと思いながら
それはこの気持ちよりもずっと確かな未来のような気がして
ただ走る。
一目会えるなら
今一度逢えるなら
何を犠牲にしてもいい。

駅が視界に入る。

ホームに列車が入っている。

駅員の制止もふりきって、フェンスを飛び越えた。

―――間に合った―――





◆◆◆






東京 六段 如月邸―――

「おかえり」
「・・・ただいま」

一年半ぶりに会う両親。
二人とも変わっていない。

倉鹿からの旅を終えて、いるかは旅装を解いた。
ほぅ、とため息をつく。
きちんと整理された自分の部屋。
カバーのかかったベッドに身を投げ出した。

「いるか?」
「かーちゃん、何?」
「どうかしたの?」
「別に、どうも・・・ただちょっと疲れただけ。」
「それならいいけど・・・お夕飯の準備、もうすぐできるからね」
「あんまり食欲ない。」
「・・・熱でもあるの?」
「別にないと思うけど・・・なんで?」
「お前が食欲ないなんて・・・」
「疲れてるの。寝ちゃってもいいでしょ?」
「ええ、いいわよ。おなかすいたら下にいらっしゃいね。」
「わかった。」
「かもめちゃんから電話があったわよ。」
「そう。」
「制服、まだ着られるかしらね。お前も少しは大きくなったみたいだし・・・
五センチ位は伸びた?袖を通してみて・・・まあ、何とかなるかしらね。
あと一月しか夏服は着ないものね。」

―――おれもあれから五センチ伸びたもんな―――

春海、今何してる?
倉鹿のみんな、今頃何してる?

「じゃ、おやすみ」
「ウン。」

葵は部屋を出て行った。
一人になったいるかは
ベッドにに横たわって、目を閉じた。

―――おれ、東京に行くよ―――

春海の声が耳に残っている。
熱く。

腕に、肩に、かすかに残っている。
彼の手の力強さが、最後に離れていった指先の感触が。

目を閉じると
春海の姿が浮かび上がる。
始めてみた、彼の泣き顔が。

あなたは、こんな風に泣くんだね―――
こんな風に、涙を流すことができるんだね―――

もう、見えなくなった春海に向かって語りかけた。

―――きっと来年、東京の高校に入る―――

別れ際、春海が残したもの。
それはいるかが心の奥底で一番強く望んでいたことだった。
自分からは決して口にできなかった。
春海のことは、春海が決めることだから。
ほのめかすこともできなかった。

そしてもうひとつ。

―――すきだよ―――

誰もいない部屋で、いるかは顔がほてるのを感じる。

別れ際交わした、あの数語をいうために、
これまでの長い時間一緒にいたのだと、思った。
あの言葉にたどり着くために、自分達は寄り添ってきたのだと
はじめて、わかった。
春海と交わした言葉の数々。
思い出になる前に、きっとまた会える。


ベッドの上に身を起こして、明かりをつけないまま、窓を開けた。
虫の声はあまりしない。
蜩の声も力なく、熱く重苦しい空気はよどんだ風をはらんでいる。
倉鹿の夜とはずいぶん違う。

遠く車の通る音が絶え間なく聞こえてくる。
クラクションの音もタイヤの音も
ネオンに滲んで闇に吸い込まれていった。
庭のもみの木のこずえを揺らす風も
エアコンの室外機の放つ熱を拡散させるだけのようだ。
紫がかった空。
東京の夜はいるかの計り知れない世界を含んで不気味にさえ見えた。

そんな中でも宵の明星だけはきらめいていた。

たった一つ、ほかの星と離れてひときわ輝くその星は、春海に似ていると思った。









どんなに遠く離れていても、
空は二人をつなげていた。
いるかが見上げた同じ星を
春海もまた同じ思いで見つめていた。

明日から始まる新学期のことも
すっぽかしてしまった水練大会のことも
どうでもよかった。

いまだけは、
ただの15歳になって
心の奥からあふれ出る思いに身をゆだねたかった。
何も考えずに
涙の海に身を浸して
泣きたいだけ泣きたかった。

悲しみに身を浸した後には
やがて静かな諦めが宿ることを彼は知っていた。

まだ、かすかに残っている。
その唇の感触を記憶に刻み込んで。
自分の名を呼んだ、あの声を忘れないように。

・・くすっ

春海の口元に久しぶりに笑みが浮かぶ。
最後まで雰囲気ってものを作れないヤツだったな。
そんなところも、すべて、いるからしいと思った。

懐かしい、という言葉に
彼女を風化させたくなくて。
わずかずつ消えて行く彼女の気配を抱きしめた。

最後に彼女の指が離れた自分の右手を、そっと心臓に重ねた。





◆◆◆





数日後―――

「いるか、あんたに手紙が来てるわよ。」
「ふーん・・・」

そういって葵はダイニングテーブルの上を指差した。
進学塾か通信教育か、そんなものの案内だろうと何気なくテーブルに近寄っていった。

如月いるか様―――

紛れもないその文字は、春海のものだった。


封書を手に取る、その手が震えている。
いつものように手で破るのがもったいなくて、そのまま部屋にもって帰りはさみを使ってきった。
読みたい―――けれど怖くて、なかなか便箋を開けることができない。
でも。


如月いるか様―――


たった今、彼の手を離れたばかりのような文字。
春海、怒っているかな―――
それとも―――



無事に東京に着かれたことと思います。
ご両親はお元気でしたか。
久しぶりの六段中はいかがでしたか。
教室も鹿鳴会本部もどこか静かで、違和感があるほどです。
皆君のことは口にしませんが、それぞれ思うことがあるのでしょう。

徹は君がいなくなって寂しそうにしていましたが
それでも元気に学校へ行っています。
藍おばさんも君が東京に帰ったと聞いてとても残念そうにしていました。

帰り、女子サッカー部の練習場のそばを通りました。
秋の全国大会を控えてみんな遅くまで練習しているようです。
銀子は君がいなくなって元気がない皆を励ましているようでした。

今日はじめて正式な進路志望の調査書が配られました。
修学院にそのまま進学する生徒がほとんどとはいえ、
外部進学者もまったくいないわけではありませんから。
僕もその一人です。
提出は来週の月曜日までとのことでしたが、僕は帰りに職員室によって出してきました。



東京はまだ残暑の厳しい折でしょうね。
人一倍丈夫な君のことですが、体には気をつけてください。



そして二枚目。



―――瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
 割れても末に あわんとぞ思ふ―――



またお便りします。


山本春海




何度も読みなおした。

read between the lines―――

覚えたばかりの英熟語。
その意味が、わかった気がした。
行と行の間を読む。
その間に込められた想いを読む。

ようやく―――

離れてみて、わかった。
離れても、きっと大丈夫。
離れても、きっとうまくいく。

伝わってくる。
信じられる。
彼の心が。

そして

自分の気持ちが。


「山本春海」

目を閉じて
そう書かれた文字の上にそっと口づけた。
軽やかな便箋には、ほのかに春海の気配が残っているようだった。
きちんと三つ折にされた便箋を
胸に抱くようにした。
春海の手に触れた紙が、春海が書き綴った文字が、思い出の次に大切なものに思えた。

よんでは、たたんで。
また、開いて。
そして胸にそっと抱きしめて。

すべての文を暗記してしまうほど何度も何度も読み直してから、
いるかは返事を認めはじめた。



山本春海さま―――

話しかけるように、綴った。


お手紙をありがとうございます。
東京での生活が始まりました。
久しぶりに会った両親は変わりなく元気です。
かもめも琢磨も皆も変わっていませんでした。

わたしは遅刻もせず学校に行っています。
勉強も、ちゃんとやることに決めました。
放課後は剣道部に顔を出しています。
こちらには女子サッカー部はないので、それだけは残念です。

東京はまだ暑い日々が続きますが
倉鹿ではそろそろ朝晩が冷え込むころですね。
彼岸花も咲いているころでしょうか。
去年川べりで見たあの色鮮やかな花が目に浮かぶようです。
倉鹿で長いあいだ暮らしていたせいか、帰ってからの数日は
東京の景色がとても味気なく思えました。
けれどこちらでも通学途中の家々には百日紅やむくげが
キレイに咲いています。
あなたの家にいく途中に咲いていた下野も、昨日咲いているのを見かけました。

東京も、探せば素敵なところはあるのですね。
こちらに住んでいたときは気づきませんでした。



そして、二枚目へ。

散々悩んで、いるかもまたたった一行、こうしるした。


淋しさの谷、涙の谷をさまよわぬものは、人生を知ることすくなし―――


また、お便りいたします。

如月いるか


すこし他人行儀な文。
丁寧な言葉遣い。

でも、きっと春海にはわかる。
わかってくれる。

あたしがしたように、何度も読み返す。
ため息をつきながら、微笑みながら。

その表情が目に浮かんだ。
しばらくは見ることができない、あの涼しい目許が。

そして
彼もまた空を見上げるのだろう。

同じ太陽の下にいることを感じて、
東京に思いを馳せるのだろう。
同じ夜空の下にいることを想って、
彼も知っている六段を思い出すのだろ う。


書き上げたその手紙に封をして、宛名を書く。



―――涙の谷を―――・・・

思い出した。
確かあれは長い名前の作者の、「愛と死」とかいう小説。
海外へ行った婚約者と交わす手紙を待って、毎日何度もポストをのぞく主人公。
―――あたしも、そんな風になるんだろうな。
いるかはくすっと笑った。

久しぶりに、心がのびのびと羽を広げている。
羽ばたいて、空へと飛び立ちたくなっているのがわかる。
解き放たれた心は、倉鹿へ、春海のもとへとまっすぐに飛んでいく。


いつだって、そばにいるよ。
いつだって、想っているよ。


目にうつるすべてのものに
春海がいる。
花にも、風にも、剣道着にも。
ノートにも、教科書にも。
心を留めるすべてのものに
春海をかんじる。


この想い 風になって届け

春海のもとへ



託したのは

言葉以上の想い

少しでもはやく届きますよう

ココロも閉じ込めた、この手紙が



BY AIR―――


エアメイルでもないのに、いるかはそう書きたくなった。




(終わり)

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