馨子さま作
里見学習院殺人事件
【エピローグ】
翌日、里見学習院は終業式のみが行われた。
明日からは待望の冬休みである。
その日の朝、春海、いるか、巧巳の3人は、理事長室を訪れ事件の詳細を報告した。
その後に行われた終業式で、松之助理事長は全校生徒に理事長辞任という自らの進退を明かした。
すでに覚悟を決めていた事もあってか、実にサバサバした表情であった。
それでも、どこからともなく生徒達の間から「理事長辞任反対!」の声があがった。
しかし、本人の意思も固く、また数年前からすでに実質的な仕事は長男である竹千代副理事長に移行していること、そして今回辞任するのは理事長職であり、兼任の用務員の仕事はそのまま続けるということで、つまり、肩書きが変わっただけで今までとなんら変わりないという事で一同納得したのだった。
そして式では、生徒達への動揺を考慮し、事件の詳細までは語られなかったが、教育者としてあるまじき行為を理由に園田校長の懲戒免職も明らかにされた。
いるかは、一人校舎の屋上にいた。
金網のフェンスから、通信簿という有り難くもないクリスマスプレゼントを受け取りながらも、明日から始まる休みにウキウキとしながら三々五々と引き上げる生徒達を眺めるともなしに眺めていた。
「あっ、雪」
頬に触れた冷たさに、いるかは空を見上げた。
長い長い旅を続けてきたこの白い旅人は、やっと最終地に辿りつく。
いるかは、しばらく空を見上げていた。
次から次へと頬に当たる冷たい感触に「生きている」という実感を得たかった。
『一時でも如月いるかになりたかったのかもしれません』
自分を羨ましいといった纐纈いずみのこの一文がどうしても頭から離れなかった。
一人の心ない教師に自らの運命を狂わせてしまった彼女を思うと、切なさに胸がふるえる。
そして、自分はなんて恵まれていたのかと思う。
喧嘩早くて、気が強く、サボり癖もある、成績だってよくない。
教師から見ればかなり問題児だった自分、それでも出会った先生達は愛情をもって接してくれた。
六段中の近藤先生しかり、倉鹿の松平先生しかり、里見の松之助理事長しかり、倉鹿のじーちゃんだってそうだ。
もちろんしょっちゅう怒られはしたが、誰も自分の私欲の為に生徒を利用するような教師はいなかった。
『せめて、万引きを見つけたのが松之助じーさんだったら、決してこんな結果にはならなかったのに・・・』
いるかは、彼女の不幸を呪った。
そして、一つの決心を固めたのだった。
「ここにいたのか? こんな寒空にそんな格好でいたら風邪引くぞ」
「春海」
春海の姿を目にした途端、いるかは無意識に春海の胸に飛び込んでいた。
凍えるような寒さの中で“生”を意識し、今また春海の胸の温かさに“生”というものを感じたかったのかもしれない。
「いるか、どうかしたのか?」
いつにない彼女の態度に、春海は、戸惑いを隠せない。
問われて、頭をあげたいるかは、決意を秘めた目で春海を見つめた。
「春海、あたし、教師になりたい」
「えっ? どうしたんだ一体、突然そんなこと言い出すなんて」
いるかは、慎重に言葉を選びながら吶々と話し始めた。
「あたし、六段中でも、倉鹿でも、色々先生たちの手を焼かせたけど、それでも自分の私利私欲のために生徒を利用しようとする先生なんて一人もいなかった、だからそんな先生がいるなんて思いもしなかった。
でもそうじゃないんだね、そうじゃないこともあるんだって、今回のことでつくづく思った。
でもね、でもそれじゃあ、ダメでしょ? もう纐纈いずみのような生徒を出しちゃダメだよ。だから、だから、あたし・・・・」
いるかは、感情に言葉がついていかないのか、後の言葉を続けることができなくなった。
いるかは優しい、その行動は大雑把で雑にも見えるが、彼女の本質、心根といったものは本当にピュアで傷つきやすい。
多分、今回の事件で一番傷ついているのはいるか本人であろう。
春海はそう感じていた。
春海は、言葉の続けられなくなったいるかをそっと抱きしめ、髪を優しく梳くようになでた。
そして少し、おどけた口調で「いいんじゃないか、お前には合ってると思うぜ。でも、生徒と間違われるかもなぁ〜」
「ちょっと春海、それ、どーゆーこと!!」
「はははは・・・、冗談だよ。それなら推薦狙えばどうだ? 里見学習院大学の教育学部。
だが、推薦といっても里見の教育学部は結構狭き門だぞ、今のお前の成績じゃ、かなり厳しいぞ」
「うん・・・、でも頑張りたい、ううん、頑張る」
「そっか、じゃあ俺も出来るだけ協力するよ」
「ホント?」
いるかは、心底嬉しそうに春海に笑顔を向ける。
『あいつが羽ばたいていくのを見るのはうれしいが、いつまでも手元に置いときたいって気持ちもある、か? 複雑だな』
いつか、巧巳が言った言葉を思い出す。
『ああ、そうだな、巧巳。それでも、俺はやっぱり、一生懸命羽ばたいていこうとするあいつに、これ以上ないってぐらい参ってるんだよ』
「じゃあ、授業料の半額、前払いしてもらおうかなっ」
「へっ? 前払いってどういう・・」
いるかの言葉が言い終わらないうちにその唇をふさぐ。
いつもより甘めで、いつもより長めで、いつもより情熱的で・・・・
いつになく情熱的なキスに、いるかの頭は真っ白、足元がふわふわする感覚に襲われる。
夢心地といった表情で、唇をはずした春海を見上げる。
「いるか」
いつもなら、そう甘めに囁いて、そして唇を啄ばむような軽いキスを繰り返す。
なのに・・・
今日はその声音に怒りが混じる。
いつもと違うその声音に、いるかは一瞬ビクッと体を強張らせる。
「何? ど、どうしたの?」
「いるか、そういえば、お前やり過ぎだぞ」
「えっ? やり過ぎ? 何のこと???」
「昨日のKホテルの一件!! 若宮の前で足を組み替えてみたり、上目遣いで見つめたり、あっちはその気満々でいるんだぜ、やり過ぎだぞ」
さっきのキスの夢心地の表情に昨日のホテルでのいるかの表情が重なり、途端春海は不機嫌になったのだ。
「えっ、えっ、だって合図でしょ?」
「合図? 合図って何のことだよ」
「若宮の部屋に入ったら、まず足を組んでベッドに腰掛けろって、頃合を見計らって若宮の目の前で足を組み替えて、そん時飴玉口に入れたような表情で若宮を上目遣いに見ろ、それを合図に踏み込むからって。
なのに、春海はちっとも来てくれないし、あのおっさんは気持ち悪い顔を近づけてくるし、ホント、怖かったんだからね!!」
「ちょっと、待った!! その合図って誰が言ったんだよ?」
「誰って、巧巳だよ。若宮の部屋に入る直前、呼び止められたでしょ、あん時そう言ったよ」
「な、な、なにぃぃぃぃ」
『―――――あのヤロー』
「ちょっと、ちょっと、春海、どうしたのよ???」
「巧巳ぃー」
怒りに満ちた声が里見の校内に響き渡る。
「春海のヤツ、ほんっとにいるかの事となると冷静さを欠くよなぁ」
この後、巧巳はこの言葉の意味をその身もって、嫌って程思い知るのであった。
Fin