青い空さま作




夢魔




夢を見た。
遠い、夏の終わりの日の夢を…

汗ばむ肌に焦燥感が残る。
甘く、苦い思い出に身が焦がれる。

『今すぐ逢いたい』想い人は、今日もいつもと変わらない笑みを浮かべ、俺の名を呼
び、駆けてくるだろう。
そして、微塵の疑いもなく寄り添い、明るい声で話し掛ける事だろう…
真っ白い、無垢な心で…

いつまでも続くのは、友のような、兄妹のような、そんな関係なのかもしれない。


知らずに漏れる溜息に、自嘲的な笑みがもれる。



「おはよう、春海」
予想通りの明るい声、屈託のない笑顔。

夏休みの最後の日は、彼女の宿題の追い込みに当てられた。

呆れる程残された宿題は、今日一日を楽に潰すものだった。


「いるかおねえちゃん… まだ、こんなにあるの?」
徹も呆れた声をあげる。

「う、うるさいなーーー 今年は、ちょっといろいろ忙しくて、
なかなか進まなかったんだよ」
いつもと変わらない言い訳を、いつも通り言葉にする。

「でも、お兄ちゃんだって、甲子園とか行っていたけど、
…宿題は甲子園の前には終わっていたんだよね」
弟の言葉に軽く返事を返しながら、彼女の宿題のページを捲る。

「春海は春海。私は私なんだ」
別けのわからない言い訳を始めるのを制し、徹を遊びに行かせた。
これ以上無駄に時間を使うわけにはいかない。


彼女との時間はうれしい。それは認める。
しかし、それは中学の頃から何も変わらない、
『恋人達の時間』と言うにはあまりにも懸け離れたものだった。

彼女の視線、指先、吐息…
彼女のすべてが俺の理性を打ち砕こうとする。
それは、諸刃の刃。
彼女との新しい関係を築く礎になるかもしれない、
でも、もし失敗すれば、今までの信頼関係を打ち壊し、彼女の涙で終演を迎える。

想いに心を奪われ、時間だけが過ぎる。

彼女が、そわそわと上目使いにこちらを伺う。
そろそろ休憩を入れたいのだろう。
気付かない振りは彼女の催促の声で敢え無く終わる。

「ねぇ、春海… そろそろお茶にしない?
今日は、かぁちゃんからケーキの差し入れがあるの。
冷蔵庫に入れさせてもらってたんだ、取って来るね」

なんの迷いもない声。

パタパタと足音を響かせ、お目当てのお菓子を手に満面の笑顔で戻ってくる。
後ろには藍おばさんを従え、手慣れた手付きで、机の上を片付ける。

「春海、どれにする?」

藍おばさんが、入れたお茶を配りながら、瞳を輝かせる。
あどけない少女のような笑顔。

いつまでも変わらないでほしいと願う。それは真実。

しかし、それで良いのかと、誰かが問う。
今のままで、本当にいいのかと…

藍おばさんが、出かける事を告げて、部屋から出て行く。
いつもの買い物の時間だった。

彼女は、嬉しそうにケーキを頬張り、食べろと促す。



彼女との時間を、もっともっと感じたい。

不意を付いて、唇を重ねる。

今は家に誰もいない、『このまま』、少し力を加えれば、彼女は倒れる。
自分の力なら彼女を組みしくことも出来る。
夏の薄い服の下… 自分が少し力を加えれば…


でも、すんでのところで、理性が働く。
そして、いつも…


普段とは違うキス、いつもより、深く長いキスだけ…

彼女は、苦しそうに吐息をつき、少し驚いたように問う。

「春海? どうしたの?」

見上げた視線に責められているようで、後ろめたい思いが、
彼女から視線を反らせる。

「春海?」

彼女の不安げな声。
視線を感じながらも、宿題の続きを促すことしか出来なかった。

彼女に誤る事も、彼女の不安を拭う事も出来なかった。

暗い闇が忍び寄る。
このままでいいのか? 本当にこのままで…

もどかしさが、躯を、心を焦がす。

彼女は宿題にもどる。ペンが動き、止まり、また動く。
ペンの先でトントンと机を叩き、決まり悪そうに、質問をする。

繰り返すだけ…

藍おばさんが、買い物から帰り、昼食を作ってくれた。

食事の後も彼女は大人しくペンを動かす。


太陽が西に沈みかけた頃、彼女の宿題は終わった。

夕暮れの空の下、彼女を駅まで送る。
いつも通りの道を辿って、いつも通りの二人の距離。


この距離が嬉しい時もあった。この距離が自然な時もあった。

今はこの距離が、もどかしい…


もっと近くに躯を寄せて…
すれ違う、あの恋人達のように…


狂おしい想いは、狂気を帯びる。



彼女は下を向いたまま、何も語らない…



駅に着いた時、彼女は口を開いた。

「いつも、ありがと。助かった… 
あのね、春海、なにかあった? 私何かした? 
宿題は、いつもいつも助けてもらって、進歩ないと思う。
今度から、できるだけ自分で頑張るから… 
あの… ごめんなさい」

頬を染め、視線を落とし、彼女はその瞳に涙をためる。

違う、彼女のせいじゃない! 心の中で誰かが叫ぶ。
…しかし、『宿題』の心配か…

知らずもれる吐息は、夏の熱気を冷ます風に消える。


「私… 」

言葉に詰まる彼女は、弱々しく、いつもより小さく映る。

弱い…な… 勝つ事が出来ない。

もしも今、彼女の弱味に付け込む事が出来たなら…
出来ないなら… どれほど、苦しくとも、自分を押さえる事しかない。
彼女を手放す事も、傷つけることも出来ないから…

『理性』それに頼るしかない…



彼女の手が俺のシャツの襟刳りを掴む、
視線が落ちた瞬間、彼女が爪先立ちになり、唇が重なる。

柔らかな感触。

唇が離れる瞬間に見えた彼女の涙。


俺から離れ、駆けさる彼女。


「いるか、明日、学校で!」

思わず、大声でそう告げると、
彼女は驚いたように振り返り、そして、満面の笑みで手を降る。


また沸き起こる焦燥感。
暮れ掛けの太陽が、夏の終わりを告げる。
いつもと変わらない、でも、それでも…








春海のたくらみ
春海のさしいれ

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