みじんこさま作
雷鳴の館 如月邸バージョン
1
灰色の空は重く垂れ込めていた。八月の終わりという季節には不似合いな天候である。
六段―――如月邸は閑静な住宅街に位置していた。煉瓦造りの洋館、敷地面積は近辺の住宅の中でも大きく、通りの車の音は窓を開けていてもあまり聞こえることはなかった。
「…もうすぐ雨、降りそうだね」
如月いるかは、窓の外を見ながら呟いた。机の上のノートは真っ白な状態である。向かい合って座っていた山本春海は、その声にペンを止めた。いるかは、先程からほとんど課題が進んでいない。
「しっかり、宿題を片付けろよな。いつまで経っても終らないぞ」
春海はいつもながらの冷静な口調でそう言い放った。しかし、頬づえをついたまま、いるかはぼんやりと窓の外を眺めている。
「なんで、そんなに集中力が足りないんだ?」
眉をひそめながら、春海は呟く。
「休憩しようよ、ねっ」
春海の返事を待たず、突如、いるかは椅子から立ち上がった。そして台所に走って行った。
「さっき、食ったばかりだろう」
春海は小さくため息をついた。一日に何回、休憩があるのだろうか。勉強時間より、休憩時間の方が長いような気がする。
いるかが夏休みの宿題に追われるのは、毎年恒例の事である。高校二年生にもなると、春海自身も自分の勉強に時間を割かなくてはいけない。だがやはり、いるかの宿題に関しては「自分の担当」という意識があった。しかし、それは決して嫌ではなかった。
「今日は、ケーキもあるんだよっ」
白いシャツにジーパン姿のいるかが、うれしそうに居間に戻って来た。全く、春海の心中など察していない様子である。大きなケーキの箱を手にしていた。テーブルの上にあった教科書やノートを素早く片付けると、テーブルの端へ押しやり、ケーキの箱を嬉々として開けた。洋菓子特有の甘い香りが広がる。
「ねっ、美味しそうでしょう?」
「…随分、あるな」
「かあちゃんが知り合いに貰ったんだ。すごく美味しいらしいよ」
箱の中には、様々な形、色のケーキがぎっしりと詰まっていた。数は十個以上はある。美味しいと評判の店のケーキだと、いるかは説明をする。
「春海、どれがいい?いくつ食べる?」
「別に…どれでもいい」
むしろ、不要なくらいである。
「なんか、そっけないね」
しかし、いるかは気にする様子もなく、ケーキを物色し始めた。
「……」
一時間前と同じ風景であった。もっとも一時間前は和菓子だったが。その前はアイスクリーム、どれだけ休憩をとれば集中するのだろうか。
「早く、食えよ」
春海の目が少し厳しさを帯びた。この調子だといつまでたっても宿題は片付かないに違いない。
春海は窓から外を見上げた。今にも雨は降り出しそうであった。
「とうとう、降ってきたな」
時刻は午後六時過ぎたころ、雨が降り出した。最初は軽い調子で降り始めたのだが、突然、その激しさが増した。微かな雷鳴も伴っている。
「じゃあ、俺は、そろそろ帰るから」
天気予報では夕方以降の降水確率はかなり高かったはずだ。早く帰宅したほうがいいだろう。春海は自分の勉強道具を片付け始めた。
「ええっ、もう帰っちゃうの?」
いるかは明らかに不満の様子であった。しかし、これは宿題が片付いていないからである。単に手伝って欲しいだけであった。
「かなり、降ってきたしさ。俺、また、来なくちゃいけないんだろう?明日までに、少しは宿題やっておけよ」
と、その瞬間、居間の窓ガラスが白い光を放った。二人のいる部屋に突如、閃光が飛び込んできたのだ。
「うぎゃっ!」
いるかの悲鳴の後に、遅れて響いてきた雷鳴。
「光ったよ。今!見たよね」
「かなり近いかもな」
急いで帰らなければならない。雨も更に強さを増してきている。しかし、今朝の天気予報では台風上陸の情報などはなかったはずだ。
「…帰っちゃうの?春海」
先程の声色とは微妙に異なっていた。子供特有の幼さが混じったような声である。
「お前、雷が恐いのか?」
春海はいるかの顔を覗き込むように云う。
「…まさか、ちょっと、驚いただけ」
「ふうん。それじゃあな」
「…うん」
いるかは玄関の扉を開けた。外から、激しく雨が入ってきた。想像以上に雨はきつかった。いるかは慌てて扉を閉じた。
「すごい雨だよ!大丈夫かな。電車とか止まらない?ホントに帰るの?」
「帰るしかないだろう」
春海が傘を手にして、玄関の扉を再度開けようとした時、けたたましいような電話のベルが鳴り響いた。
「ちょっと待ってて」
いるかが慌てて居間に走って行く。数秒後、泣き声に近いような悲鳴が聞こえた。
「春海、大変だよぉ」
今度は玄関に戻って来る。慌しい光景である。
「どうした?」
「今、かあちゃんから電話があった。すぐに切れたけど」
いるかの両親は旅行中で、帰宅予定は今夜だという。
「で?」
「飛行機がこの雨で欠航になって、今日は東京に帰れないんだって。どうしよう!」
「そう云われても…俺も急いで帰るよ。じゃあ」
このままだと、本当に電車が止まるかもしれない。
「ちょっと、待って」
いるかは、慌てて春海の服を引っ張る。
「なんだよ?何度も訊くけど、本当は雷が恐いんだろう?」
どうやら、本当にいるかには雷を恐がる傾向があるようだ。意外ではあったが。
「違う…けど、停電になったりしないかなって思ってさ」
その可能性は高い。
「じゃあ、懐中電灯の用意でもしておけよ」
と、春海が云った時、また、雷鳴が轟いだ。しかも、今度は玄関の装飾品の一部が、超低音のその響きに合わせ、微かに震え動いたのだ。
「うぎゃっ!」
いるかは耳を塞いで玄関に座り込んだ。春海もこれにはさすがに驚きを隠せなかった。
「そんなに怖いのか?でも、家の中にいたら大丈夫だろう」
「…うん」
本当にいるかは雷を恐がっているらしい。外にいるときは、危険度が増すが、屋内にいればさほど、問題があるものではない。
連続した雷鳴。
いるかの顔は引きつっている。唇を噛み締めている。そんないるかの姿に、少々、春海もいるかを独りにするのが気になり始めた。
「春海が帰ったら、あたしはこの家に独りになるんだよ」
「…かもめにでも来てもらえよ」
近所に住むいるかの従姉妹の名前を云ったが、ダメだと、いるかは大きく首を振る。昨日から旅行中らしい。如月家の使用人は、通いのため翌朝まで誰も来ないという。
「お願いだから、今晩、泊まっていってよ」
いるかは半分泣き出しそうな顔であった。顔には怯えの色もある。
「……」
多分、いるかには自分の言葉の意味を正確に理解できていないだろう。単に、雷が恐いために、誰かに一緒にいて欲しいだけなのだ。
「お前さ、これから犬か猫でも飼えよ。こういう事態になった時は、心強いぞ」
「そっか、春海、頭いいね!」
「……」
やはり、誰でもいいのだ。かすかに落胆した。やはり、泊まることなどはできない。
「じゃあ、帰るから」
いるかの懇願を無視して帰宅することにした。だが、春海の想像以上に風雨は強かった。激しく横殴りに降りつける雨の中、数メートル歩いた時点で、傘が役に立たないと判断した。
帰宅不能。
先にはどうしても進めないので、とりあえず、春海は如月邸に戻った。というより、戻る以外にその時点では選択肢はなかったのだ。そして、その後、自宅へと向かう電車が運行を見合わせている事をテレビの報道から知った。
2
「じゃあ、春海は2階のゲストルームを使ってね」
春海が通された部屋は、トイレと浴室の設備がついたシティーホテル並みの部屋であった。さすがにテレビと冷蔵庫はなかったが。
窓の傍でカーテンを引き、ガラスに顔を寄せると、降りしきる雨の線がはっきりと見える。不連続な雷鳴が窓の外ではまだ轟いていた。
春海自身もこのような展開を予想していたわけではなかった。だが、少々、戸惑っているのも事実である。弟の徹は夏休みということもあり、友人宅に泊まりに行っている。おそらく独りで、この雷を恐がっているということはないだろう。
如月邸を包み込む雨の音は、更に激しさを増してきた。
(あいつ、自覚がないんだからな…)
自分を両親不在中に泊める理由は「雷への恐怖」。それだけだろう。傍にいて欲しい相手は犬や猫でもいいらしい。
自嘲的なため息が自然とこぼれた。
***
とにかく独りにならなくて良かったと、いるかは安心していた。宿題も春海が手伝ってくれたので、思ったよりも進んだ。
(…でもなんだか、春海、変だったな)
妙に落ち着きがないような素振りがあったと思えば、ぼんやりしている時もあった。しかし、勉強はいつものように手伝ってくれたので文句はなかった。もとから、何を考えているか分からない時もあるので、あまり深く考えることをやめた。
いるかはシャワーをするために浴室に向かった。まだ、雷鳴は続く。風は如月邸の周囲の木々をざわめかせている。唸り声を上げて家を叩く突風の強さは、台風なみだ。独りでは耐えられないだろう。独りにならなくて良かった。春海の提案通り、何かペットを飼うのもいいかもしれない。
いるかは素早く衣類を脱ぐと、浴室に入った。ゆっくり湯に浸りたいが、ガタガタと窓ガラスを揺らす風の音が気になる。シャワーの熱い湯は心地良く、勢い良く出る湯の音が、雨の音を一時的に掻き消してくれた。
つかの間の安心。
いるかがシャワーを止めた瞬間――――
窓の外の闇が白い光に反転した。と、同時に大きな音が響き浴室の空気を震わせた。
頭上の電気は一瞬にして消えた。
(うそだぁ!なんで消えたの?)
「停電」という言葉を頭で理解するまで、いるかはそのままの姿で硬直していた。もとから可能性はあった。雷があれば落雷も充分ありえる。そのために春海に泊まってもらったのだから。
とにかく衣服を身につけなくてはならない。おそるおそる、浴室の扉を開け、脱衣所に出た。激しい雨の音の響きと異様な闇が混ざっていた。電気のスイッチを何度も押すがやはり点灯しない。間違いなく停電だ。
(…いやだよぉ)
バスタオルで慌てて躰を拭き、用意していた着替えを身に着ける。少し大きめのTシャツをパジャマ代わりに用意していた。慣れた動作でも、暗闇は人の動きを遅くさせる。
混乱しきった頭の中で思考は空回りするばかりであった。
***
一瞬の事であった。
部屋の明かりが稲妻の閃光と同時に消えた。ほとんど間を置くことなく雷鳴が轟いた。
(…停電か)
いるかより先に風呂から出ていた春海は、ベッドに横たわったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。先程までは本を読んでいたのだが、あまり集中できずにいたので、本を閉じたのだ。
春海は起きあがった。いるかの様子を見に行かなければいけない。部屋だろうか。
部屋の温度が微かに上がったようだ。エアコンが切れたためだろう。
***
暗闇ではなかなか、服を着ることが出来ない。バスタオルで自分の躰を拭いたはずなのに、何故か少しばかりTシャツは湿っている。きちんと拭けていないのか、緊張のための汗なのか分からない。
なんとか衣服を身に着けたいるかは、春海のいる客間に行こうとした。扉のノブに手をかけた瞬間、躰のバランスを崩し大きく転倒した。床の上で滑ってしまったのだ。脱衣所はひどく濡れていたようだ。
痛みに思わず顔をしかめた。腰を打ったらしい。壁に手を手を付きながら、ゆっくりと立ち上がる。
「おい、いるか?そこにいるのか」
(―――!)
脱衣所の外から春海の声が聞こえた。同時に軽く扉が叩かれた。
「うん、いるよ」
思わず声がうわずる。扉の向こうに春海がいる。助かった。
「派手な音がしたから…」
どうやら、春海の方が先に来てくれたらしい。
「風呂、上がったのか?」
「うん、なんとか」
「出られるか?」
「うん」
いるかは扉を開けた。暗闇では感覚のみが頼りだ。見慣れた廊下は闇に包まれ、異質な空間のようであった。
「はるうみぃ!」
恐怖からの開放。思わず春海に抱き付いてしまった。
「よかったぁ。春海がいてくれて」
***
いるかの部屋に向かう途中、浴室の前を通りかかると、派手な物音が聞こえた。雷鳴とは違う質のものであったので、すぐに分かった。鈍い音であった。
扉から飛び出してきたいるかに、突然、抱きつかれた。未だ、乾ききっていない髪の毛が、春海のシャツを濡らす。
少し大き目のTシャツから露出した華奢な腕。
微かに香るシャンプーの匂い。
いるかに暗闇で、首に腕をまわされて抱きつかれるのも悪くないと内心、春海は思った。だが、この行動は進や巧巳に抱きついた理由と大差はないだろうと簡単に推測できた。
「大丈夫か?」
「うん、でも…ちょっと、コワイかな、ゴロゴロなるのはイヤだよ。春海がいてくれて本当に助かったよ」
思わず、腰に手をまわしたい衝動にかられたが、いるかの次の言葉に思わず動きが止まった。
「ごめんね。あたし、やっぱ、ペット飼った方がいいよね?」
「…なに?」
何故、こういう時に、そのような台詞が出てくるのか疑問であった。
「おまえさ、他に考えることとかないのか?」
暫しの沈黙。
「あっ、ケーキ!」
「……なに?」
「ケーキだよ。ケーキ。ほら、停電してるから、冷蔵庫の電気も止まっているし、あのケーキが腐ってしまうかも!」
いるかは、そう云うと、春海からすっと躰を離した。
どうやら落雷による停電で、冷蔵庫の電気が止まった事を心配してるらしい。
「ケーキって、昼間にお前が食べていたやつか?」
大量のケーキが春海の頭をよぎる。軽い眩暈を覚えた。
「うん。春海、台所までついて来てよ」
「で、どうするんだ?」
「腐らないうちに、食べないと」
春海は大きなため息をついた。
3
雨は相変わらず激しく降り続いていたが、雷は去っていったようだ。電気が復旧するのも時間の問題だろう。
二人は雨の音を耳にしながら、暗く長い廊下を進んだ。突き当りを左に折れ、幅広い階段を注意しながら降りた。そして、一階の居間にたどり着いた。
いるかは暗闇の中、懐中電灯をなんとか探し出した。台所の冷蔵庫が懐中電灯の光で丸く浮かび上がった。冷蔵庫を開けると、白いケーキの箱があった。
「ちょっと、持っててよ」
いるかはそう云うと、懐中電灯を春海に手渡した。しぶしぶ、懐中電灯を持たされた春海はケーキの箱にその光を当てた。
「…犬や猫は、懐中電灯を持たないぞ」
「へっ?」
突如、春海が呟くようにそう云った。
意味がわからない。しかし、そんなことはいるかにはどうでも良かった。
いるかは大きなケーキの箱を取り出した。その瞬間、周りの闇が消えた。
「あっ!」
二人は同時に小さく叫んだ。電気がついたのだ。
「良かったぁ」
「やっと、復旧したか」
闇からの開放。それは安堵に繋がり二人の緊張は一気に解けた。
「さっ、食べようか。春海はどれがいい?」
いるかは、早速、箱を開け出した。しかし春海は箱の中を覗き込もうとするいるかを制し、素早く封を閉じた。
いくら何でも、これ以上、ペット扱いは不愉快だ。自分は犬や猫ではない。
「もう、腐らないから冷蔵庫に入れておけよ」
「なんで?でも、一個くらい食べたいよぉ」
いるかはフローリングの床の上にぺたりと座り込んだまま、口を尖らした。
「あのさ…」
「なに」
「少しは自覚してくれよな」
それは、いるかにとっては春海の予想外の行動としか思えなかった。最初は何が起こっているのかも解らなかった。
台所の床の上に仰向けに横たわっている自分。春海にキスをされて、そのまま押し倒されたのだ。
上半身に軽い圧迫感が感じられた。
(―――!)
「ちょっと…」
「…ダメ?」
いるかの耳許で春海が囁く。
しかし、春海はいるかの返事など待たずに、今度はいるかの膝の下に手を入れて抱き上げた。小柄な躰は簡単に持ち上がる。
「ちょっと…」
身を固くするいるかを、そのまま、居間のソファーの上に運んだ。さすがに春海の意図していることが解り、いるかは逃れようとした。もがこうとした腕は春海の両手に素早く押さえつけられた。本気で押し返そうと思えば、いるかの力では不可能ではないだろうが、婚約している手前、押し返すタイミングを完全にはずしてしまった。
再度、口を塞がれた。
抵抗を試みない方が良いのだろうかと、そう考え一瞬、力を抜いた。春海は見逃さなかったようだ。春海の右手がいるかの薄いTシャツをまさぐり、腹部からTシャツの中に手を入れ始めた。腰から上に這い上がり始めた春海の右手は胸の下で一旦、停止した。
風呂上りのいるかは当然、ブラジャーをつけていなかった。
***
突如、玄関のチャイムが激しく鳴り出した。
(―――!)
先に気がついたのは、いるかの方だった。
未だ、降りしきる雨の音と混じって、玄関の扉を叩く音、チャイムを鳴らす音。
(ちょっと…春海!)
***
すぐに、春海の意識もそちらに向かった。いるかのTシャツの中に入れていた自分の手を思わず止めた。
(おい…これって、もしかして?)
風の音ではない。誰かが玄関を叩いている。まさか、この時間に訪問者などあるわけはない。考えられるのは―――
そう思った瞬間、春海はいるかに蹴り上げられた。いるかの膝蹴りが、春海の鳩尾に強烈に入った。
春海が低く呻く。いるかの反撃は今までの中で最高のものであった。
4
帰宅するなり、いるかの父親、鉄之介は大げさにいるかを抱きしめた。母親、葵と共にタクシーで帰宅したという。
「ごめんね、春海君、こんな時間までいるかに付き合ってくれて」
鉄之介と葵は、何度も感謝の言葉を口にした。
「…いえ、僕も帰ることができず、困っていましたし」
舌打ちしたい気持ちを心に押し込み、春海は努めて冷静に答えた。
「停電もあったんですって」
「そうそう、もう恐かったよぉ。ゴロゴロ、ピカッって感じでさ」
いるかは、春海とは正反対に慌てた様子で、早口に話す。
「それは、恐かっただろう」
何も知らない鉄之介は、いるかの傍で何度も頷く。
「やはり、こんな夜にいるかを一人で残すのも心配でね……雷がね」
「そうなのよ。雷が酷かったでしょう?雨だけならいいんだけど、いるかは雷を恐がるから、鉄之介さんが絶対に帰るって云い出して」
葵も説明に加わる。
確かに飛行機は欠航したという。ホテルも取ったらしいが、やはり、いるかが独りで雷に怯えていると思った鉄之介は、帰宅を決意したという。
「タクシーを使ったのよ。道が意外に空いていてね、早く帰れたのよ。はい、いるか、
お土産よ」
そう云いながら、葵はいるかに箱を手渡した。赤いリボンのついた銀色の包みであった。
「何、これ?」
「チョコレートよ。あんたが、前に食べたいって云っていたヤツ」
「ありがとう。かあちゃん」
いるかは早速、包みを開け出した。もう、いるかの記憶からは先程の出来事は消え去ったに違いない。
「ねえ、春海君、泊まっていくでしょう」
「いえ、僕はもう帰りますから」
もう、そんな気にはなれない。いるかに蹴り上げられた鳩尾は酷く未だ痛む。
「いやいや、それは…もう遅いし、是非」
鉄之介も云う。
「えっ、帰るの?春海、泊まっていきなよ」
チョコレートを口にしながら、平然といるかも云う。やはり、いるかの記憶からは先程の出来事は消えていたのだ。
「タクシーで帰りますから」
「もう、婚約しているし、他人行儀はいいんだよ」
鉄之介も更に引きとめる。
「大丈夫ですから」
「そうなの?残念ね、じゃあ、タクシーを呼ぶわね。でも本当にうちはかまわないのよ」
葵も残念そうに云う。
重く沈みきった心を抱いて、春海は如月邸を後にした。
***
「ねえ、かあちゃん、何かペット、飼っていい?」
「あら、どうしたの、急に」
「やっぱ、今日みたいな夜は、心細いもん。犬か猫が欲しいな」
葵は腕組しながら、少し考える。
「…そうね。自分できちんと世話できるなら飼ってもいいわよ」
「やった!」
了