青い空さま作
視線
「お前達って、付き合いだして長いよな」
巧巳は不意に言った。
部活中、木陰で休憩をとっていた春海と巧巳の前を、ボールを追ういるかが駆け抜け
る。
滴る汗をものともしない、活き活きとした横顔。
ボールだけを見つめる瞳は、輝く。
「まだ… なんだろ?」
巧巳は、いるかの動きを目で追いながら、呟いた。
「なにがだ?」
春海は怪訝な顔で、いるかから巧巳の方に視線を移す。
「あいつってさ、小振りな癖に、良い躯してるんじゃないか。
あんだけ動いてりゃ、締まるとこは締まるし、
…水泳の時見たけど、実際、なかなか…」
春海はムッとした顔で、『練習に戻るぞ』と一言を残し、立ち上がる。
一瞬、いるかの方に移した視線は、表情を変えることのない、いつもの彼のものだっ
た。
「あのさ春海、お前、今から暇か?」
練習も終わり、門に向う途中、巧巳が声をかけてきた。
「実はさ、今日、ダチからコンパに誘われてんだけど、
もう一人連れて来いって言われていたんだよな… 相手は、女子大生なんだ…」
門の傍に見なれた影があった。
「げっ、いるか」
「ちょっと、巧巳、『げっ』とはなによ」
小柄な体を目一杯に、伸ばし突っかかってくる。
大きな瞳には不信の色が宿る。
「お前、今の聞いてたのか?」
巧巳は恐る恐る聞くが、いるかは少し驚いたように、瞳を見開いて、
「何を?」
何も聞いていなかったのは、明らかだった。
彼女はすぐに顔に出るから、嘘をつく事が出来ない。
「聞いてないならいいんだ… …イヤ… 教えてやるよ。
今、春海をコンパに誘った。メンツ一人足らなくてね」
巧巳はこういうとき悪知恵が働く。少し考える素振りをしながら話す。
「なっ!」
いるかは驚き、巧巳の話術にハマる。
「いいだろ? コンパぐらい… 怒んねーよな。
お前はそんなに、心狭くないし、独占欲強くもねえよな」
「いい加減にしろよ。何言ってるんだお前は」
春海はあきれながら、もともと行く気などなかったので、
その意志を示そうとしたが、巧巳の言葉に制され、口を挟むタイミングを逃してしま
う。
「そんな女、うっとーしいだけだよなーー」
「なっ! い、いいよコンパぐらい、ようは何人か集まって御飯食べるだけだろう?
…行けば?」
『売り言葉に買い言葉』 いるかはそう言うなり、風のように走り去る。
「巧巳、お前は…」
「よかったな春海。許可が出たぜ」
「ねぇ、あなた達本当に高校生?
大学生って言っても通るぐらい、大人っぽいわね」
家に帰り、着替えを済ませて来た春海たちは、少し時間に送れてしまっていた。
もう、一度目の乾杯はなされ、みな少しアルコールが入っている。
そこはこじゃれた感じの居酒屋だった。
「そうですか?
じゃ、お姉さん達といても見劣りしなくて済みますね?」
巧巳は慣れた調子で、会話に入る。
女子大生とあって、今まで周りにいた女子達とかなり違う。
大人びた雰囲気。
すぐに春海たちの分の、追加の飲み物が運ばれてきた。
「東条君も山本君も、野球部なんだってね? 今日も練習あったの?」
近くに座っていた「サキ」と名のった女子大生が、声をかけてきた。
長い黒髪、整った顔だち、やや露出の多い服を着ている。
「えぇ…」
「夏の大会が終わったばかりなのに、次の大会に向けての練習が始まっているんです
よ。
部活は楽しいですけど、休みがあまりなくて…」
「そう、大変ね〜
二人ともモテルでしょ、里見って言ったら名門だし、
その中の野球部なんて言ったら… 女の子達がほっておかないものね」
「そうでもないですよ、みんな遠巻きには見に来ているみたいですが…
どうも、声かけにくいみたいで…」
「そうね、二人ともかっこよすぎるから、みんな彼女いるって思うのかしら?
実際いるんでしょうね?」
「そんな〜 いないですよ。心外だな」
「じゃ、山本君は? こんなところに来ていていいの?」
大人びた視線が春海に向けられる。
会話は巧巳が引き受け、
「こいつは… 実は、確かに彼女います。
おまけにこいつは、彼女べったりで、他に見向きもしないんですよ。
世の中にはこんなに綺麗なお姉さんが、いっぱいいるのに…」
少し大袈裟に立ち回り、聞いていたものたちを和ませる。
「巧巳、いい加減にしろよ。お前少し飲み過ぎじゃないのか?」
巧巳はすでに幾つかのコップを空にしていた。
春海は立ち上がり、巧巳をトイレの方に連れて行く。
「巧巳、俺、そろそろ帰るよ」
周りの喧噪から少し外れた場所で、時計を見ると9時を過ぎていた。
明日の事を考えると、妥当な時間ではあった。
「あぁ〜 そうだな。俺も帰らないと次の日きついな…」
伸びをして、軽く肩をまわす。
日頃の練習が厳しい上に、生徒会の雑用もこなしている二人には、
休息は大事なものだった。
「ちょっと、寄りたいところもあるし…」
「もしかして、いるかのところか? あいつのことだったら、大丈夫だよ
明日ちゃんとフォローしてやるし…」
「あいつのこと、じゃなくて、俺の方が顔が見たいんだよ」
「相変わらず… 大事にしてるよな… それで、なんで進展がないんだ?」
「進展はあるよ。別のところで… …婚約した」
「はぁ〜〜? コンヤクって? 婚約か? 結婚の前にするってやつか?」
「あぁ、そうだ、正式にはまだだけど、互いの両親も了承している」
「じゃ、あの噂って本当だったのか? いるかが見合いするとかしないとかってやつ
…
えっ、でも、相手がお前だったら見合いすることないよな…
と、とにかく帰るか、ダチに言って来るよ」
巧巳は、ギクシャクと音がしようなようすで、友達の方に向う。
「山本君、もう帰ちゃうの?」
春海の後ろに、いつのまにか、サキが立っていた。
座っている時には気が付かなかったが、かなり短いスカートをはき、
体に添うようにぴったりとした服を着ている。
潤んだ瞳が春海を捕らえ、
「彼女が怒るから?」
甘ったるい香りが誘うように、サキの言葉を彩る。
「いえ、彼女は怒りませんよ。それに、帰る理由は、他にあります」
「ふーーん、やっぱり彼女のことが気になるんだ。
なんか以外よね、山本君ってすごくモテそうなのに、…もう、一人って決めてるの?」
サキははじめて、春海の笑顔を見た。
顔は目の前にあるサキ自身に向けられていたが、その視線はどこか遠くの、
今、この場にいない者に向けられている。
それは、無言の肯定。
「一度、その子に会ってみたいわね…」
腕を組みながら、吐息を付く、手の中には、
『一人暮しだから気軽にかけて』と言って、春海に手渡そうと思っていたメモ。
それを軽く握り潰す。
席の方では、巧巳が最後と言う事で一揆飲みをさせられていた。
「あいつ、あんなに飲んで大丈夫なのか?」
呟きながらも、春海はその場を動こうとしない。
サキは、『じゃ、気をつけて帰ってね』とだけ言って席に帰って行った。
巧巳は最後に、サキと何か話をし、春海のところに戻ってきた。
二人で店を後にする。
「おい、春海、お前、本当に いるかの ところに よって行く気か?」
巧巳は、呂律が回らなくなっているようで、言葉をとぎらせながら話す。
「あぁ、時間が時間だから、訪ねる気はないが… 一応な」
「そうか… 今日は悪かったな」
「そう思うなら、一人でまっすぐ歩いて家まで帰ってくれ、
流石にお前を送った後に、いるかの家まで行くのはきつい」
「案外冷たいな…」
「当たり前だろ」
巧巳は、ヘイヘイと返事をし、後ろ手に手を振り、闇の中に消えて行った。
春海は、自分の時計を確認し、いるかの家に急ぐ、運が良ければ会えるだろう。
六段のいるかの家は、閑静な住宅地の中にある。
もう、多くの家の電気が消えていた。
見上げるいるかの部屋の電気も例外ではなかった。
「あいつ、相変わらず良く寝るよな…」
春海は独り言を呟き、しばらくいるかの部屋を見上げていた。
昼間には、残暑の厳しさがあるが、夜には、もう肌寒い季節になっていた。
しばらく立ち尽くしていた春海だったが、諦めて帰ろうとした時、
不意にいるかの部屋の中を影が過り、静かに窓を開けた。
影は驚いた声をあげる。
「春海?」
闇の中でもお互いのことがはっきりわかる。
「どうしたの? こんな時間に? ちょっと待ってて」
パタパタとスリッパの音をさせながら、玄関から飛び出してきた。
肩から薄い、カーディガンを羽織り、下は明らかにパジャマのまま…
「いるか… そんな格好じゃ風邪をひくよ」
「春海こそ、こんな時間に… コンパ、終わったの?」
明らかに気になっていたのだろう、問う。
「巧巳と二人で抜けてきた」
「楽しかった?」
「程々にね、でも、流石に少し疲れた」
風が二人の間を抜け、いるかは小さく身震いをした。
「寒いから、もう家に入れよ」
「春海も、入る? 今日はとーちゃんもかーちゃんもいないんだ」
「それは、… …こんな時間だし、帰るよ」
「でも、コーヒーぐらい入れるよ。少しだけ、寄って行ってよ…」
なにか不安な事があったのか、いるかは頻りに春海を家の中に誘う。
「何かあったのか?」
春海も、いるかの様子に訝しがりながら、自分が付いて行かなければ、
家に入りそうもない恋人の後に従い、家に上がる。
「実はね、ちょっと、ホラー映画を見ちゃって… 一人で怖かったんだ…」
机にはテレビ欄を上に新聞がおいてあった。
「苦手なら、見なければいいのに…」
春海は、呆れながらつぶやく。
いるかから目を反らせ、小さな溜息をついた。
『いるかは、自分が想う程には…』いつも胸をよぎる不安、
彼女と目を合わす事が出来ない…
いるかは台所へ向う足を止め、
「だ、だって、だって、一人で、…春海、コンパ行っちゃうし…
電話したんだ。気になって、そしたら、徹君から、巧巳と出かけたって聞いて…
なんか、イヤで… テレビでも見ようと思って、いろいろチャンネル変えてたら…
あんなのやってて、でも、見ちゃうと、続きが気になって…」
いるかは、頬を膨らませ、下を向く。
大きな瞳は少し潤んでいた。
「お前ってやつは、嫌ならそう言えばいいのに、巧巳の口車に乗せられて…」
そっといるかを抱き締めながら、春海は、いるかの顎に手をかけ上を向かせ、
唇を重ねた。
「お前だけだから」
つぶやきは、二度目のキスに消え、春海の唇がいるかの首筋を伝う。
「えっ、 は、る …」
いるかは少し、身を堅くしたが、明らかな抵抗はしない。
「いるか…」
いるかの肩に掛かったカーディガンが落ちる。
春海の手が、いるかのパジャマの裾を探す。
その時響いた、静かな時間を裂く、電話の音。
二人は、慌てて体を離し、いるかは受話器をとる、少し裏返った声で、電話に出た。
「あ、あの、夜分遅くに申し訳ありません、東条と申しますが、いるかさんを…」
「えっ、あっ! 巧巳?」
「いるかか? よかった! 親が出たらどうしょうかと思ったよ」
「ど、どうしたの?」
「あ、あぁ、今日はすまなかったなっと思って、誤りたかったんだ。
春海が気にしててさ、終わってから、お前ん家に行くって言ってたけど、会えたか?
会えなくてもいいとか言ってたから、もう帰ったかな?
とにかく、謝ったからな、明日は仏頂面で来るのは辞めてくれよな。
じゃ! 明日な」
一方的にかかって着て、切れた電話。
受話器を持ったまま、笑い出したいるかに、苦笑する春海。
ついさっきまでの、甘やかな雰囲気など微塵もない。
「あっ、春海、コーヒー入れるね」
受話器を置き、笑いをかみ殺しながら、いるかは再び台所に向おうとする。
「イヤ、いいよ。もう、大丈夫だろ? 今日は帰るよ」
「えっ、あっ …うん」
少し寂し気ないるかは、それでも、玄関で春海を送る。
「また、明日…」
明日があるとわかっていても、お互い寂しいと思う気持ちは隠せない。
春海は、そっといるかの耳もとで囁く。
「いるか、いつか、さっきの続きしよう」
いるかは途端に、赤くなり、『馬鹿』と春海に平手を飛ばす。
春海は寸でのところで避け、『じゃ』と闇の中に消える。
秋の冷たい風がいるかの髪を弄ぶ。
いるかを包む春海の柔らかな微笑みは、彼が帰った後もいるかの心に残り、
小さな、あたたかな炎に変わる。