そうしてかれは彼女のちいさな両手のひらに唇を寄せた。

かすかに汗ばんだ手のひらの上を唇がなぞり
ややあって目当てのものに触れる。
薄く、小さく、たよりないひとひらの花びら。
こわさないように、そっと、そっと、上唇と下唇の間に挟んだ―――。





桜和奏 sakura wa kana

−桜は 和して 奏でる−

50000hit記念 和奏サマに捧ぐ






江戸時代から続く剣術道場として、歴史と伝統を誇る修学院には
古木といえるほど樹齢を重ねた桜が何本かある。

そのなかでも
「学校の正門」としては不釣合いなほど立派な正門に
しなだれかかるようにして寄り添う桜は
派手好きな学院長の趣味にいささか辟易している職員や生徒たちの間にあっても
なかなかの評判であった。

すったもんだの三学期は終り、
一学年欠いた倉鹿修学院の春休みはどこかのどかである。
厳しい冬の練習を乗り越えて
うららかな日差しに生徒たちの心身も伸びやかになるのだろう。
厳しい先輩は卒業し
グラウンドの周りには梅がそして桜が次々に見ごろとなる。

花の名前など両手で数えられるくらいしか知らない中学生たちも
修学院の桜の美しさは誰彼となく自慢したくなるような風情なのだ。
そしてそれはこの長身の、
中学生らしからぬ落ち着きを持った鹿鳴会会長も同じことで―――



いつものように、待ち合わせは鹿鳴会の会議室。
春休みに入っても当然のように待ち合わせ、一緒に帰る。
野球部の練習のあとの心地よい疲れが身体に纏いついていた。
桜に誘われるように、思い出す。
一年前のこと、二年前のこと。

入学当初から部を引っ張ってくる立場だった。
当時は身長も今ほどはなく
ひとまわりもふたまわりも大きな先輩に向かって
反感を買わないように、要らぬプライドを刺激しないように
春海なりに気を遣ってきたのだ。
それも、この春で終り―――
ようやく、自分たちは最終学年になる。

ほうっと
肩の力が抜けるようなため息を漏らす。

なんか、いいな、こういう感じ―――
心に憂うことがなくなって
胸いっぱい新しい空気を吸い込めて
こわばっていた身体が楽になっていく。

そしてそれ以上に
久しぶりに味わう
「待ち遠しい」という感覚が
自分をこんなにも軽やかにする。

早く会いたい。
彼女の笑顔が見たい。
やや高くてよく通る、それでいて少しもうるさいと感じない
あの声が聞きたい。
あの声で名前を呼ばれたい。
春海、と―――。




剣道は個人の戦いだと思う。
団体戦はあるが所詮は一対一だ。
しかし野球は違う。
自分ひとりが強くなっても勝利は望めない。
まして全国レベルになれば。

上級生を追い抜いて部を引っ張っていく自分に
風当たりが強いことは最初からわかっていた。
鹿鳴会会長という権力をもってしても
人の心の中までは操れない。
だからそんな環境の中でも
心から自分を信じついてきてくれる仲間ができるか―――
野球部を率いて全国一に導けるか―――
それが、二年前自分に課した課題だった。

けれどそれは建前のことで。
自分は―――
一緒に戦う仲間が欲しかったんだろう。
野球というチームスポーツに仮託して
自分の抱える「何か」を一緒に超えていけるような仲間が。
言葉にしなくても一体感を得られるような。
馴れ合ったり上辺だけでやさしくされるような
そんな付き合いでない仲間が。


汗だくになりながらもいい目をして自分についてくる後輩たち。
軽口をたたきあいながらも真剣にぶつかってくる仲間たち。

今年こそ、その課題は成し遂げられそうだ、と思う。
東条巧巳が卒業したからではなく
自分が、自分たちが、それを成し遂げられるだけのものを積み重ねてきたと思うから。

翳っていく会議室の中で
春海は窓の外の桜を見るともなしに眺めながら
そんなことを思っていた。



「春海おまたせっ!」

静寂を軽やかに破ったのは
予想通りの待ち人。
ついこの前想いの通じたコイビト。
あわててきたのか
セーラー服のリボンが変な形に曲がっている。

「……やあ。」

いかにもそっけないような返事は
今か今かと彼女を待っていた心と裏腹だ。

「……曲がってるぞ、リボン。」
「え?ああ、うわ、やだっ!」

春海に指摘されているかはあわてているかは胸元のリボンを解こうとする。
思ったより固く結んでいたのか
うまく解けない。
おまけに春海がじっと見ていると思うと
なにやらじっと手が汗ばんでなおさら不器用になっていく。

ふっ、と
鼻先で笑われたような気がして
むっとして顔を見上げると
思いがけず優しげな瞳と目が合った。

「ほら、貸しな。やってやるから。」
「い、いいよぅ……」

春海はいるかの制止など聞かなかったように
するするとリボンを解いて
長さを左右あわせる。
襞がきれいに出るようにひと結び目を衿と衿の間にきちんと収め、
もうひと結び目はゆっくりと
衿近くにいって初めてきゅっと力を込められて
美しい結び目が出来上がる。

「も、もう帰るだけだし、適当でいいから……」

いつまでも衿元を離れない春海の指先が少し落ち着かないのだ。
襞をきれいにしてくれているのはわかるのだが、
布越しでも伝わる指先に心拍数が高まっていく。

―――結び目が心臓のうえでなくてよかった。
心臓の上だったら、こんなことだけでこんなにもどきどきしていることが
春海にばれてしまう。

つい、と上を向くと思いのほか真剣な春海の表情が見えた。

こんなに近くで
こんなにそばにいて
まじまじと春海の顔を見つめる機会なんて今までなかったな、とおもう。

見慣れているはずなのに。
春海がかっこいいことなんてわかってるはずなのに。

やだ…あたし、ほんとに、春海が好きなんだ。

きゅっと心臓がつかまれたような甘切ない痛みを覚えて
いるかは瞬きも忘れ春海を見上げる。

この瞬間がずっと続けばいいって思う。
ほかに何にも見えない。
春海しか見れない。
春海しか感じられない。

これが―――恋ってものなんだろうか。

はしったくらいではめったに息を切らさないあたしが
こんなにどきどきするなんて。
なんだか怖いよ。
自分が自分じゃなくなるみたい―――。


「―――できた。うん、これでいいな。」
春海は満足げな笑顔を浮かべている。
いかにも心を込めた作品が仕上がったというふうで。
こんなことにも真剣な春海に、はじめてであった気がする。
それは、あたしだから、っておもってもいいのかな…?
喜んでいいのか判断しかねるけれど
背中がこそばゆいと感じるほど嬉しい。
こんな春海を知っているのはあたしだけだって、思ってもいいのかな…?

「あ、ありがと。うん、春海ほんと器用だね!
リボンまできれいに結べちゃうなんて!
ま、まのかちゃんの、やややってあげてたとか?」

―――いきなりなにを言い出すんだ、あたし。
思わず口から出た言葉に自分がびっくりした。

「なんでここでまのかが出てくんだよ。」

心底意外、という感じの春海の声が上から降ってくる。

「だだだってさ、すんごいなかよかったじゃんっ!
いつも一緒だったしっ」
「まあ、一緒にはいたか……」
「そそそうだよ…っ………春海なんで笑ってんの。」
「いや、別に。」
「別にって何よ。ニヤニヤして気持ち悪いっ。」
「ひでーな。せっかくかわいいなぁって思ってたのに。」
「誰が!」
「おまえが。」

「……」
「……」


考える前に軽口が出てくるはずの
江戸っ子(三代は続いていないが)自慢の口が
言葉を失ってしまっていた。






帰るぞ、そういわれたのを合図に
無言で下足場へ向かう。

校舎の廊下は電気がついていなくて薄暗かった。

―――あたし、背が低くてよかった。

いるかはおそらく生まれてはじめてそう思った。
今顔を覗き込まれたら
きっと恥ずかしいくらい真っ赤だろう。

それでも不自然に見えない程度にうつむいて、
並んで歩いた。
一歩、一歩、木の廊下が軽くみしりと音を立てる。
その音が春海と自分でほぼ一致している。

―――ああ、歩幅を狭めてくれているんだな。

その無言の心遣いがひどく嬉しくて、
でも、ありがとうというほどのことではないような気がして
それにまだ春海と面と向かうのは恥ずかしい気がして
まっすぐ前を向いた春海の靴の先を目で追いながら歩いた。


なんでもないことが、特別になる。
なんでもない時間が、ずっと続いてほしいと思う。


こんな気持ちはしらなかった。
身体が心が、生まれ変わるような作り変えられていくような
そんな気がする。




花冷えの中
修学院の桜はすでに散り始めている。

夕闇迫る中
白っぽく浮かび上がる校門の桜は
遠目にも心が騒ぐほど美しい。

「散り始めたね……」
「ああ……」


同じものを見ている。
隣で見ている。
言葉を交わしている。

それが、どうしてこんなに嬉しくて、もったいないって思うんだろう。
こんなに愛しい時間をどうしたらいいんだろう。
どうしよう。
心がもう、あふれそう。






「あ…っ!」

不意に、いるかの目の前にひらひらと花びらが舞い降りてきた。
いるかはほとんど反射的に両手でぱっと捕まえる。
そして
まるで閉じ込めた生き物を逃がさないように
そっと手のひらを開けた。

「わ…落ちる前に捕まえた!」
「さすがの動体視力だな―。」
「えへっ!」

薄く軽い花びらが逃げないように、
いるかは手のひらで閉じ込めたまま
背の高い春海に見えるように腕を伸ばして差し出す。




その両手首が、不意につかまれた。




そうしてかれは彼女のちいさな手のひらに唇を寄せた。

かすかに汗ばんだ手のひらの上を唇がなぞり
ややあって目当てのものに触れる。
薄く、小さく、たよりないひとひらの花びら。
こわさないように、そっと、そっと、上唇と下唇の間に挟む。


つかんで無理やり自分の口許に引き寄せていたいた彼女の両手首から力を抜いて
ゆっくりと、目を開ける。

ああ、思ったとおり―――
小さな彼女は真っ赤だ。
それでも感心なことに自分から目は逸らさずに
しばし、二人の視線がつながった。

彼女には、逃げ出さないだけでも精一杯なのかもしれない。
少し足が震えているのがわかる。

何もしゃべらずただ目線だけ合わせて
互いの息遣いもわかるほどそばにいて。

目が潤んでいるのは
突然の自分の悪戯に瞬きを忘れたせい?
君の大きな目に涙がにじんでいるのは
おれのせいだとうぬぼれてもいいだろう?



春海は彼女の頭に手のひらを延べて
くしゃっと髪を指に絡ませる。
いつしか癖になってしまったしぐさに
いつものように彼女が反応する。
背の低いことを何より気にする彼女は
もう、やめてよねっと
怒ったように背を向けるのだ。

でも
本当は怒ってなどいない。
少し上ずった、早口の台詞は彼女一流の照れ隠し、なのだ。
それがわかるほどにはおれたちは親密になったと
そう思ってもいいよな?

いるかは石段をとんとん、と弾むような足どりで降りていく。
春海はその後をついていく。
先ほど咥えた花びらをハンカチに包みそっと上着のポケットに入れて。



帰ったら一番好きな本の
一番好きなページにはさんでおこう

そう思った。






和奏さまからのコメント


さて。作品さっそく拝読しました。
マウスを握る手が震えるほど緊張しました〜。(鬼汗)
「自分のお願いしたお題で作品を書いてもらう」なんて
よく考えたらものすごい贅沢ですよね!
さらに「和奏」の名前も使っていただき光栄です。
実は娘の名前候補に最後の2つまで残った名前なんです。
もう一方の名前をつけたのですが、使ってあげられなかった残念さが
昇華されるような、ステキな作品となって私の元へ舞い戻って来て
自分のもう一人の娘のような気分です。

作品を読んでいてかつて幼かった自分が確かに経験した
「恋のはじまり」のドキドキ感と踏み出していく甘い緊張感
作品から引用すると
<なんでもないことが、特別になる。
なんでもない時間が、ずっと続いてほしいと思う>という部分は
毎日すこしずつ、すこしずつ好きになって心が寄り添っていく
あのなんともいえない心の動きを再現して下さっているなと思いました。

セーラー服のリボンを結ぶ春海
サクラの花びらをやさしく口にあてる春海
春ならではのエロスです。
サクラの季節特有の、ふわ〜っと吹く風。
舞い散るサクラ。
確かに真剣に恋していた自分をはっきりとおもいだしました。

オトナへの階段をしっかり着実に(同級生たちより早く)のぼり成長していく春海。
恋をしたことで(たぶんチョコレートを作った辺り→キスの1ヶ月くらいで)
一気に3階分くらい?階段をのぼりきったいるかちゃんの心の動きと不安定さ
(息切れしそうにいっぱいいっぱいな心境)を
はかなく散り舞うサクラの風景とともに本当にステキに表現されていますね。

本当に美しい作品に仕上げてくださって大感激です。

2006.2.24


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