はるのうみ |
三月も下旬、 引越しのごたごたも一段落したころ、いるかから電話がかかってきた。 「はい」 「・・春海?」 「いるか?どうした?」 「そろそろお引越しも一段落したかなと思って。」 「うん、大体はね。」 「徹くんは?」 「うん、今新しい学校を藍おばさんと下見に行ってる」 「そっか、転校するんだもんね」 「ああ」 「・・・ねえ、あしたひま?」 「うん・・・そうだな・・・どうかしたのか?」 「うん、一段落したならどっかに遊びに行こうかなと思ってさ。」 「いいよ。どこか行きたいところがあるのか?」 「まあね・・・じゃ、あす、9時に新宿駅ね。小田急線の西口改札前でいい?」 「うん、わかると思う。」 「じゃ九時ね。」 「で、どこに行くんだ?」 「・・・内緒!」 「・・・なんだよ、それは」 「いいでしょ、ついてきてよ。」 「・・・わかったよ。」 「じゃ、あしたね。」 「うん。あした。」 翌日九時。 俺が新宿に着くと、そこにはもういるかが来ていた。 「めずらしいなーおまえがおくれないなんて」 「めずらしいは余計!」 間髪をいれず右手がとんでくる。 「いいから、行こうぜ。・・・ってどこまで行くんだ?」 「もう切符はかってあるんだ!今日はついてくるって約束でしょ。」 いるかはことのほかうれしそうだ。 つられて自分の口元も緩むのがわかる。 「・・・わかったよ。」 「じゃあついてきて!」 俺といるかは小田急線の改札を通った。 何本かあるプラットフォームには 在来線のほかに銀色の列車がすでに入っていた。 「はやく、こっちだよ!」 いるかに手を引かれて半ば引きずられるように乗り込んだ。 列車は指定席で、いるかは窓際に座っている。 まもなく列車はホームから滑り出した。 「お姉ちゃん、ハンバーグ弁当とお茶おねがい!」 俺のほうを向いて 「春海、朝食べてきた?」 「ああ。」 「じゃお茶はいっこでいいや」 「お弁当はおいくつ・・・」 「二個ね」 「ありがとうございます」 「お前、朝食ってこなかったのか?」 「ううん、食べてきたよ。」 「・・・相変わらず、よく食うな。」 「だって早起きしたらおなかすいたんだもん!」 さも当然のようにいるかがいう。 「変わってないな。お前は。」 「へへへ」 列車はほとんどとまることもなく走っていく。 このあたりになると、俺はもう来たことがない。 「どこで降りるんだ?」 「・・・いったでしょ?ないしょだって」 エビフライの尻尾をつまみながらいるかが答え、おおげさに片目をつぶって見せる。 思わずその柔らかな髪に手が伸びる。いるかはちょっと照れくさそうだ。 去年の夏にいるかが東京に帰ってから、 修学旅行、里見の入試のときと、会う機会がなかったわけではないけれど、 なんとなくせわしなく落ち着かないものだった。 二人して里見に受かったいま、いるかは勉強から開放されたこともあってか、 倉鹿にいたころのようにのびのびしているように見える。 思えば俺たちは二人きりでいたことはほとんどない。 いつも誰かと一緒だった。 俺はそれをもどかしく思うことも多かったけれど、いるかはまるで気にしてないようだった。 その辺がいるかのいるからしいところなんだろうが・・・ もう少しちかくに、もう少しそばにおいておきたいのに、いるかはするりと腕の中から逃れていくようで、いつも不安だった・・・ 弁当を軽く平らげたいるかは、そのまますやすやと寝入ってしまった。 肩にかすかな重さを感じながら、つくづくといるかの寝顔に見入る。 倉鹿にいたころより幾分伸びている髪。長いまつげ・・・かすかに開いているあどけない口元。何も、変わらない・・・何も・・・ どんなに会いたかったか。 どんなに声が聞きたかったか。 どんなにこの腕の中に抱きしめたいと思ったか。 いるかと帰った通学路、一緒に立ち寄った駄菓子屋、三年の二、三学期はそれらを見るたびに胸が痛んだ。 みんながいても、いつも一人のような気がした。 いるか一人がいないことが、心の中に大きな風穴を開けてしまったようで、なにをみてもいるかを思い出した。 でも、いるかは何も変わっていない。 いまとなっては、いるかが俺のそばからいなくなっていた時期があったことさえうそのようだ。 こうして、そばにいて、肩に頭をもたせて・・・ 「あ、終点だ。おりなきゃ」 列車がスピードを緩め始めたころ、いるかが目を覚ました。 プラットフォームには「藤沢」とある。 「ごめーん、あたしずっと寝ちゃってたねー」 いるかがてれたように笑う。 「寝顔もかわいかったよ」 「えっっ!!!!なにいってん・・・」 寝起きで薄く染まった頬がたちまち真っ赤になる。 「もうっ、なにいってんのっ、おりるよっ」 ぷいっと横を向いて立ち上がる。 そんなしぐさに、微笑まずにはいられない。 「ここで乗換えなの。」 そういっているかは俺の手を引っ張っていく。 迷子にならないように、とでも思っているのだろうか。 俺にはこんないるかの何気ないしぐさにいつもどきどきしてきた。 たぶん、顔には出てない・・・と思うのだが。 江ノ電――― 名前は聞いたことがある。 単線で、鎌倉まで行く路面電車だ。 「行き先は鎌倉?」 「ふふふっ、まだ内緒!」 二両しかない小さな列車に乗り、 車窓ぎりぎりまで迫っている人家や植物に驚きはしゃぎながら、 いくつかの小さな駅を過ぎる。 「ここでおりるの」 てっきり鎌倉に行くものと思っていたのに、いるかは途中の駅で降りるといった。 七里ヶ浜ー周りは住宅地ばかりの、小さな小さな駅だった。 「こっちこっち!」 いるかはもう小走りだ。 家と家の間を縫うような細い道を抜けて、いきなり目に飛び込んできたのはー 海だ。 穏やかな春の日差しを浴びて、きらきらと柔らかに光を跳ね返す、つややかな海だった。 いるかはもう駆けている。 車道をすり抜け、ガードレールを飛び越え、 (あいつスカートなのに・・・)と思うまもなく砂浜へ飛び降りていた。 正午に近い日差しが、いるかの髪を透かしてきらきら輝かせている。波打ち際まで走って、どうだっ、というかのように自慢げにこちらを振り返った。 浜昼顔のほの白い花が海からの風にふるえながら岩にからみつくように咲き、 けぶったような空は遠く江ノ島をぼんやりと映し出している。 しばらくして、いるかが言った。 「これを春海に見せたかったんだ」 「・・・ここ、前にも来たことあるのか?」 「うん、いちどね・・・小学校のときの遠足で。」 「江ノ電の車中から外を見てたら、急に海が飛び込んできて・・・すっごくきれいだと思ったんだ。 でね、いつか、ここで降りてみたいって思ってたの。」 「それにね・・・」 「・・それに?」 「春海、春の海って書くでしょう。名前を聞いたとき、ここのこと、すぐに思い出したんだ。」 「じゃあ、ずいぶんまえじゃないか。」 「まあね。」 「・・・いい名前だなーって、ずっと思ってたんだ。」 * * * いるかは波打ち際に沿ってゆっくりと歩き出す。 「あっ、きれいな貝殻!」 「この辺でもまだこんなにきれいなのがあるんだねぇ」 うれしそうに拾って、俺に見せた。 桜色の、小ぶりの巻貝。 ちょうどお前の爪の色のような・・・といいかけて、照れくさくなって口ごもった。 普通、スポーツをやる人間は爪をやや短めに切る。 微妙な力加減はもちろん、何よりも怪我をしないためだ。 貝殻をもてあそぶいるかの爪は、見慣れた長さより少し長い。 きれいに伸ばした爪で貝殻をもてあそぶ姿が、なんだか別人のようだと思った。 「何よ?」 「・・・なんでもないよ」 へんなの、とでもいいたげにいるかはくすっと笑う。 海から吹いてくる風が心地よい。砂を踏む足取りもゆったりと、俺たちは歩き続けた。 遠くに気の早いサーファーが見える。 「ああ、宿題のないやすみっていいなー」 いるかが伸びをしながらいう。 「もう一生分勉強しちゃった気がするよー」 「って、お前これから高校に入るんだぞ」 「・・・わかってるけどっ」 眉を寄せて、口を尖らす。 俺はいるかの頭に手を当てて髪をくしゃっとする。 「よくがんばったな」 「ん・・・」 春海とずっと一緒にいたかったんだもん・・・ なかなか口に出してはいえない。 東京に帰ってきて、かもめや琢磨や友達がいて、とーちゃんもかーちゃんもいて、でも、ずっとさびしかった。 受験のために猛勉強しなきゃいけないのも、その寂しさからいっとき逃れられると思えば少しは楽になった。 懐かしい学校、懐かしい友達、懐かしい家。でも、春海がいない。 鹿鳴会のみんなも、銀子も、お杏も、湊も博美も、みんないない。 いつも一緒に帰っていた、いつも隣にいた、春海がいない・・・ 春にみんなで合宿したときは、春海はここに座っていた・・・ 指に怪我したあたしに絆創膏をはってくれた・・・ 後ろから抱きしめられて、あたしはびっくりして、殴ったり蹴ったりしてしまった・・・ いつもあたしは考えるより手のほうが早い・・・ あとから考えるとそんなにいやじゃなかったのに。 いっつも謝るのは心の中。なかなかゴメンって言えない。 言わなくたって、春海はわかってくれてると思いたいけど・・・ 隣を歩く春海をそっと見つめる。 前髪が風に揺れて、何気なくかき上げる。水平線を目を細めて見つめている。 ・・・何を考えているんだろう。 里見学習院のこと?倉鹿のこと?それとももっと先のこと・・・? こうしてみると、春海って本当にきれいな顔立ちをしている。 お母さんに似たのかな・・・ 春海のお母さんって、顔まではあまり覚えてないけど、 なんだか少しさびしげで、でもとてもやさしそうなきれいな人だったような気がする。 とーちゃんたちが離婚するかもしれないって聞いて、あたしはあの時ものすごく不安で、ひとりぽっちだった。 まだ八歳で、ドアの向こうのきつい言葉のやり取りに、ただただひざを抱えて泣いていることしかできなかった。 悲しいことがあると歌を歌うっていったあのきれいな人は、やっぱり悲しいことを抱えていたんだろうか。 いるかは春海の横顔に、記憶の中にかすかに残った女性を探す。 浴衣を着て、赤ちゃんを抱いて、あの人も川原で歌を口ずさんでいたのかもしれない。 遠くを見ている春海の目は、どこか冷たそうにも、さびしそうにも見える。 「・・いるか?」 「・・えっ?」 急に呼びかけられて、いるかははっとした。 「どうしたんだよ。複雑な顔して。お前らしくもない。」 「しっ失礼なっ。あたしだって考え事くらいするよっ。」 「ふーん・・・何を考えてたんだ?」 ー春海のことだよ、とは言えない。 「そっ、そんなことどうでもいいでしょっ。春海こそ、ぼーっと何を考えてたのよっ。」 「おれは・・・」 「ん?」 「・・・お前のことを。」 「えっ?」 にやり、と笑って 「朝飯を食った上、車内で弁当を二つも食べたけど、 そろそろ昼飯にしようなんて考えてるんじゃないかって・・・」 とたんにいるかは大きい目をきらきらさせて 「あっ、そーだ!もうお昼だね!」 といった。 「おまえ・・・」 春海は半ばあきれたようにため息をつく。 「鎌倉にね、おいしいピロシキやさんがあるの! 食べながら八幡宮におまいりに行こうよ!」 「・・・お参りはピロシキのついでか?」 「もっちろん!」 俺は苦笑いを隠せない。 「そんなんじゃ御利益ないぞ。」 「いーのっ!ああ、なんか言われたらおなかすいてきちゃったなー、春海、早くいこ!」 いるかはもう早足になっている。 「・・・おい、待てよ。」 いまなら、二人きりだー 俺はいるかの手をぐいっと引っ張った。 いるかは砂に足をとられてそのまま俺の腕の中におさまった。 「春海?」 「もうしばらくお昼はお預けだ。」 「えー・・・」 いるかの不満げな声は春海の唇に吸われて消えた。 誰もいない砂浜で、二人の影はひとつになった。 打ち寄せては返す波の音も、穏やかに包む光も、足をくすぐるような砂浜も、 水平線をはるか見晴るかす海原も、春海そのもののようだと、いるかは思った。 大きくて、やさしくて、あったかくて、いつもそばにいて・・・ 自分はそんなに弱い人間じゃないって、思ってるけど、 春海のいないこの数ヶ月はいつも崩れてしまいそうな自分を感じていた。 会いたくて会いたくて、来てほしくない入試の日でさえ心待ちにした。 でも、これからはずっと一緒にいる。倉鹿のときのように・・・ 「ずっと、あいたかった・・・」 いるかはちょっと驚いて春海を見上げた。 春海は時々あたしの思っていることそのままを口にする・・・ 「うん・・・」 あたしも、ずっとずっと会いたかったんだ・・・心の中でつぶやく。 春海はまた少し背が伸びたみたいだ。 ・・・あたしは相変わらずチビだって思われてるのかな・・・? 本当はいつまでもこうしていたいけど、やっぱり顔が赤くなる。 照れくさくって、どうしていいかわからなくなってしまう。 何か言わなくちゃ。 「ね、ご飯食べにいこ?」 「・・・まったく、おまえは・・・」 といいながらも春海はいるかの背にまわしていた腕をほどく。 色気より食い気ってこいつのためにある言葉なんじゃないか・・・ まあ、いっか・・・なんにせよこれからはずっと一緒にいられるのだから・・・ 「春海!こっちだよ!」 いるかは大げさに手を振ってみる。 「今行く!」 ひらりとガードレールを乗り越え、いるかは曲がりくねった小道へと消える。 「待てよっ!」 春海はあわてているかのあとを追う。 彼らの後ろでは、相変わらず穏やかな春の海が静かに身を横たえている。 これから始まる二人の時間を見守るように、ゆったりと。 (終わり) はるのうみ あとがきいるかちゃんの第三部は合格発表で始まります。 やった!と喜ぶ二人の後ろで 波打ち際を並んで歩く絵が描いてありました。 私はこの絵がとても好きで、 何かこの絵にまつわるお話が作れないかと思い、 「はるのうみ」が出来上がりました。 いるかは六段中学を、 春海は倉鹿修学院を卒業し、 来るべき里見学習院入学まで ほっと一息つくこの時期。 春海は住み慣れた倉鹿をあとにし、 東京での新生活を始める準備をしています。 受験勉強から開放されて 身も心ものびのびとしていたことでしょう。 「はるのうみ」はいるかが春海を誘って いつか見た七里ヶ浜へ行くお話しです。 私も江ノ電に乗ると、 いきなり現れる水平線に いつも驚きと、感動を覚えずにはおられません。 時にはきらきらと目を射るように、 またあるときは冷たくにごった色をして、 そして春、なめらかな波は光と戯れるように。 夏の海は友達とはしゃぎたいけれど、 春の海は誰か特別な人と来たいー 私はそんなふうに思ってしまいます。 私にはまだそこまで特別と思える人がいなくて、 いるかちゃんと春海に先を越させてしまいました(笑)。 いるかちゃんたちはまだ気づいていませんが、 高校生なると二人の生活は少しずつ別々になっていきます。 部活でも、クラスでも、二人が一緒になれる時間は 思いのほか少なかったようですが、 三月のこの時期だけは、 これからすごす時間のことを思って期待に胸を膨らませ、 楽しいことばかりを考えていたのかもしれません。 けれどいるかちゃんはともかく、 春海はお互い別々の時間をすごすことが多くなることを 予感していたような気がします。 少しさびしそうな表情もするのはそのためです。 もちろん倉鹿と東京にわかれていたころに比べれば なんでもないのかもしれませんが、 だんだん年を重ねていく二人の、少しずつ変化していく何かを、 文字に何とか表せないかと思いました。 寂しさを乗り越えたあとの喜び、それは言葉で言い表すことはできません。 わかれている時間を乗り越えることは、 恋人たちにとって特別の意味があることだと思います。 よりいっそうの絆、よりいっそうの信頼。 ただじゃれあっている付き合い方とはまた違って、 人間的にも成長していくのだと思います。 少女漫画ならずとも、人が成長していくことは 文学などの普遍的なテーマですが、 「いるかちゃんヨロシク」もまた、 私にとって大事な、 主人公たちと一緒に成長した作品のひとつといえると思います。 鎌倉のおいしいピロシキは「露西亜亭」という 小町通の小さなお店で売っています。 鎌倉によると必ず買って帰る、とってもおいしい私の定番のお土産です。 このお話を書くにあたっては いろんな曲をBGM にしました。 普段それほど聴かない邦楽が結構似合ったみたいです。 やはりちょっと昔の曲が似合うのですね。 ほんの一部ですが、 ご紹介させていただきます。 松任谷由実 「緑の町に舞い降りて」 私がはじめて聞いたユーミンの曲です。 そしていまでも一番か二番目に好きな曲です。 何か新しいことが始まるような、 そんな予感を感じつつタラップを踏むー 暖かな向かい風を感じるような 期待に胸をときめかせているような、 そんな曲です。 聞くようになったのは小学校五六年のころで、 いるかちゃんの連載時期とも重なりますね。 でもこの曲自体はもっともっと古いものです。 松任谷由実 「autumn park」 季節はちょっと違うのですが・・・(笑) しっとりと落ち着いたきれいな曲です。 これから二人で生きていく、ことを 静かに心に誓う・・・そんな歌詞です。 今日の日を、ずっと忘れない、 このときを一生大事にしようって思える瞬間って 誰にもありますよね・・・ 岡村孝子 「風は海から」 やっと海らしい曲です(笑)。 歌詞のセンスはユーミンにかなわないのですが ほわーんとした歌声は悪くないです。 彼女は「あみん」の片割れなんですが 「待つわ」ってはやりましたねぇ・・・ 私がこのCDを買ったのは 高校生になってからですが アルバム自体は古いので やっぱり「いるか世代」(笑)です。 (終わり) |