お題 2.明暗


東京小夜曲

Tokyo Serenade



「―――うん。・・・・わかってる。そっちはどう?
・・・・・・え?そんなに早く?・・・でもまだ決まったわけ じゃないんでしょ?
いつ頃わかるの・・・そっか。わかった・・・
うん、こっちは大丈夫。みんな楽しくやってるよ。いろいろあり がとね。
・・・かもめ?・・・うん、元気そう・・だったよ。・・・じゃ あまたね。」

受話器を置く。

「ご両親?」

急に後ろから声をかけられているかはびっくりした。

「春海、どうしたの?」
「いや、なんか本でも読もうかと思って。そしたらおまえの声がしたから。」
「うん・・ちょっとね。時差があるからこのくらいの時間帯のほ うがいいんだ。
・・・まだ寝ないの?」
「あぁ・・・12時前に寝ることはあんまりないし。
みんな寝てるとこで灯りをつけるのはなんだしな。」

「クシュンッ」
「・・・窓をあけたままそんなカッコじゃ風邪ひくぞ。」

いるかはストライプのパジャマを着たきりだった。
春海は微笑んで居間に入ってくる。
肩に羽織っていたセーターを彼女に掛けた。
「ありがと・・・」

時計の針は11時をすこし過ぎている。
明日の稽古に備えて皆はすでに寝入っていた。
東京、六段の如月邸は静まり返っている。
四月末の、初夏というには少し早い夜風がカーテンを揺らし部屋 に入ってくる。
連休の浮き立つような賑わいもここ東京の中心部には届かない。

「・・・何かのど渇いたな。春海も飲む?」
「あぁ・・・」


ソファに腰をかけて読みかけの本をめくる。
ホットミルクが二つ。
マグカップから湯気を立てていた。
いるかはどこに座ったものかと思案顔だ。
その手を握って、自分のすぐ隣に座らせた。
当然のように肩へ手を回す。
物馴れた春海のしぐさに少し戸惑いつつも
いるかはおそるおそる頭を春海の肩へもたれさせた。

こわばっていた身体から徐々に力が抜けていくのがわかる。
―――かわいいな・・・
所在なげにカップをもてあそぶ彼女の手。
やわらかな髪の毛からは同じシャンプーの香りがする。

「・・・何読んでんの?」
「・・・漱石の『明暗』」
「ふーん・・・確かそれって、途中までなんだよね?」
「ああ。絶筆だ。」
「・・・途中までしか書いてないのに、読むの?」
「ん――・・・そうだな。その後をいろいろ想像するのもいいんじゃないか?」
「そーかなぁ。つづき、気になんない?」
「それは、さ。読んでみないとわからないだろ。」
「・・・だね。」

それとなくいるかも活字を追う。

「・・・春海、読むの早いね。」
「あ?あぁそうか。ごめん。」

いつものように文字を目で追いはするものの
内容は頭に入ってこない。
こんな状況で読めるわけないか・・・
思わず苦笑して、本を閉じた。

「・・・やめちゃうの?」
「なんだ、おまえ読んでたのか?」
「うん。途中からだからイマイチ話についていけてないけど。
なんか面白そうだね。」
「読み終わったら貸してやるよ。」
「うん。ありがと。」


「・・・さっきはゴメン。」
「え?」
「その・・・殴ったりして。・・・痛かった?」
「・・・痛かった。」
「やっぱり?大丈夫?」
「・・・大丈夫じゃない。」
「まだどっか痛いの?頭とか?平気?」

心配そうに春海の頭に手を当てる。
おろおろした彼女の仕草にほんの少し罪悪感を覚えた。
ほんの、少しだけ。
こんなふうに自分から近付いてきてくれるのをずっと待っていたのだから。
思いのほか細い手首を捉えて両腕で抱きよせた。

「・・・やっと捕まえた。」

今度は、逃げなかった。




・・・気持ちいいな。
なんだか眠くなっちゃった・・・

春海の胸の中で小さな欠伸をかみ殺す。

緊張感のない彼女のしぐさがあどけなくて、少し切ない。


「眠いなら、そろそろ寝ろよ。あしたも早いぞ。」
「ん・・・そだね。」
「部屋まで送ろうか?」
「へーきだよ。自分ちだよ?」
―――いや、そういう問題じゃなくて。

恋をすると女は変わるというけれど―――
山猫みたいに自分を寄せ付けなかった彼女が一年でこんなに変わ るなんて。
想像もしていなかった。

こうやって少しずつ慣れていってくれればいいなと思う。
自分との間合いを計りきれなくて戸惑っているのだろう。
自分から近づいてくる分には平気なくせに、春海が近寄っていこ うとすると驚き、慌てふためき、うろたえる。
照れ隠しについ手が出てしまうのだろう。
そんなところもかわいいけれど、そろそろ慣れてもらいたい
―――自分 との距離に。









春海はいるかの閉め忘れた窓を閉め、ふと空を見上げた。
月も、星もない夜。
いるかはこんな空の下で13年育ったのか―――
倉鹿の漆黒の夜空とは色もかおりも違うようだった。

彼女の過ごした家。
自分の知らない彼女の時間を知っている家。
忙しく不在がちの両親、兄弟もなく、
大きな家にお手伝いさんと二人のときもあっただろう。
窓の桟に腰をかけて外を眺めては、
誰もいない家の重苦しさを紛らわそうとしたことがあったのかもしれない。

彼女も少し寂しい子供時代を送ったのかもしれな い。
―――自分と同じように。
裕福といえる家庭。
恵まれているといえる環境。
その一方で
ほとんど家にいない父。
少し寂しげな母。
自分ではその心にあいた穴を埋めてやることはできないのだと
子供心に気付いていた。
その母がなくなって三年―――
父は相変わらず家に帰ってこない。
こうして東京に出てきても父に会いにいこうとは思わない。

春海ははきだしのフランス窓をあけて庭に出る。

いるかの部屋の窓の明かりが小さく灯っている。
まだ起きているのか―――

おまえは今何を考えている?
誰のことを思っている?
遠く離れた両親のことか
変わってしまったという従姉妹のことか
目前に迫った全国大会のことか
それとも―――自分のことだろうか。

そうなら、嬉しい。








さっきの電話・・・もしかしたらこの夏に帰国するかもしれな いって言ってた。
まだ決定じゃないからなんともいえないって。
でも、もしそうなったら、あたしはまたこの家に帰って来なきゃ ならない。
春海とも、倉鹿のみんなとも別れなきゃならない。
いつかは、って思ってたけどこんなに早いなんて・・・
ううん、まだ決まってないんだもん。
ホントはもっと長い予定だったんだし。
だからきっと大丈夫―――


でも―――この夏でお別れしなきゃならないなら、どうすればいい の?
春海は、どうするの?
二度と逢えなくなるの・・・?
微かな不安がいるかの胸を過る。

―――考えても始まらないか。

ふと窓を開けてみる。
桟にひじを突いて、ぼんやりと空を、庭を、眺める。


―――春海?

自分を見つめる春海と視線が合った。
クスリと笑いが漏れる。

星も月をも(かす)ませる都会の放つひかりが空に蒔かれている。

雲間から遠慮がちに姿をのぞかせる細い月。

その明かりなのか街灯の灯かりなのかわからないけれど
おぼろげながら彼女の表情がわかる。

窓の下に立つ自分、窓から笑顔を返す彼女―――

小夜曲を口ずさみ夜陰にまぎれて逢瀬を重ねた
まるで舞台の恋人たちのようだと思った。

ヴェローナの恋人たちもニューヨークの恋人たちも悲恋だったけれど
この東京のマリアには笑顔しか似合わない。
もう、泣かせたりしない。

なのに―――

彼女の微笑にもかすかな陰りが見えるような気がする。

ひとしきりため息をついていた従姉妹の事が原因だろうか。
それともそれとは別の何かが―――?
いや、たぶん気のせいだろう・・・


『明暗』はこんなふうに筆を擱かれている。

〔・・・はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の(へや)に帰った。〕



春海がその一文に自分を重ね見るのはもうしばらく後のことであった。



(終り)


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