sweet revenge 2
巧巳の目はまっすぐあたしを見ている。
目と目が合う。
巧巳の体がなんだか大きくなって、
彼の周囲の空気の色が変っていくように見える。
巧巳しか、目に入らない。
ほかのものは、何も見えない。
グラウンドも、観衆も、キャッチャーさえ、目には入らない。
大きく振りかぶって―――投げる。
思わず、きゅっと目をつぶる。
カァァァンッッ!!
やられた―――
そう思った。
だが打球は高く高く打ち上げられ、一塁近くにいた春海がそれをキャッチした。
ワァァァァッ
どこからともなく、歓声が舞い上がる。
野球部のベンチからも、サッカー部からも。それにいつの間にか集まった他のギャラリーたちからも。
「・・・相手は東条だぜ?」
「だって・・・東条君って、四番じゃないの。その彼から・・・」
「如月さんって・・・何者なの?」
「サッカー部のFWやってるらしいけど・・・」
「知ってるわよ、山本君の彼女でしょ。」
「で、生徒会の副会長よね?」
「あの球・・・すっげー速くなかった?」
「バットが折れてたよな。」
「まさか・・・だって女子だぜ?」
「聞いたことある・・・如月さんって確か中学の一時期倉鹿修学院にいて・・・運動部を総なめにしたって。」
「あそこってスポーツすごいとこじゃん。全国大会に行く部がほとんどだって。」
「学院長のたった一人の孫だって話よ。」
「お父さんが外務省の高官だって聞いたことあるよ。」
「えーそうなの?おじょーさまじゃん!」
「なんか、すごいかっこよくない?」
「うんうん。すごいよね!東条君を指差したときなんか、あたしどきっとしちゃった。」
みんなの声はいるかには届かない。
いるかは力尽きたように、その場に座り込んだ。
春海が駆け寄ってくる。
何もいわないで、いるかの右手を裏返す。
「やっぱり―――」
「・・・え?」
「無茶するからだ。」
右の人差し指と中指は、真っ赤になってところどころ血がにじんでいた。
「・・・っつ・・・・」
今になって痛みがじんじんと襲ってくる。
でも、痛みよりも、なんだろう、この高揚感は。
周りのどよめきのせい?それだけじゃない。
巧巳はー
マネージャーから出血した手に水をかけてもらっていた。
やはり痛いのだろう、苦痛に顔がゆがんでいる。
目が合う。
どちらからともなしに二人とも、
「くっ・・・・くっくっ・・は・・ははははっ」
笑いをこらえきれなくなった。
空に向かって、あたしたちは、心の底から笑った―――
「・・う・・・・ん・・・」
気がつくと、いるかは医務室のベッドに寝ていた。
だいぶ日が翳って、グラウンドからの生徒の声もあまり聞こえない。
「・・・気がついた?」
白衣を着た先生がカーテンをかき分けて入ってくる。
「あたし・・・」
なぜ自分がここにいるのかよくわからない。
「よかったわね、もうちょっとで熱中症になるところよ」
「熱中症・・・?」
「炎天下で真剣勝負したんですって?
女の子なのに、そんなにむりしちゃだめじゃないの。」
「あたし・・・どうやって、ここまで・・・」
先生はにっこり笑って、
「お礼は自分でおっしゃいな。」
そういって、カーテンを全部開けた。
「・・春海!」
「もう、大丈夫か?」
「彼が運んできてくれたのよ。そりゃあ、あわてて血相を変えて・・・・もう大丈夫っていってもなかなか離れられないみたいだったわよ。」
「先生!」
最後のほうは春海の声と重なっていた。
春海はあわててあたしから目をそらす。
先生はおもむろに時計を見て、
「私、用事があってそろそろかえらなきゃいけないの。もう遅いし・・・
山本君、ここの鍵、かけて職員室まで持っていってくれるかしら?
「・・・はい。」
「如月さんは、もう少し横になっていたほうがいいわ・・・少しふらふらするでしょう?」
「・・・ええ・・・すこし・・・」
「じきよくなるわ・・・。でも今日明日は無理しちゃだめよ。じゃ、お大事にね。」
そういってあたしに軽くウィンクして、白衣をひらりと翻し保健室をあとにした。
閉じたドアをしばらく呆然と見つめていた春海は
「ふー・・・」
と大きなため息をついた。
「本当に、もう大丈夫なのか?」
そういってあたしの枕元に腰をかけた。
「んー・・・なんかまだぼーっとしてるけど・・・すこしはっきりしてきたみたい。」
「手は?」
「手?」
毛布の下にあった右手を取り出してみる。
「いたたっっ!」
「そんな急に動かしたら・・・」
春海はぱっとあたしの手首を捉えた。
春海の大きな手に強くつかまれて、普段は意識しない自分の手首をとても頼りない弱々しいものに感じる。
指は丁寧にガーゼが当てられ、包帯で巻かれていた。
これは春海がやってくれたのかもしれない。
春海はあたしの手首をつかんだまま、自分の胸元に持っていき、もう片方の手で包むようにした。
そしてそのままそっと持ち上げて、手の甲にながいキスをした。
春海のそんな初めてのしぐさに少し戸惑ってしまったけれど、少しぼーっとしていたせいか、いつもみたく照れくさくない。
「・・・春海?」
「・・・これで気が済んだだろ?」
「えっ・・・」
春海は・・・気づいていた?あたしの気持ちに・・・
驚いて、思わず起き上がろうとした。
「ばか、まだ寝てろ。」
急に上体を起こしたせいか頭がふらふらして、春海はあわてて左腕であたしの背中を支える。あたしは春海に抱きかかえられるような格好になった
「あ・・・ありが・・・」
最後まで言わないうちに、春海はあたしをさらに自分のほうへぐっと引き寄せて、ながいながいキスをした。
陽が落ちるのがどんどんはやくなっていく。
さっきまで夕日に染まっていたグラウンドには、もはや生徒は残っておらず、ところどころ常夜灯の明かりがつき始める。
春海は窓際に立って、外を眺めている。
薄暗くなってきた部屋に、窓の外の明かりが少し入ってくるだけだ。
だいぶしゃんとしてきたなと感じたあたしは
「・・・春海・・・」
そっと呼びかけた。
春海は窓からあたしに視線を移し、とても優しい表情で
「もう起きられるのか?」
と聞いた。
あたしはうなずいて、手を使わないようにして起き上がろうとした。
春海の腕が、それを支える。
そして、まるで当たり前のように、軽く、キスをする。
少し部屋が暗いせいなのか、それともまだ頭がすっきりしていないせいなのか、いつものように体をかたくなってしまうことはなかった。
なんだか、それがとても自然なことのような気がして、あたしはもう少し春海の腕の中にいたいと願った。
巧巳は練習が終わってもいるかや春海のことが少し気になって、
校門近くの人目に付かないところにたたずんでいた。
次から次へ、部活を終えた生徒たちが帰宅していく。
巧巳は、包帯が巻かれている両手のひらをじっと見つめた。
「・・・やってくれたよなぁ・・・」
思わず口に出る。
連日の練習で、少しまめができていたところに、いきなり豪速球を浴びたのである。
思ったほど血の量は多くなかったにせよ、傷は浅く、広い。
今でもじんじんとうずくような痛みが続いている。
「・・・・っとに女にしておくには惜しいやつだよな・・・」
あの球、五球ともまったく同じコースだった。
だから集中していればこそ何とか、バットに当てていくことができたのだ。
おそらく春海と同等か、もしかしたらそれ以上のー・・・
そこまで考えて巧巳は苦笑いをする。
あいつは、そんなこと望まないか・・・
あのフォーム、春海とまったく同じだった。
おそらくいるかは硬式野球のボールを投げた経験など、ほとんどないに違いない。
「・・・それだけ真剣に見つめてるってことだよなぁ・・・」
今年の夏、そして、巧巳の知らない倉鹿での日々。マウンドにたつ春海を、どれほどの思いでいるかが見つめていたか、少しわかったような気がした。
「ふぅ・・・」
ため息がこぼれる。
わかってはいた。最初から叶うはずのない想いだと。
でも、いるかの笑顔に、一生懸命な姿に、ひかれずにはいられなかった。
無邪気な笑顔が自分に向けられるたび、希望を持ちたくなる気持ちを押さえられなかった。
だから、あの日、浜辺でキスをした。
機会を狙っていたわけじゃない。
春海があそこにいたのだってまったく気がついていなかった。
「・・・やっぱり、気にしてたんだろうな・・・」
いるかの開け放しの性格はおもっていることがそのまま顔にでる。
が、あの一件以来、巧巳はいるかの表情に一枚、薄い紗のようなものがかかっているのを感じることがあった。
気のせいかもしれないが・・・
今日、勝負を挑んできたいるかの表情はいつもとはまるで違った。まるで何か覚悟があるようで・・・なぜなのかわからないままバットを握ってしまったが、あ
の球、あの気迫、一球目の球威にはっきりと感じた。
きっと、この勝負が終わったら、何かが変る、俺はそう思った。
これほど緊張してバッターボックスに入ったことはないかもしれない。
試合のときも、どこか緊張しきらない自分をつくらねばいけないと思っているから、バットを握る手が汗にぬれることはそれほどない。しかし、今日は・・・
バットがすべるかと思われたので何気なくユニフォームでぬぐったら、手が血だらけだったとは・・・
でも、こんどいるかに会ったら、こんどこそ上辺だけでない友達になれる気がする。
許すものは許し、心のしこりはあの笑いですっかり取れた気がする。もう、何も言わなくていい。終わったんだ・・・
陽も落ちて、校舎に明かりがともり始めた。新学期に向けて、先生たちもいろいろ準備があるのだろう。そろそろ帰ろうか・・とおもったとき、校門へ向か
ういるかと春海の姿が目に入った。
春海はいるかの分のかばんも肩にかけ、左腕でいるかの肩をそっと支えるように歩いていた。何かを話しているわけではないようだったが、あまり人に見せな
い二人の寄り添った姿に、巧巳は声をかけるのがためらわれた。
二人はそのまま校門から消え、巧巳は一人残される形になった。
「・・・ふ―――っ・・・」
ながいながいため息をつく。
やっぱり、胸は痛む。けれど傷をつけられたと同じ手で、癒されているようにも感じる。どこか、ほっとしたような・・・
陽の光は、もはやたそがれ時の青灰色をはるか西の空に残すのみとなった。
巧巳は一人、自由の利かない手でかばんを持ち上げて、今しがた二人が出て行った校門へ足を向けた。
(終わり)