破れた恋の繕い方






「……よぉ。」

インターホンの向こうの声は、高校時代の友人だった。

久しぶりだな、と部屋の中へ招じ入れる。

春海は自分と巧巳の分のコーヒーをカップに注ぎながら
たいした感慨もなくさらりと口にした。

「で、また別れたってわけか。」


「……何でわかんだよ。」
図星を指されて、不機嫌を隠そうとしない低い声。

「お前は女と別れるたびおれんとこにくるじゃないか。」
「……悪かったな、友達がいなくて。」

こんなときの巧巳は
子供っぽくふてくされて、吹き出しそうになるほど素直だ。

開襟のシャツには白いビーチと椰子の木と水着姿の女たちがプリントされている。
細いフレームのオレンジのサングラスに誰にもらったのかシルバーのネックレス。
火遊びの余波を引きずったような派手な格好だ。
暑いとはいえもう九月なのに。

巧巳は日に焼けてすこしぱさついたらしい髪を無造作にかきあげる。
しばらく会わなかった巧巳は心なしか体型もすこし変わって
筋肉が増えたように思う。
投げやりな雰囲気も自堕落な格好も自分とは相容れないものだが
不思議と、いやではない。

「今回はけっこう長かったんじゃないか?えーっと、二ヶ月か。」
「よく覚えてるな。」
「まあな。……冷めないうちに飲めよ。」

二人の間にはコーヒーの香りが立ち上っている。
こんなときにも酒を勧めないのが春海だ。
自棄酒でもあおりたい気分なのに。

プロが昼間から酒飲んでどうする、
野球選手は子供たちの憧れなんだぞ、
だいたいおまえまだ未成年だろう、と
いちいち反論できない口実を突きつけられてたしなめられたのは数ヶ月前だ。

どうしていつもこいつのところに来てしまうんだろう。
こっちの気分などお構いなしの
落ち着いた表情が憎らしい。
なのに、まつげを落として優雅ともいえるしぐさでカップをもつ姿に
見惚れてしまいそうだ―――
とは間違っても言えないが。





こっちから誘いをかけなくても、ちょっとした目線ひとつで女は彼のところにやってくる。
目が合って、お互いを値踏みするような視線を交わして、
微かに口の端をあげて微笑む。
それだけで、よかった。
春海によれば二ヶ月付き合っていたという女とも
そうやって知り合って、付き合いだしたのだ。

これまで付き合ってきた女たちは
体つきはどちらかというと華奢で
華やかなはっきりした顔立ちで、
自分が美しいことを知ってそれをどうやって見せるかも心得ているような
そんな女たちだった。
目線を合わせてもおどおどしないような女たちだった。

物色する視線がたまに物馴れないような女の上に落ちることがある。
彼と目の合った女は、すこし驚いた顔をして、そして目を伏せる。
そして巧巳は思う。
ああ、これは面倒だな、やめておこう、と。

相手を思いやり、緊張をほぐし、やさしさを見せてやることなど
巧巳には鬱陶しいことにしか思えなかった。
だから、そういう手順を省けそうな女と付き合うことになってしまう。


けれど―――正直に言うと、飽きるのだ、すぐに。
気が強い女は傲慢で男が尽くすことを当然のように思っていたし
かといって自分というものをまるで持たない女はすぐ物足りなくなった。

ほっそりしたからだは服を脱がせればあきれるほど貧弱なことが多いし
メリハリの利いた女らしい身体も二三回抱けば大体飽きる。
わざとらしい媚びや嬌声が耳につき
そっけない態度をとるとすぐに詰られる。
ふざけるな、何様だ、と思う。
そしてそこから後はたいていいつもと同じパターンの繰り返しだった。

情が薄いのか、と自分でも思う。
だが、本当はわかっているのだ。
いつだって、女たちの中にたった一人の面影を探していることを。





「……邪魔したな。」
「え?もう帰るのか?」

巧巳はコーヒーを飲み干してご馳走さま、と律儀に言った。

「いるかが来てるんだろ。」

春海の頬にさっと朱がさした。

「なんで……」
玄関先にあった彼女の靴はとっさに下足箱に入れたはずだった。
別に隠すことではないが―――

「おまえにしちゃ甘いな。
そのカップ、少しだけ口紅がついてるぜ。」



カップの外側はきれいになっていたが
内側にほんの少しだけ、淡い色の紅が残っていた。









春海の家をあとにして、
巧巳は家を訪ねる前よりも更に不機嫌だった。

女の身勝手さにも腹が立っていたが
一番情けなかったのは自分自身だった。



淡い、子供子供した彼女に似合いそうな色だった。
春海が手にしたカップの、口をつけるそばで見つけたときの胸の痛み。

滑らかに白い陶器のカップ
春海の取り澄ました形のととのった薄い唇
微かな紅の色。

ほんの少しだけついた口紅に感じたのは
だらしなさでも不潔だとの印象でもなく
くらくらしそうな羨望だった。

それは
大人になりたての少女が
知らず知らずのうちに振り撒いてしまった
女らしさの名残りのようだった。





なんで昔好きだった女を
こんな形で引きずらなきゃならないのか

しかもよりにもよってその女の恋人のところに毎回毎回失恋報告をしに行っているのか。

考えれば考えるほど自分が滑稽だった。



でも―――。

さっきの春海の表情。
めずらしくうろたえて、さっと頬さえ染めて。
秀才、切れ者と誉めそやされるヤツが二の句が告げないようすをみるのは
ちょっと小気味よかった。




玄関に上がったときから気づいていた。

いつもと違う、気配。

一人のときはたいてい音楽を流している春海が
静けさを守るように、何もかかっていなかった居間。
いつもより、ほんのすこし控えめな声のトーン。
落ち着いた表情はいつもとまったく変わらないようにも思えたが
どこかそわそわした雰囲気をまとっている。

高校時代、クラスで生徒会で野球部で
長い時間をともにすごした相手だ。

よくわかっている。

だいたいにおいて春海は外界に対して無関心だ。
人の心の動きや気配には敏感だが、興味があってそうするというよりは
身についた習慣というのだろうか。
その春海の心を占め関心をほしいままにする対象を、巧巳は一つしか知らない。

半分ははったりだったが―――見事、当たったというわけだ。




終わろうとする夏。
夕陽は先週までのぎらぎらしたものではなくなり
なめらかな波に穏やかに溶けこんでいる。
自分ひとりが取り残されたような、やりきれなさをどこにぶつけたらいいのかわからなくて
一人、だれもいない波打ち際を歩く。

ぎゅっぎゅっという砂を踏みしめる音にまじり
ざっざっという規則正しい音が微かに耳の後ろから聞こえてくる。
ふと振り返ると
遠くで高校生らしい人影が走っているのが見えた。

巧巳は歩みを止め、無意識に自分の唇に触れていた。



三年前
どうしても欲しくなって
不意に、掠め取ったキス。


―――あれから、数え切れないほどキスをした。
両手に余るほどの女と付き合ってきた。

けれど
口紅の香りのしなかったキスは

あれだけだったのだ―――。








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