早春賦 「卒業」 感想文 |
春は名のみの風の寒さや。
谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず。 時にあらずと 声も立てず。 氷解(と)け去り葦(あし)は角(つの)ぐむ。 さては時ぞと 思うあやにく 今日もきのうも 雪の空。 今日もきのうも 雪の空。 春と聞かねば知らでありしを。 聞けば急かるる 胸の思(おもい)を いかにせよとの この頃か。 いかにせよとの この頃か。 「早春賦」 吉丸一昌作詞・中田章作曲 (これはkurageさんのanother
tale掲示板にリンクさせた感想文に少し手を加えたものです)
「卒業」読ませていただきました。 原作後のいるかちゃんと春海の物語をつづっていくうえで、なくてはならないお話だなと思います。 喜びや楽しいこと、そして時には苦しいことを分けあってきたであろう二人の、最後の砦だったのがこの「悲しみ」だったのではないかという気がします。も ちろん離れ離れのときの悲しさはともかくですが、春海だけが持っていた悲しさをいるかちゃんが共有し分け持つようになったこと、これが二人の関係を進める のに必要不可欠だった気がするのです。いろんないきさつから(図らずも?)婚約してしまったらしい二人ですが、二人自身の問題として相手の心にどこまで踏 み込んでいけるか、高校時代を通して私はそれほど二人の関係にかわりはなかったのではないかと思います。もちろんいろんな事件もあって少しずつ二人ともか わっていく中で、関係においてもかわっていくものはあったと思うのですが、どこか友達同士のようにも見えてしまう二人のこと、どちらかというとゆっくりと 成長しつつの変化であったような気がするのです。 春海にとって少年時代のひとつやりのこしたこと、心の奥底にしまって誰にも、自分自身にも長いこと気づかせなかったこと、それがお母さんのことではない でしょうか。 整理しきれないまま一足飛びに大人になって徹を護ってやった春海。そんな彼の姿は原作になくても想像に難くありません。そしてお母さんのことは悲しんだり おおっぴらに泣いたりする余裕もなく、何年も過ごしてしまったのかもしれません。 高校卒業、そして18歳。いるかと(おそらく)違う学校へ行くこと。いろんな意味で人生の一区切りの時期であるこのときに、春海は母親のことを思い出し そろそろ整理をしないと、と思ったのでしょうか。新たなスタートを切るために、自分の中にあるものをきちんとしたい、誰しも思うことだと思います。けれど 母親の死というのはそうそう簡単に整理のつくことではもちろんありません。だからこそ少し神経質になったり倉鹿の友達にも会いたくないと思ったり。自分が どんな風になるのかよくわからないまま友人たちに会うのは不安でしょう。そんなときには一緒にいられるのは彼女しかいません。いるかにもそのことは漠然と わかっていたようですね。いるか自身にも春海の母には心温まる思い出があり、よりいっそう近しい形で彼の悲しみを分け持てたかもしれません。 いろんな愛の形がある中で、喜びを分け持つことは比較的たやすく、楽しさを共有することはもっと簡単で、愛の強さみたいなものは如何に負の感情を分け持 てるか、なのかも知れません。一人で負うにはつらいことも二人ならきっと乗り越えられる。葵がいっていたように、相手の悲しみや苦しみを本当に共有するに は自分もそれに負けないだけ強くなくちゃいけない。いるかも成長してそれだけ強くなれたのでしょう。優しさが強さになって、いるかちゃんもどんどん大人に なっていくのですね。自分に厳しくできる分だけ、人に優しくなれるのだと思います。そうでなければただ人当たりがいいだけの薄っぺらな優しさになってしま う。いるかちゃんはそういう意味で倉鹿編のころからほんとに優しい子でした。口は確かに悪かったけれどソフト部のために一人川原で練習したり、怪我しても ずっと投げることをやめなかったり。そういうところが葵さんの言うところの「気持ちのやさしさ」なのだと思います。 春海が思い出に向き合う心の準備ができること、そしているかちゃんが本当に彼に寄り添えるほど強くなっていること、彼らのこれから送る人生のなかで必要 不可欠なエピソードであると思います。 春海の母といるかの母と、二人の母親に見守られての門出というのもすばらしいです。人は亡くなっても、生きている人の心の中にはずっと生き続けるもので す。春海にとって亡くなってからの母は思い出すにはつらすぎて、忘れてしまうには大きすぎて、そういった存在だったのではないでしょうか。そして今回の二 度目のお墓参りでようやく自分の中に母の居場所を見つけられたのではないかと思います。 歌のうまかったという春海の母。私は加藤登紀子の歌う「早春賦〜ODE AU PRINTEMPS〜」を思い出しました。春は名のみの 風の寒さよ・・・あの歌をフランス語で、一部は日本語で歌っているものです。編曲は服部克久で、 彼らしくドラマチックにゆったりとした旋律になっています。倉鹿という街の持つ日本の原風景的雰囲気、そして春海の母のイメージ、そしてこの季節感、そし てまさに大人としての人生のスタートを切ったばかりの彼らの姿。すべてが優しく溶け込んでいくようです。まるで春海の母が彼らに向けて歌っているような、 そんな気さえするのです。発表された1992年は私が大学に入った年でもあり、彼らの姿と自分の姿が少し重なるような気がします。もっとも私のほうはずっ と子供でしたが(笑)。 この歌とともに彼らに祝福を。 ミモザの花はいるかちゃんのイメージにぴったりですね。私が彼女から連想する花はほかにガーベラ、ひまわり、など。背景に使われていた植物がそのままイ メージになっているような気がします。 ミモザの木ってけっこう大きくなりま すから圧巻ですよね。洋風なイメージの強い木ですが今回は純日本的な旅館。・・・素敵かも♪あのふわふわしたかわいらしい感じはまさにいるかちゃんのイ メージ。ミモザの君、って呼びたくなってしまったわ(笑)。カクテルにも「ミモザ」というのがあるのだけど、これはオレンジジュースをシャンペンで割った もの。女の子らしいかわいいカクテルですがシャンペンを使うのでお店で頼むと少々高め(笑)。ぜひご自宅でお試しあれ。オレンジジュースを先に注いでそっ とシャンペン を注ぐだけ。割合はお好みで。もちろんフレッシュのオレンジがあればなおおいしい。オレンジジュースでもできれば濃縮果汁還元じゃないほうがおいしい。混 ぜなくてもいいくらいだけど、混ぜるならそっとね。気泡が壊れてしまいます。 本物のフランスのシャンペンじゃなくイタリアのアスティASTIスプマンテでもおいしくできます。こちらのほうが甘くてカクテル向きかもしれない。しかも 安い(笑)。 春海の着ていたという明石縮は実物を見たことがないのだけど、ネットで検索してみました。わりと気軽に着れる感じなのですね。私は着物を見たり着たりす るのはとてもすきです。あまり着る機会がな くて着付けはそんなに上手ではないのだけど。折にふれて着るようにはしています。いるかちゃんの体型は凹凸が少なそうで着物むきかしら(笑)?いや、 17、8くらいに なればさすがに・・と思いたい。春海のためにも(笑)。 「手が早い」ことになってしまっている春海なのですが、実は私はそうでもないかもな、なんて思ってたりもします。キスとそれ以後は現実問題としてやっぱ り一緒に考えられませんもの。かといって何年もキスだけというのは不自然なので(笑)それなりに進んだりはするのですが。 18歳というのはある意味目安かなと思っていました。男性が結婚できるようになる年齢ですし高校を卒業してからのほうが自然かなと思っていたのです。受 験勉強中はなるべく集中したかったでしょうし、高校二年くらいの段階ではまだいるかちゃんもそれほど大人になっていなかったかもしれない。 大体東京のどちらかの 家で、という状況はちょっと抵抗がありましたね。とくに如月家では。宣伝することじゃないけど(笑)いるかちゃんは親には隠さないような気がしました。彼 らには人目を盗むような真似は絶対に似合わな もの。春海は春海で、けじめのちゃんとした人だと思うから、いるかの両親の信頼を損なうようなことはやはりできないと思うし。かといって結婚までまつ訳に はいかないでしょう・・やはり(笑)。このあたりの微妙な折り合いがとっても上手くついているなぁと思いました。伏線が丁寧に描かれているのもとても嬉し かった。状況に流されて・・・というのもいやだったのです。だってとっても大事なことだもの。もちろん「びー・まい・べいびー」みたいな路線のお話のなか でな ら大いにありだけど♪(せまる春海、殴るいるかちゃん、この掛け合いがたまらなかった(笑)) なのでどこか春海かいるかにゆかりの旅館みたいなところ、もしくは倉鹿の山本邸が適当かなぁと漠然と考えていました。 「いるかちゃんヨロシク」のファンでいてよかったなと思える作品を書いてくださって、kurage さん本当にありがとうございました。 「卒業」に背中を押される形でといったら失礼なのかもしれないけれど、高校卒業後の彼らの姿がだんだん形になってきました。もちろんこれは私ひとりのもの にしておけばいいのかもしれませんが、どなたかと共有できたら、という思いも確かにあるのです。 なので 「春海のつぶやき」のなかに「春海のためいき」という新しいページを作ることにしました。 高校卒業後、そして「卒業」後の彼らの姿を描いたものです。 もちろん「つぶやき」以上に主観的な人物像になっているでしょうし、当時のりぼんだったらまず載せられない内容になるかもしれません。(せいぜいコバルト 文庫とか・・・(笑)) 大人になった彼らにあいたい――― 原作者でもない一ファンの私にできることはたかが知れていますが、人物像もなるべく壊さずに彼らがどのように成長したか、考えてみました。 とはいうものの、こうあって欲しい、という思いのほうが勝ってしまって他の方と意見を異にすることも大いに考えられます。 それを恐れてせいぜい高校生でやめておけば・・・とも思いました。 けれど、やはり書きたくなってしまったのです。 そしていくつか書き終えてみて、やはり皆さんの感想が聞きたくなってしまったのです。 より心理的なもの、より人間的なものに目を向けて描いてみました。浦川先生のように痛快なスポーツシーンは描けないかもしれませんが、よりリアルな人間と しての彼らを描いてみたくなったのです。 とはいうものの 大人になった彼らといえばすなわち表現にもいろいろ問題が出てきて。 ひゃ―とかひょ―ですめば良いんですが(笑)不快に思う方もいらっしゃるでしょう。 なので入口にパスワードをもうけたり断り書きをつけたり、私なりに工夫してみました。 表現をセーブすることもできますが、それでは書く意味がないんです。 もちろん私の美意識(笑)に沿って書くものですからたいしたことはないといえばそれまでなんですが。 なので、作品へのご批判は何でも受け付けますがこういった表現は嫌い、というのはご勘弁願います。 もうひとつ『春海のためいき』を公開するにあたって考えたこと。 それはいったんこういった表現方法になれてしまったら、中学・高校時代の彼らの微妙な関係を書くのが難しくなるかもしれないな、ということでした。 香水のようなもので、強いものになれてしまうと微細な香りに気付けなくなるような気がしたのです。 けど、私自身に関してはそれは杞憂でした。 これを読んでくださっている方は大体二十代後半から三十代くらいの方なので、いいかげん子供じゃありませんものね。大人の香りも少女のドキドキもどちらも ちゃんと味わってくださるものと信じています。 なのでこれからは「つぶやき」「ためいき」両方更新していくことになると思います。 決して「つぶやき」から「ためいき」に移行するというわけじゃありません。 いるかと春海、そしてそれぞれの親たち。 原作ではあまり描かれなかった家族も重要なテーマだと思っています。 彼らを取り巻く世界はもはや学校だけではなく、社会そのものになっていきます。 彼らが乗り越えなければならないものは中学より高校のほうがずっと大きかったわけですが、大学以降ではそれはさらに大きくなっていくことでしょう。 『卒業』のときは春先だった季節が夏へ、そして秋へ。 文庫版の一巻に本田恵子さんが寄せていた解説を思い出します。 主人公は心底感情移入できるキャラクターでなければ薄っぺらなものになってしまう・・・ 水無瀬は水無瀬なりの「いるかちゃんと春海」を描いていければ良いなと思っています。 BGM 早春賦 〜ODE AU PRINTEMPS〜 加藤登紀子 服部克久編曲 1992 |