早春
「鹿鳴会ファン倶楽部」サイト開設一周年を記念して
Nekoさまに捧げます♪
2003.08.24.
里見学習院高等部の新年は、全校生徒参加の寒稽古で始まる。
遠方から通う生徒は始発電車に乗ってくるものも多い。
休みののんびりした雰囲気を一気に引き締め、身体も精神も鍛えることが目標とされる、開校以来の伝統行事である。
柔道や剣道、弓道といった武道をクラブに選んでいる生徒はもちろんおのおののクラブに参加する。武道に参加しない生徒は自動的にマラソンとなる。
普段違うクラブに所属していてもこのときだけ武道に参加する生徒も多い。
武道を大事にする歴史の古い里見学習院では、男子は中等部から体育の授業の他に柔道、剣道、弓道を選択できた。なので特に男子は寒稽古に武道を選択するも
のも多く、クラブ所属者以外にも有段者は多い。
女子は剣道部員や柔道部員以外はマラソンを選択するものがほとんどだったが、例外もまったくいないわけではない。
もちろん、生徒会副会長、一年一組、如月いるかもそのひとりである。
◆◆◆
「おはようございます、山本会長」
「・・おはよう」
まだ夜も明けきらぬ新学期の朝。
春とは名ばかりの、吐く息の凍りそうな寒さである。
「おそい・・・・」
あと一本だけまってそれでも来なかったら先に行くしかない。
「春海っ!遅れてゴメン!」
「・・・いるか?おまえ、反対の・・・」
「寝過ごしちゃったの!でも一駅だけだよ。それより、いそご!遅れちゃう!」
返事を待たずにいるかは走り出した。
かばんと竹刀と防具と。
相当の重量があるにもかかわらず何も持っていないかのように身軽に階段を降り、学校に向かって一目散に走る。
すぐ横には春海。
やはり自分の竹刀と防具をもち、生徒たちの間をかき分けるように走っていく。
風が乾いて冷たい。
吸い込む空気が喉に刺さるようだ。
「お・・おい、いるかっ、どこ行くんだっ、門はあっちだろ!」
「そんなとこから入ってたら間に合わないって!こっちのほうが近いよ!」
さも当然のように学校の敷地の塀を生徒たちと反対のほうへ走る。
「・・ここらでいっかなぁ・・・」
いるかは持っていた竹刀と防具、それにかばんを塀越しにポーンと投げ入れる。
誰かがいたら・・・なんてことは考えないらしい。
ドサッ!ドサッッ!!!
重さのせいか、落ちる音も派手だ。
まったく、あんな重い防具を投げるなんて、普通の女の子にできることじゃない。
・・・すべきことじゃないという意味もあるけれど。
と、道路をけって身長の倍はあろうかという塀の上へひらりと。
そして塀の向こうへ消えた。
鮮やかな跳躍に目を奪われる。
が、そんな場合ではない。
春海は自分もいるかと同じように荷物を投げ入れて、塀に飛び乗る。
さすがに彼にはいったん塀の上であたりの状況を確かめてから降りようという理性はあった。
「うわっ!そこの人っ!どいて――――!!!!」
「・・えっ?」
「ぎ・・・ぎゃぁあああああ」
ドシンッ!
派手に地面にぶつかると思ったら、意外にもいるかは誰かの胸の上に抱えられていた。
「あー・・・ごめんなさいっ・・・怪我してません?」
「いや・・平気・・君こそ大丈夫?」
体を起こしながら眼鏡をかけなおしている。
「あ・・・あれ?曽我部さん?」
「如月さん?」
濃紺の剣道着に身を包んだその人は生徒会役員の三年生、曽我部忠彦だった。
「・・あけましておめでとうございます」
「あ・・・おめでとう・・・」
体を起こした彼と至近距離で目が合って、思わずそんな挨拶をしてしまった。
「寒稽古って受験前の三年生は参加しなくてもいいんじゃなかったでしたっけ?」
「うん。そうだけどちょっと気分転換したくてね。初日だけでもと思って。
竹刀を振るのも久しぶりだし。」
「そうなんですかぁ。あたしも結構久しぶりなんです。ちゃんとやるのは中学以来かな。」
「そうだよね。・・・よかったら、どいてくれる?山本くんがさっきから後ろで困ってるみたいなんだけど。」
「あっ・・・ごめんなさいっ!あたし・・・」
いるかは慌てて彼から離れた。
「・・・急がないと、始まっちゃうよ。」
「ハイ!」
いるかは急いで荷物を集めて、女子更衣室へと走っていった。
「・・・山本くんも、急がないと。」
「あ・・・そうでした。」
春海も更衣室へと急ぐ。
普段冷静な生徒会長が困惑し慌てて走り去るさまを見て、残された曽我部はひとり微笑んだ。
なんだかんだいってまだ一年生なんだな・・・
道着の汚れを払って剣道場へと向かう。
三年過ごしたこの場所とも、じき別れねばならない。
高校生活最後の締めくくりに、悔いのない稽古をしようと思っていた。
◆◆◆
「ふーっ・・・」
いるかの前には女子剣道部員がほぼ全員倒れていた。
「手加減するんだったなァ。みんなのびちゃった・・・」
面をはずして一息つく。
「決してうちの女子部員は弱くないはずなんだけど。」
気がつくと、隣で曽我部さんが笑っていた。
もともと長身の彼は剣道着を着るといっそう大きく見える。
きちんと折り目のついた濃紺の袴。
手入れの行き届いた防具は彼の几帳面な性格をよく表していた。
眼鏡の奥で笑う目がとてもやさしそうで、いるかもつい笑顔になる。
「曽我部さん・・・さっきは本当に・・」
「いいって。僕なら大丈夫。・・・にしても、如月さん、今からでも剣道部に入らない?君ならインターハイだって優勝間違いなしなのに。」
「やだなぁ。そんなクラブ掛け持ちできるほど余裕はないですよ。それでなくたって最近は勉強も難しくなってきてるのに。」
「惜しいなぁ。・・・そうだ、よかったら後で僕とお手合わせ願えませんか?」
「試合ですか?」
「うん・・・いいかな?」
「はい!喜んで!」
曽我部は二年のときインターハイでベストエイトに入っていた。
決して力が強いほうではないが、状況を過たない冷静さ、そして技の丁寧なことは有名だった。三年になって受験のため早めに引退はしていたが、折に触れて後
輩を指導するなど部内での人望も厚かった。
一方いるかは相変わらず力とスピードの剣道をする。
たまに子供のころ通っていた西大寺道場に顔を出したりはするものの、本格的な稽古をするのは六段中学卒業以来だった。
鍔迫り合い―――離れて、再び向き合って―――気合を入れなおす間も無く打ち込んでくる―――身体を交わして小手を狙う―――が、タイミングが合わない
―――また離れて―――
曽我部は鍔迫り合いを徹底的に避けている。
力ではおそらくいるかに敵わない。
ならばとその身長を生かして、上段に構える。
しかしいるかの剣の速さは予想以上だ。
胴を無防備にあけるのは危険だ―――
呼吸を読まれている。
打つタイミングを読まれて、かわされる。
振り下ろす前にもう振り下ろされている。
スピードはあたしのほうがあるけど、決められない―――
勝負はなかなかつかない。
いるかのスピードにいち早く気がついた曽我部は、ならばと徹底的にタイミングをずらしてくる。打たれる前に打つ。出る前に出る。剣道のように零コンマの
ス
ピードが勝負を決めるスポーツではほんのわずかの気の緩みが勝敗を分ける。圧倒的なスピードを持ついるかでさえ、相手によっては気を緩めればすぐに一本と
られてしまう。
これほど手ごわい相手には修学院以来お目にかかっていない。
春海の完璧な竹刀さばきに勝るとも劣らぬ正確さ。そして精神力。
相手の苛立ちと焦りを誘う試合運び。
年下だからと女の子だからと手は抜いていない。
もちろんいるかが相手ではそんなことはしていられないだろうが、いったん試合という形をとり礼をして相手に向き合った以上、相手が誰であれ、全力を尽くし
て戦うのが礼儀―――彼のそんな姿勢が伺えた。
思えば修学院剣道部にいたときは、春海たち男子部員と稽古することはあっても試合することはなかった。去年の年明けに行われた武道オリンピックに春海は
足の
怪我で出場できなかったし、一馬以下鹿鳴会のメンバーはそれぞれ別種の強さを持ってはいたけれど、いるかの身軽さ、速さ、強さは圧倒的だった。
これほどに手ごわい相手は―――春海を除いては―――あったことがない。
それに曽我部さんの剣は、強いというより―――上手いのだ。
いつまでもこうして戦っていたいようなきもちになる、そんな気持ちのよい剣さばきなのだ。
もし負けたとしても、一本とられたとしても、きっと気持ちいいに違いない、そんな剣なのだ。
負けるのは大嫌いないるかが、本気でそう思った。
結局試合は引き分けで、双方とも一本も取れないまま時間切れとなった。
蹲踞して、礼をして、面を取る。
身体は温まって、暑いほどだ。
かすかに肌も汗ばんでいる。
夜はすでにすっかり明けて、朝の日差しが道場内に入ってくる。
長い影。
眩しいほどきらきらした朝陽。
年の明けたばかりの、穢れのない光。
ふと、面をはずした曽我部さんと目が合って、いるかは気持ちの高まりを隠さず満面の笑顔を彼に贈った。
そして彼も、大人びた表情のしたから満足げな笑みをいるかに返した。
多分、これが最後だろう。
高校を卒業したら、竹刀を振る機会はもうないかもしれない。
最後に、こんな試合ができて本当によかった・・・
ありがとう・・・
彼の視線はいるかを追う。
稽古を終え、着替えて授業へ向かう部員たちに混ざって、一人白い道着姿の彼女は目立っている。
彼にとって最後になったかもしれない試合。
いるかにはその意味の大きさは届いていないだろう。
一人春海はその意味を悟って、更衣室へ向かう曽我部にそっと声をかける。
「お疲れ様でした・・・」
「ああ・・・君も。」
目線を合わせる二人は、どちらからともなく手を差し出して握手を交わした。
◆◆◆
「・・・今朝の試合は、ちょっとすごかったな。」
部活を終えたいるかと春海はいっしょに駅へと向かう。
「・・・そう?」
「おまえがあそこまでてこずるなんてな。」
「うん・・・あそこまで曽我部さんが強いとは思ってなかったな。
・・・ううん・・・強いんじゃなくて・・・曽我部さんって・・・」
上手く言葉が見つからない。
「あの人は、本当に剣道が上手だな。形がとても整っていて、きれいだったよ。」
「そう!そうでしょ・・・もちろん強いんだけど、あたしね、あの人なら負けてもいいって思った。」
「え?おまえが?」
「・・・意外?」
「そりゃ、おまえはすごい負けず嫌いじゃないか。スポーツに関しては。」
「うん。そうなんだけどね。勝ち負けがどうでもいいような、そんな気がしたんだ。・・・そんなことより、もっと・・・遠くが見えた気がしたの。」
「遠く?」
「そう。ねぇ、勝ち負けって所詮相手あってのものじゃない?
強さだって、ピークを過ぎたら体力の衰えとともに弱っていくしかないでしょ?
でもね、上手くなることに関しては一生ず―っと終わりがないような気がする。
体力とかスピードの問題じゃなくって、もう、ココロの問題になるのかな。
・・・なんかうまく言えないんだけどさ。今日はずっとそんなことを考えてたんだ。」
「いるか、おまえ・・・」
「おじいちゃんも、いつかそんなことを言ってた気がする。
たしか・・・そう。おまえは強さに関しては誰にも負けないかもしれないが、剣の道はまだまだこれからなんだって。強さを脱ぎ捨てたときから本当の剣の道が
始まるんだって。
あたし、言われたそのときはよくわかんなかったな。稽古するのだって強くなるためだって思ってたし。でもね、少しわかった気がするの。」
負けることが嫌いなのは変わらない。
けれど今は強くなりたいと思うより、上手くなりたいと思う。
誰かを負かすことよりも、自分の剣を、自分自身を鍛えていきたいと思う。
「春海・・・あたし、昇段審査受けてみようかな・・・」
春海はゆっくりとうなずいて、いるかの頭を軽くなでた。
いつのまにか、大きくなろうとする彼女。
いつも彼女の先を歩いていると思っていたのに、
いつのまにか追いつかれ、今は少し追い越されたようにも思える。
もしかして、この瞬間いるかは自分よりも
もっと遠くが見えているのかもしれない。
「・・・明日は、おれとやらないか?」
いるかは一瞬不思議そうに春海の瞳をのぞきこむ。
試合という形で向き合うのは初めてのことだ。
ひょっとして意図的に避けていたのかもしれない。
どちらが強いか―――そんな興味本位の目を避けるように。
そして。
「うん!」
いるかはとても嬉しそうに、その大きな瞳を輝かせた。
いつか春は夏になり秋は冬になって、
季節が巡るたび自分たちは変わっていく。
今はまだ風も冷たい名のみの春。
けれど春海はいるかの中に
萌え出でようとする若い芽の息吹を確かに感じていた。
(終わり)