It's Too Late
―――いやなんだ、おまえが遠くに行くのが。
そういって後ろから抱きしめられた。
ごわごわした皮のジャンバーの手触りも
雨を含んだ髪のにおいも
何もかも、覚えている。
―――たった三週間よ、すぐ戻ってくるわ。
―――一人で行くのは初めてだもん、そりゃ楽しみよ。
―――ん〜なんとなくかな。行ってみたいなって。
―――パパたちも賛成してくれたし。
わかってはいたのだ。
「遠く」というのが
物理的な距離だけをさすのではないことは。
たくさんの言い訳を残して、あたしは夏休みイギリスへ発った。
箱根駅伝の翌日だった。
語学研修といおうかホームステイといおうか。
高校生になったお祝い、なにがいいと両親に聞かれたとき、
子供のころ住んでいたこともあるイギリスへ行ってみたいと
自分でも驚くほど即座に答えていた。
英語は好きだったしイギリスも嫌いではなかった。
将来は留学したいとおぼろげに考えはじめてもいた。
「将来は」なんて言葉が両親に向かってすっと口を突いて出てくるほど
あたしは前向きな人間になっていた。
―――数ヶ月前に比べて。
彼とは中学のころからの付き合いだった。
同じ塾に通っていて知り合ったのだった。
公立の学校に通う、背の高い男の子だった。
伸ばし気味の前髪をうっとおしそうに払うのが癖だった。
お嬢様学校に完全には馴染めなかった私と
何かを探すようにいつもいらいらしていた彼は
いつの間にか、一緒に塾を抜け出すようになっていた。
クラシック以外の音楽は彼に教わった。
そしていまは九月―――。
しとしとと雨が降り続く。
四時間目が終り、ご飯にしようとお弁当を広げ始める友達にちょっと用事がと断って
ここに来た。
新館三階の音楽室。
防音は効いているけれど
廊下の音がまったく聞こえないわけじゃない。
でも、ここにいると「学校」という区切られた空間からひとり抜け出せる気がして
少し窓を開けて、ひんやりとした空気を迎え入れる。
ぽろろん・・・
新しいスタンウェイのピアノはちゃんと調律されている。
柔らかな音が
雨を含んだ空気ににじんでいく。
何かを弾こうと思ったわけじゃないけれど
自然と指が旋律をかなで始める。
あの人が、もてあましていた時間をタバコでつぶしていたように
私は、ピアノを弾くことで、時間を埋めて間を持たせようとしているのだ。
誰かに見咎められても言い訳できるように。
「もしもし、坂本といいますが、―――さんいらっしゃいますか?」
「・・・」
「・・・あの?」
「―――は、亡くなりました。先月末に。バイクの、事故で・・・」
そのあとどうやって電話を切ったのか覚えていない。
―――なぜ。
行くなよといったのを笑ってごまかした私への罰のつもり?
私を苦しめるために、わざと命を絶ったの?
そう、無茶な運転をする人だった。
バイクの後ろに乗るのは初めてだったのに
体重のかけ方も何も知らなかったのに。
覚えている。
耳を劈(つんざ)くような音
渋滞の車の間を縫ってだれよりも早く、
何よりも自由に。
頬に痛かった真冬の風
冷え切ったからだを温めてくれたぎこちない優しさ。
キーボードばかり弾いていた指にピアノの鍵盤は少し重い。
指先より少しだけ伸ばした爪が白い鍵盤の上をすべり、思うような音が出せない。
モーツァルトのピアノソナタ11番。
ことさらゆっくり弾きはじめる。
スタンウェイらしいやさしげな音が秋雨の湿気に包まれて
夏服でむき出しの肌にまつわりつく。
だれのために弾いているんだろう。
何のために弾いているんだろう。
何度も繰り返す同じモチーフ。
まだ言葉にならない気持ちがぐるぐると渦を巻いている私と同じ。
「・・・晶?」
遠慮がちに扉を開けたのは予想したとおりの顔。
私が少々変わった行動をしても
中学時代からの友達はいつものこと、と納得するが
この子はちょっと違う。
人のことを放っておけないのだ。
そして彼女らしいやり方で人の心に寄り添おうとする。
小さく微笑んで見せる。
そして、私は弾きつづける。
彼女などいないかのように。
いつの間にか彼女はピアノのそばに来て、
グランドピアノのふたをそっと開ける。
ふわっと広がる音に胸がすく思いがする。
程よい湿度と広い空間が音を響かせる。
必要以上に。
泣けというように。
今日も彼女は窓のそばでひざを抱えて
ピアノに聞き入っている。
昼休みが終わるまで、私のそばにいる。
何も言わず。
しっとりと始まる旋律は
やがて軽快なものに変わっていく。
モーツァルトは、だから好き。
重たくなりすぎない旋律が心地いい。
「・・・坂本さん」
「・・・え?あ・・・山本くん?」
教室移動の合間、思いもかけない人物に声をかけられた。
彼のほうが私に声をかけたのは初めてかもしれない。
「これ、音楽室の鍵。当分放課後好きに使っていいよ。」
用件だけ伝えるとあっけにとられる私を残したまま
生徒会長は去っていった。
放課後、軽音部の練習にも出ず私は音楽室のピアノに向かう。
暗くなって手元が見えなくなるまで。
楽譜を見てまで弾こうとは思わない。
暗譜しているものをつなげていくだけ。
指が痛くなって、二の腕が突っ張るようになって
大きなため息をついて、ゆるゆると帰宅する準備をする。
「・・・終わったか?」
いつからそこにいたんだろう。
薄暗い廊下の明かりが逆光になっているが
声だけでその人とわかる。
「巧巳・・・」
「かえろうぜ。・・・送ってくよ。」
「ん・・・」
だれも、聞かない。
短かった私の初恋。
あっけなく幕を閉じた恋の真似事。
あたしのせい?
そう―――かもしれない。
違うかもしれない。
でも、答えてくれる人はもういない。
何べん謝っても、うん、と答えてくれる人はいない。
一生許されないまま、宙ぶらりんのまま生きていかなきゃいけない。
すき「だった」。
ずっと一緒にいた「かった」。
高校生になって、いろんなことがあって
以前より学校は居心地のいいものになって
前ほど気持ちがぴったり寄り添っていないなと思ってはいた。
子供のように不安がるあなたをうっとおしいと思ったこともあった。
ばかね、と軽くかわして
気まぐれにキスを与えて
彼の焦燥感を弄んだ。
望まれるままからだを与えて
なにが不満なの?と逃げ道を断った。
手に取るように気持ちがわかるのに
私の心は彼と同じところにとどまってはいなかった。
子供だったのは私だ。
残酷だったのは私だ。
いまさら後悔しても、遅い。
遅すぎる。
かわいそうな人。
かわいそうなあたし。
雨がまた降ってきた。
巧巳はだまって自分の傘の中に私を入れた。
まだ耳に残る旋律。
モーツァルトで消そうとしても消せなかった響き。
不意に聞こえてきたのは彼が教えてくれた歌。
キャロル・キングの‘It's too late'。
駅のそばの広場で、雨をよけながら二人組が歌っていた。
こんなときに、なんて曲・・・
そっと、舌先を噛む。
かすれそうな声。
何時間か歌い続けたんだろう。
町行く人を振り向かせたくて。
一生懸命なアコースティック・ギターが耳に痛々しい。
あんたが教えてくれた歌、みんな知ってるんだね・・・
忘れない?
忘れないよ。
いつまでも?
いつまでも。
そうして私は泣いた。
肩も震わせず、声も漏らさず、
黙って歩く巧巳の傘の陰に隠れて。
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