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「夜って少し波があるみたい・・・」
「ああ、昼間より高いみたいだな。・・・平気か?」
「うん。・・・だけど、このまま、しゃべり、ながら、泳いでる、のは、
ちょっと、たいへん、だね・・・」
いるかは海水を飲まないように気をつけながらしゃべる。
「つかまれよ。」
「え?」
「おまえ、ここじゃもう足が立たないだろ?俺はまだ着くんだ。」
「えっ、そーなの?すごいなぁ。」
「この辺はかなり遠浅なんだな・・・岸からこれだけ離れても、まだこんなに浅い。」
「・・・じゅ―ぶん深いと思うけど・・・」
「まあまあ。」
いるかは春海の首に両腕を回す。
波にさらわれそうになるいるかの膝と背を春海はしっかりと支える。
「ムーン・ロードって言うんだって・・・」
「あの、月明かりの帯のことか?」
「うん。今朝聞いたんだ。・・・でも、あそこまではちょっと行けないね。遠すぎるもん。」
「そうだな。・・・遠くから見てるだけの方がいいってこともあるさ。」
「そうかもしれないね・・・・ほんとにきれいだもん。こんなの、みたことないよ。」
「明日一日で帰らなきゃいけないなんて、つまらないなぁ。
ガッコなんてなくなればいいのに。」
「そうだよなぁ・・・」
「え?」
「えって・・・なんだよ。」
「何か意外だもん。春海がそんなこと言うなんて。」
「・・・そうか?」
「うん。・・・巧巳ならわかるけど。」
「・・・」
「春海?」
春海は人差し指でいるかの唇をそっと押さえた。
つまらないことだとは思うけれど、この唇から彼の名前がもれるのを今は聞きたくない。
・・・東京に帰ったら、今みたいに一日中おまえと一緒ってわけにはいかなくなるじゃないか・・・
春海の思いは届いたのだろうか。
いるかはかすかな笑みを浮かべた。
月明かりに照らされて青白い光が彼女の顔を浮かび上がらせる。
水の滴る髪が額に張り付いて、うっとおしそうにかきあげる仕草に心が騒ぐ。
視線は合わせない。
けれど同じものを見つめている。
同じ波に身をゆだね、同じ明かりに身をさらし、同じ音につつまれる。
何もいわなくてもいい。
ただこの時間を共有できただけでいい。
この一瞬がいつまでも二人の心に焼き付いてくれればいい、春海はそう思った。
「春海、あたしのところのシャワー使う?」
「え?」
「ほら、母屋のを使うと、みんなを起こしちゃうかもしれないでしょ?」
「ああ・・・そうだな。そうさせてもらえるかな。」
「うん・・・じゃ、こっちに来て。」
いるかは春海を自分の部屋へ案内した。
いるかの部屋は庭に直接出られるように扉があり、大きく開けられた窓は風をはらんでカーテンを大きく揺らしていた。
月明かりがカーテンを通して、部屋の中まで届いている。
歩くとひんやりと気持ちいいなめらかな黒木の床に、竹で作られた南国風の畳敷きの大きなベッドが置かれている。
天井から白い蚊帳がつられていて、天蓋のようにベッド全体を覆っていた。
「春海、先使って。あたしは後でいいから。」
「いいよ、おまえが先で。」
「いいって。春海、ゆうべあまり寝てないでしょ?今日は早く寝ないと。」
「・・・え?」
「でしょ?」
「あぁ・・・・まぁ。でも、なんで・・・」
「なんとなくね。・・・だから先入って。」
「うん・・・じゃ、そうさせてもらう・・・」
「ごゆっくり。バスローブとか、でてるの適当に使ってね。」
「ん、サンキュ」
春海と入れ違いにいるかはバスルームへと足を運ぶ。
シャワーの湯気につつまれながら、春海のことを考えた。
今朝の春海は寝顔もどこか考え深げで、少しおかしかった。
こんなに長い間一緒にいるのは中三の春以来かもしれない。
あのころより春海が少し遠いような気がするのは気のせいだろうか?
あのころは自分の望むより春海は近かった。
今は自分の望むより、少しだけ春海が遠い気がする。
決して素っ気無いわけじゃないし、避けられているわけでもない。
なのに、この感じはなんなのだろう。
手を伸ばしただけ相手も伸ばしてくれるとは限らない。
控えめな手は指先が触れているだけのような、物足りなさを少し残す。
・・・やっぱり春海のことはよくわかんないや・・・
いつものことだ。
わかっているつもりでも時々まったく考えが読めないことがある。
それはもどかしく思うこともあるけれど、春海はそれでいいんだと思う。
彼は自分の何歩も先を歩いているのだからと、そう思っているかは考えるのをやめてシャワーの栓を閉じ、あがった。
「・・・あれ、春海まだ帰ってなかったの?」
シャワーを浴びて部屋に帰ってきたいるかが言った。
「うん。おまえの顔みてから行こうと思ってさ。」
春海は立ち上がって、いるかと入れ替わりに出て行こうとする。
「・・・おやすみ」
「おやすみ、また明日ね。」
言葉とは裏腹に、春海はいるかの瞳の中にもう少し一緒にいたい、というメッセージを読んだような気がした。
けれどそれはほんの一瞬のことで、春海はいるかのまだ濡れている前髪に少しふれて、母屋へ帰っていった。
「・・・泳げるのは今日が最後かぁ・・・」
両腕を伸ばし伸びをしながら巧巳が言った。
午前中の浜辺で、ひと泳ぎの後の休憩時間である。
「そうだね。明日ははやくに空港に向かうんだもん。」
「今日って・・・31日だよね。」徹が言う。
「そうだな。今年は1日が日曜だから2日から学校だろ。」
「・・・倉鹿じゃ、武士道水練大会の日だね。」懐かしむように徹が言う。
「ああ・・・そうだな・・・・」
「すいれん?」巧巳がたずねる。
「倉鹿市の江戸時代から続く伝統行事だよ。
鹿々川って川での障害物つき水泳大会ってとこだな。
子供の部とか、中学生の部とかって分かれてて、優勝者には米十俵が与えられるんだ。」
「ふーん・・・なんか賞品からしておもしろそうだな・・・
おまえは当然中学の部三連覇なんだろ?」
「・・・いや・・・」
「え?違うのか?・・・じゃ、いるかおまえか?」
「・・・ううん・・・違うよ。」
巧巳はいるかと春海の表情に何かを感じて、それ以上追求しなかった。
どうして今まで考えてみなかったんだろう・・・
あたしと別れた後、春海はどうしていたのか・・・
水練大会には行かなかったんだろうか・・・
あの日、いるかが乗った列車を見送って、いつまでもホームに立ちつくしていた。
列車が見えなくなっても、ずっとずっと・・・
母さんがなくなったとき以来、初めて泣いた。
気が付いたら、水練大会の開始時間はおろか、大会そのものがとっくに終わっていた。
人気のなくなった鹿々川の川原に仰向けになって暗くなるまで泣いていた・・・
どの位たったころだろうか、あたりはすっかり暗くなって、人の気配もなくなったころだった。
「・・・・おにいちゃーん・・・・・・」
徹の声がした。
川原から身を起こすと、橋のうえから俺を探していたらしい徹が走りよってきた。
「・・おっおにいちゃ・・・・・ん・・・ヒクッ・・・」
「・・・徹・・・」
「・・・よ・・よかっ・・た・・ここ・・・に・・いて・・ヒクッ」
涙でぐしゃぐしゃになった徹の頬をそっとなでた。
「・・お兄ちゃん、一緒に東京に行こう。
僕、転校する。もう、ここがいいなんていわない。
みんなで、藍おばさんも、一緒に行こう。
僕から、お父さんに、頼むから・・・
だから・・・・ヒクッ」
「徹・・・」
小刻みに震える、まだ幼い肩を抱きしめた。
「そうだな・・・みんなで行こう。東京へ・・・」
徹は俺の肩のあたりで泣きながら何度も肯いた。
目を閉じては浮かんでくる、あいつの姿。
笑顔も、泣き顔も、怒った顔も・・・
だけど、来年の春まで、春まで会えないだけだ。
母さんのように、もう二度と会えないわけじゃない・・・
受験のことはずっと答えを出せないままだった。
どこか、大学でどうせ出るのだからという甘えがあった。
東条巧巳のことを諦めても、いるかがいるならいいとさえ思ったこともある。
それだけ彼女と過ごす日々は何物にも替えがたいものに思えていた矢先だった。
いきなり突きつけられた別れ。
予想もしていなかった形で何気ない日々に終止符が打たれた。
・・・罰のような気がした。
自分の甘さに対して。
走りつづけることにいつか倦んでいた自分に対して。
二人でいることの心地よさに負けそうになった自分に対して。
東京には東条巧巳がいる。
そしているかがいる。
もう、迷うことはない。
今度は、俺があいつを追いかける番だ・・・
泣きつかれていつのまにか眠ってしまった徹を負ぶって
夜もふけた倉鹿の町を家に帰った。
あの日から一年・・・・
どこかで予感していたかもしれない。
こんなふうに巧巳といるかと三人で、一緒にいることを。
「せっかくだからさ、その水練大会とやらのマネをしてみねぇか?」
「え?巧巳、どういうコト?」
「だからさ、俺とおまえと春海で、競争するってのはどうだ?
俺は球技大会の雪辱を晴らしたいしなぁ」
巧巳はそういってちらりと春海のほうを見た。
六月に行われた球技大会で、巧巳の一組は春海の二組に僅差で敗れてしまったのだ。
「そういうことなら・・・やるか。」
「うん!なんか面白そう!」
「じゃあ、あそこに見える小さな岩まで行って帰ってくるってのは?
結構距離あるな・・・大丈夫か?」
巧巳がいるかのほうを見てたずねる。
「へーきさっ!そっちこそ途中でへばんなよ!」
「お、言ったな。」
「負けないからね!」
「いるかちゃん、がんばって!」
「まっかしといてよ、正美ちゃん!きっと一番に帰ってくるからね!」
「・・・俺は?」
「やだなあ、お兄ちゃん。
いるかちゃんは女の子なんだから応援してあげなくっちゃ。」
「巧巳、やきもちか?」
「るせーよ。・・・いくぜ。」
正美と徹の掛け声で、三人は沖に向かって泳ぎ始めた。