I
「春海っ!」 いるかが教会のドアから顔を出し、勢いよく走ってくる。 ドレスの裾をを両手で邪魔そうに持ち上げて、長い階段をまっすぐ走って降りてくる。 薄く透けるようなシルクを何枚も何枚も重ねたドレスが走るたびふわふわとゆれる。 何色とも言いかねる不思議な光沢を持った生地が夕陽を照らし返す。 きつく整えられた上半身がふわりとした裾と対照的で、バレエのラ・シルフィードの衣装のようにも見える。 髪はお団子にまとめられてバラのつぼみがいくつか挿されている。 ネックレスもイヤリングもなく、素肌の美しさを引き立てるメイク。 目尻ぎわに細く引いたアイラインと自然なつやのマスカラ、パールの利いたモーヴ色のアイシャドウ。 そして水の滴るようにつややかなサテン・ローズの口元。 バラのような、という形容がまさにふさわしい頬。 アクセサリーはいらない、これだけで十分と思わせるのは、やはり化粧品のCMならではだろう。 いるかのまわりだけ春が来たように華やかである。 こんな姿で飛び込んでこられては、ドキドキしないほうが無理だ。 春海は自分のコートを脱いでいるかの肩に羽織らせる。 「へーきだよ、そんなに寒くないもん。」 「いいから着てろ。・・・もう帰れるのか?」 「うん、着替えたらね。もうすこし待っててくれる?・・・それなぁに?」 いるかが例の箱を見つけて聞いた。 「頂いたんだ・・・おまえにさ。」 「ふーん・・・なんだろ。・・あたしもね、春海にあげるものがあるの。じゃああとでね!」 「・・・え?」 春海の当惑を残したまま、いるかは来たときと同じように軽やかに走り去っていった。 しばらくしてサックスブルーのシャツとオフホワイトのプリーツスカートといった普段着に着替え終わったいるかは、両手にやっと抱えられるほどの白いバラ を抱えていた。 「撮影で使ったものなんだけど、きれいでしょ?終わったらちょーだいって約束してあったの。 今日はクリスマスだもん。春海にあげる!」 意外な贈り物に春海は驚きを隠せない。 贈ることそのものが嬉しくてたまらないといった様子のいるかに、春海はありがとう、のあとの言葉を続けることができない。 おまえのほうが・・・と、口許まででかかって赤くなる。 街行く人がみな振り返るほどの大きな花束を春海は抱えて歩く。 やっぱり、といるかは思った。 春海には赤いバラでもピンクやオレンジのバラでもなく、白いバラが似合う。 かすかに緑を帯びたティネケの白。 純潔、尊敬とたくさんある白バラの花言葉の中で、ことに気に入っているものがある。 「私はあなたにふさわしい」 お互いを認め合うようになって、いるかは春海に、そして春海もまたいるかに少しずつ近づいてきた。 ふさわしいというのは、釣り合いが取れているという意味ではないといるかは思う。 もしそうなら自分は明らかに春海にはふさわしくない。 けれど時々感じることがある。 春海のほんのわずかな表情に、何気ないしぐさに、彼の心が透きとおるように表れているのを。 かつては何を考えているのかよくわからなかったこともある春海の心が、少しずつではあっても伝わってくるのを。 頭ではなく心で、彼に寄り添っている自分がいることを。 理解するのではなく感じることで春海という人間をわかっていることを。 そんな時、いるかは思う。 私はあなたにふさわしい----と。 切れ長の、あまり表情を表さない目を細め、かすかに照れたように頬を染める。 いるかには、春海がどれほど喜んでいるかがわかる気がした。 それだけで、これまでの日々が少し報われたように感じた。 注目されることにいつまでも慣れない彼女だったが、今は人の目がいつになく嬉しい。 二人の長い影は時折ひとつになり、また離れ、暮れがけの街をあとにする。 長い長い試験がようやく終わったような、すがすがしさを風の中に感じる。 乾燥して身を切るような木枯らしの中でも二人で歩くと楽しい。 どちらからともなく笑みがこぼれてはしゃぎつつ帰り道を急ぐ。 「ふーん・・・なんかいるかちゃんじゃないみたいだね・・・」 夕食後、アルバムを覗きながら徹が言う。 いるかの両親は仕事柄この時期はパーティー続きでほとんど家をあけてばかりなのだ。 春海のところならと、葵もたびたび訪れることをとやかく言いはしなかった。 リビングにもダイニングにも所狭しとバラが活けてある。 花瓶はもとより、シャンペングラス、タンブラー、デキャンタ、アイスペール・・・ 徹と藍おばさんと、みんなで大騒ぎをしてやっと、かるく百本以上はあったバラを飾った。まるで部屋に雪でも降ったような眺めである。 「・・・あたしじゃないって、どーいう意味?」 「だからさ、すごいキレイなんだけどまるで知らない人みたいな感じで・・」 「・・・そお?」 「なんかさ、写真とかポスター見てるみたいで・・・」 「写真だしポスターなんだけどなぁ。」 「・・・なんかうまくいえないや。ま、ともかく無事に終わってよかったね。」 「無事に・・・って・・・なんかあるのが普通みたいな言い方だなぁ。徹くんて、このところもの言いがますます春海に似てきてない?」 「そうか?」 「そーだよっ。前はかわいかったのにさー・・・」 「いるかちゃんはかわらないよね。」 「もう・・・いいから勉強でもしてきなよ。」 「はいはい・・・じゃ。」 そういって徹は自分の部屋に行った。 あとにはいるかと春海が残された。 「ねぇ・・・・ここは?」 いるかがアルバムの一番最後のページを見ていぶかしげに聞く。 「写真があったみたいなんだけど・・・ないなぁ。」 「・・・」 「・・・春海?」 「・・・一枚だけもらった。」 「えっ、どんなやつ?」 「・・・」 「春海っ、どんな写真なのっ!みせて!」 「やだ。」 「ええっ、なんで、どうして、なんかまずい写真なの??みせってってば!ねぇ!」 うろたえる様子がたまらなく愛らしい。 春海はもうすこし焦らしてみたくなる。 「ねえってば、お願いだから見せて。ね?」 哀願するように傍によってくる様子がおかしくもありかわいくもある。 「じゃ、何してくれる?」 「え?なにって・・・え―――っと・・・何でもいいからっ!」 「・・・部屋においてきた。」 立ち上がって部屋に行こうとする春海のあとを、じれったそうにいるかがついていく。 「ほら、これ。」 ベッドサイドテーブルの文庫本が数冊積み重なった一番上に、その写真はおかれていた。 「これ・・・覚えてる。一番初めに・・・」 ずいぶん前のことみたいだ・・・いるかは思った。 丞にあったのはほんの一月前のことなのに。 「春海・・・」 いるかは写真を置いて、後ろからそっと春海を抱きしめた。 「あやまったら・・・怒る?」 背中に訊くように、小さな声で言う。 春海はいるかの手に自分の左手を重ね、しばらく黙っていた。 何を言ったらいいのか、何を言ってはいけないのか、春海には決められなかった。 今回のことで自分の味わった苦々しい思い、やるせない気持ち、いるかが離れていってしまうのではないかという不安、それらをみんな口にすることは、やはり できないと思った。 責めたい、とは思わない。むしろ今、こうして二人でいることに感謝したい・・・ 「いるか・・・」 「ん・・」 「おまえも・・・いろいろ・・大変だったんだろ・・・?」 一言ずつ、こころを搾るように選んだ言葉をつぶやく。 背中のいるかが小さく肯くのがわかった。 「ありがと・・・」 春海は体の向きを直して、少しうつむき加減のいるかの頭を、ぽんぽんと軽くたたいた。 「・・・ところで、何でもするんだっけ?」 「え?あ、あぁ、さっきの?・・・・・え―――・・・・あ―――・・。」 必死になにやら言葉を探している様子が春海にはおかしい。 少し赤くなっているいるかをふっと持ち上げて、机の上にすとんと乗せる。 「じっとして・・・」 きょとんとしているいるかの肩を押さえて、器用にシャツの一番上のボタンをはずす。 襟を広げ、うなじあたりの細い髪を指にからませて、白く柔らかな首筋に唇を押しあてる。 「いっ・・・つ・・・」 春海の柔らかな髪がくすぐったいと思ったのもつかの間、いるかは痛みで顔をゆがめる。 痛い、けれど熱い・・・甘い・・・・・ 洩れそうになる吐息をこらえて、歯を食いしばる。 「春海・・・何したの・・?」 痛みの少し残る首筋に手を当てて、おそるおそるいるかは聞く。 春海は指先でいるかの前髪をやさしくかきあげ、微笑するばかりで答えない。 いるかは洗面所に行き、鏡を覘く。 赤い、あざのようなものが首筋にはっきり残っていた。 春海はリビングのソファに座って、バラを玩んでいた。 部屋の暖かさのせいか、堅そうだったつぼみが少し開きかけている。 いるかは少し拗ねたような困ったような表情で春海の足元に座る。 「・・・痛かった?」 「・・・・・・うん・・・」 「大丈夫、そのうち消える・・」 春海はいるかのあごを指先でそっと持ち上げて、優しく口づけた。 ・・・残ってもいい・・・ううん、ずっと消えなければいい・・・ 部屋にはバラの青々とした香りがたちこめる。 痛みはすぐ消えたけれど、あのとき身体の内側に感じた甘さ、熱さがずっと去らない。 いつもの自分の知っている春海と少し違うようで、動悸が速くなった。 あれは、いったいなんだったのか・・・ ゆっくりと、扉が開いていくような、そんな感じがする。 今はまだ、その予感がするだけだけれども。 春海の優しげなまなざしの奥に見慣れない何かを感じる。 何か、でもそれがなんであってもいい。 春海が無条件に自分を受け止めてくれたように、自分もまた 何があってもこの人に寄り添っていよう、こころを添わせていようと思う。 いるかは微笑む。 出会って三年半―――、一年、また一年と彼女は変わっていく。 昨日よりは今日、今日よりは明日、少しずつ、けれど確実に、大人へとかわっていく。 生き生きと皆を魅了してやまない瞳はそのままに、出会ったころの少年のように闊達だった姿は少しずつ鳴りを潜めて、落ち着いた、慕わしく柔らかな微笑を浮 かべるようになる。 その変化は春海には戸惑いであり、眩しくもあり、また不安にもさせる。 けれどいるかはいつもいるか自身であり、春海の中の一番きれいな場所に住み続けている。 これからもずっと・・・ この冬の終わるころ、街にはいるかの笑顔があふれることになる。 けれどこの微笑みは、いま自分を見つめるこの笑顔は、自分ひとりのもの。 誰の目にも触れることはない。 指の甲で頬を軽く撫でる。 くすぐったそうに片目をつぶるさまが子供のようにあどけない。 そう、今はまだこのままでいい・・・ 二人のあいだにある微妙な距離は、時としてもどかしいけれど。 けれど。 たとえ誰であっても渡さない――― この心にも身体にも、触れることは許さない――― 春海はそう心に誓った。 「・・・速水か・・・」 例のバーで一人飲んでいた西園寺のそばに速水が腰をかけた。 「お疲れ様でした。・・・今日で、最後でしたね。」 「ああ・・・やっとね。」 「エッグ・ノッグを」 「・・・冷えたか?」 「ええ・・・一日外でしたからね。それにしてもあの子は・・ こどもは風の子なんていいますけど、ほんっと元気でしたねぇ・・スタントもナシで飛び降りるわ、走るシーンを何度撮り直しても息も切らせないわ、ちょっと怖いくらいでしたね・・・」 そういって速水は微笑む。 「ああ・・・女子サッカーで日本一になったチームのFWだとか・・・俺も今日知ったとこだがな。」 「そうなんですか・・・あんな小さくて華奢に見える体つきなのに、ちょっと信じられませんよね・・・もっとも何かで鍛えてあるって感じはしてましたけど。」 「で、成功したのか?」 「・・・いいえ。もうこれで最後だって言われてしまいました。」 「もったいないよなぁ・・・」 「私もそう思います。モデルとしてでなくたって・・・まあ、気長に口説きますけどね。」 「・・・諦めないんだな。」 「・・・これでも一流のエージェントのつもりですから。」 西園寺は自分の飲んでいたホット・バタード・ラムを少し持ち上げて、速水のグラスにカチン、とあわせた。 (終わり) これまで読んでくださってありがとうございました。
水無瀬拝
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