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春海、何か言いたげだったな・・・ 家に帰り、ベッドに横になっているかは思った。 正直なところ、いるかには春海の反応が意外だった。 もっといろいろいわれるかと覚悟していたのに、なんだか拍子抜けした。 何を言ってほしかったのか、 あるいは何を言ってほしくなかったのか・・・ 春海は普段からそれほど思っていることを口にしない気がする。 あたしはいつまでたっても 春海の考えていることがよくわからない。 何をしても受け止めてもらえる自信なんてない。 今そばにいてくれるのだって奇跡みたいなものだとも思う。 あまり深く考えないようにしているけど、時々・・・すごく不安になる。 失いたくない―――でも、どうすればいいのか、わからない・・・ 何も考えないで、ただ春海を信じればいい、春海の、お前がずっと好きだと、その言葉を信じればいいと思うこともある。 あたしはきっと、この先誰と出会っても春海に替わる人なんて現れないって自信がある。 けれど春海には、いつかあたしよりもっとすてきな人が現れるかもしれない・・・ 昼間の明るいいるかからは想像もできない深いため息がもれる。 ベッドのそばの窓を開け、冬空に輝くオリオンを見つめる。 春海・・・今頃何をやっているんだろう。 きっとまだ勉強だね。 自分の勉強時間を割いてあたしに教えてくれてたんだもん。 春海は確かにすごく頭がいいけどそれでも努力してないわけじゃないって、知ってる。 もしかして誰よりも努力家なのかもしれない。 およそ人に負けるってことがない春海だけど・・・誰よりもがんばってるからってこともあるんだろうな・・・ あたしにも、たぶん誰にも、そんな姿を見せないけれど・・・ 「春海が好き・・・」 知らず、いるかは声に出していた。 自分の声にあわてて指先で唇をそっと押さえる。 触れた指先が春海の唇のように思えて、いるかはほんの少し赤くなった。 「いるかちゃんと、何かあったの?」 家に帰った春海に徹が問い詰めた。 「・・・何にもないよ。」 「だって、いるかちゃん、いつもよりずっと食べなかったじゃない。」 「・・・そうか?」 「そーだよ!気づかなかったの?」 「・・・」 「なんか上の空って言うか、何か言おうとして飲み込んでいるって言うか・・・お兄ちゃん、しっかりしてよね!」 「わかってるよ。」 「いるかちゃんてあれで結構繊細なんだからね。」 「わかってるよ!」 思わず大声を出してしまっていた。 「・・・」 「・・・悪かったな、徹。でも、ほんとに大丈夫だから。」 徹はまだ心配そうな目で兄を見つめている。 春海はそんな徹を尻目に自分の部屋へはいっていった。 いるかの机の上には先日家に来た西園寺が帰りがけ渡した一枚のメモが乗っている。 「・・・これを読んでおいてくれないか。 火曜日、学校まで迎えに行くから。」 そういって西園寺はいるかの食い入る視線をさらりとかわして帰っていった。 「12時の鐘がなる。 石造りの大階段を大急ぎで駆け下りてくるシンデレラ。 ガラスの靴が脱げても気づかない。 馬車もなく、御者もなく、 現代のシンデレラは走る。 長いドレスをひざまでたくし上げ、 惜しげもなく足をのぞかせて。 片方になったガラスの靴を手に握り締め、 素足のまま、走り続ける。 花園の中を、砂の上を、ひたすら走り続ける。 何かにおびえるように、 時々後ろを振り返りながら。 たどり着いたのは 大きな扉の前。 両手で、力いっぱい押し開く。 教会のようにがらんとした大きな部屋。 石の床には一面バラの花びらが散り敷かれている。 後ろの手で扉を閉めて 薄いベールが幾重にもカーテンになっているベッドに倒れこむ。 息づかいは荒い。 クッションを抱えて、 頬を上気させ、 今しがたの出会い―――を思い出しながら。 けれど ベールをかき分けて うつぶせに横になっている彼女に そっと腕が差し伸べられる。 驚き、おそれつつも そっとその手を重ねるシンデレラ。 相手の顔ははっきりしない。 でも、彼女にははっきりわかっている。 頬を染めたまま、はにかんで微笑む。」 たぶん、CMを撮るときのイメージか、キャンペーンのテーマなのだろう。 演技はともかく、走るシーンが多そうなのでいるかはちょっと安心した。 にっこり笑うのなんてひきつりそうだけど、ひたすら走るんならお手の物だ。 差し伸べられた腕―そっと重ねる手のひら―― カーテンの向こうにいるのは・・・ ふと最初であったときの西園寺の顔が浮かんだ。 そして家に来たときの、あの挑むような表情も。 この手をつかんだら、どうなってしまうのだろう・・・ イメージの中のシンデレラが自分に重なって思えた。 いるかは春海になぜあんな後ろめたい気持ちがしたのか、わかった気がした。 どんなに好きな、大切な人がいても この手をとらなかったら一生後悔する――― 西園寺に声をかけられたそのときから、 こうなることはわかっていたような気がした。 ただ、あたしは彼の申し込みを受ける口実がほしかっただけなんだ・・・ もしかしたらあたしは決して開けてはならないものを開けようとしているのかもしれないと、体の奥に氷の粒を注がれたような怖れを感じながらいるかは思った。 春海は失いたくない。 春海は誰にも替えられない。 それでもなお消えない、熱いものが胸の奥でくすぶっている。 体のふるえが止まらないのは、開け放した窓から入る風のせいばかりではなかった。 翌火曜日。 いるかはサッカーの練習が終わったあと、いつもの倍のスピードであわてて着替えた。 西園寺は迎えに来るといっていたが、できるなら、春海やほかの友達には彼と一緒のところを見られたくなかった。 「おさきっ!」 「いるか?何をあわてて・・・」 玉子が後ろから声をかけるのもみなまで言わせず いるかは並ぶもののない俊足で下校する生徒のあいだを駆け抜けていく。 「カシャッ」 シャッターを切る音にはっとして立ち止まると、車にもたれるようにしながら西園寺が立っていた。 「君はまるでアタランタのようだね。」 カメラを下ろし、西園寺はゆっくりといるかに向かって微笑みかけた。 ゆったりした黒っぽいチャコールグレーのタートルネックセーターに着古した感じのリーバイスのストレートジーンズ。 つま先がすこしのぞいているウェスタンブーツはつやのあるマホガニー色だった。 さりげない格好なのに、とてもよく似合う。 「西園寺・・・さん」 いかにもとってつけたような敬称に西園寺はまた微笑む。 「丞、でいいよ。仕事関係の仲間はたいていそう呼ぶから。」 「ジョー?」 「西園寺銕之丞の丞。長ったらしい名前だろ? 日本人ならともかく、外人は覚えちゃくれなくってさ。」 「・・・わか・・りました。」 「その、いかにも使い慣れない敬語もやめろよ。」 「・・・わかったよ。」 いるかの口元も、徐々にほころんでくる。 「乗って。」 赤紫のロードスターの助手席の扉を開け、 西園寺―――丞はいるかを招き入れた。 「・・・どこに向かってるの?」 明治通りを走ってしばらくしてからいるかは聞いた。 「まず青山。 そこでちょっと着替えてもらわないと。 制服の女子高生を車に乗せてると何かと怪しまれる。」 丞はいるかに向かって軽くウィンクした。 「それから?」 「それからは・・・今日はちょっとカメラ慣れしてもらいたくてね。」 「カメラ慣れって?」 「ほら、お前はいわゆる素人だからさ。 カメラを向けられるたび表情が固まっちゃうだろ。 さっきみたいに不意打ちしないとね。 「さっきって・・・走ってたとき?」 「そう。おまえの評判は聞いたよ。 短距離も長距離も陸上部なんか目じゃないってね。」 「・・・誰に聞いたの。」 「んー・・・その辺の生徒。」 ああまた・・・あしたの朝が思いやられた。 それでなくてもいろいろ噂を立てられることが多いってのに。 余計なことを・・・ どうやらいるかの思いはそのまま顔に出たらしい。 「悪かったな。でも、適当にごまかしといたからだいじょうぶだと思うよ。」 「あ、ありがと・・・」 思っていることをそのままよまれているかはすこし赤面した。 「ねえ、アタランタって、何?」 照れ隠しのために、いるかは聞いた。 「アタランタってのはな、ギリシャ神話に出てくる王女様だよ。 男勝りで走るのが速くて、自分と駆け比べをして勝った男でないと結婚するのはいやだって言ったんだ。」 「ふーん・・・」 「・・・ところがアタランタには誰も勝てない。 だが、彼女に恋したある王子は知恵を働かせて、ついに彼女を負かすんだ。」 「・・・どうやったの?」 「金のりんごを三つ、彼女が追いつきそうになったら 後ろに投げながら走ったんだ。 で、アタランタはりんごを拾ってまた走るんだけど最後には負けてしまう。」 「それって反則じゃん。」 「まあ、そうかもしれないけどな。 勝ったことは勝った訳だよ。」 「で?」 「・・・まあ二人は結婚したんじゃなかったかな。 何しろ約束だから。」 「・・・それって・・・」 いるかは口ごもる。 今のあたしみたいじゃない―――とは口に出せなかった。 もし、アタランタが最初からその王子を好きだったのだとしたら? ただ口実がほしくて、金のりんごを拾ってわざとおくれたのだとしたら・・・? 西園寺は運転席で前を見つめたままだった。 「・・・ついたぞ。」 いつの間にかいるかは助手席で眠ってしまっていた。 ふと見るとひざに男物のジャケットがかけられている。 「・・・丞?」 「よく寝てたな。青山から一時間、ほとんど寝てたぞ。」 「うーん・・・練習のあとだもん。 あーおなかすいちゃった。」 「そう言うだろうと思って、適当に買っといた。」 いつも間にか後部には風呂敷に包まれた吉兆のお重が乗せられていた。 「わっ嬉しー!!!!」 いるかは早速いただき始める。 一人で食べるのがもったいないような手の込んだお弁当だったが、いるかは瞬く間に平らげる。 「おべんと、すっごくおいしかったよ。ごちそうさまっ!・・・丞?どこ?」 いつの間にか西園寺の姿はなく、周りは人気もない。 「・・・こっちだ!降りておいで!」 波の音が聞こえる。 打ち寄せては岩を洗う音が。 夕陽がきらきらと水面に当たって目を射るほどだ。 コンクリートで固められた海岸に申し訳程度に残った岩場に丞は下りていた。 もちろん泳ぐための場所ではない。 ガードレールを飛び越え、かなり高さのある下の岩場まで降りようとはまず誰も思わないに違いない。 だが、夕陽に染まった海が静かに打ち寄せるさまはとてもここが東京とは思えないほどだ。 もちろん降りるための階段などはなく、丞は飛び降りてくるいるかを抱きとめようと両手を広げてまっている。 いるかはガードレールをひらりと片手をついて飛び越え、岩場まで二メートル以上はあろうかという高さを助けを借りずにふわりと降りた。 「身軽だね。・・・羽でもあるの?」 カメラを手にした丞は照れもせずそんなせりふを口にした。 いるかはなんと答えてよいかわからず、赤くなってぷいとそっぽを向く。 「そこに立って・・・顔はこちらへ・・・そう・・・少しうつむいて・・・・・」 残り少ない光を惜しむように、丞は続けざまにシャッターを切っていく。 「・・・最初は気にするなってほうが無理だろうけど、 じきなれるよ。」 夕陽の作り出す陰影を確かめながら、丞はいるかの肩、顔の向きをすこしずつ直していく。 丞の手が触れるたび電流が通ったようにいるかはびくりとする。 さっき着替えた薄手のニットワンピースは肌にじかに着ているので手の感触が生々しく伝わってくる。 丞の手は的確に、いるかの体を思うままに動かしていく。 「これ・・・パッヘルベルのカノン・・・だよね・・・」 打ち寄せる波と響きあうように、 ゆったりとした旋律が流れる。 「そう・・・目を閉じて、聴いてみてごらん。」 丞の指先が、いるかのまぶたをそっと閉じる。 目を閉じて、波音に、旋律に身を浸す。 弦楽器の奏でるきらきらした感じはそのまま水面の光のようだった。 音楽に、体が満たされていくような気がする。 いるかは自分自身が溶け出してなくなっていくような、不思議な気持ちになった。 撮られていることはもう意識にも上らなくて、丞のなすがまま、されるがままになっている。 シャッターの音がまるで気にならなくなったころ、ようやく陽は完全に落ちて辺りはほぼ真っ暗になった。 「よし、今日はここまで。」 丞の一言でいるかはわれに帰った。 ロードスターはすべるように高速道路を走っていた。 カーステレオからはJ・S・バッハのAir―――G線上のアリア―――が流れている。 いるかも丞も、何も話さなかった。 体の中に先ほどの余韻が残っている。 走り終わった後、まだ走り足りないような感じがする、あんな感じがした。 高速道路のオレンジの明かりを次々とあとにして車は走り続ける。 静かな音楽に、予感が確信に変わっていくような気がした。 丞の前には、すべてを投げ出して曝したくなる。 シャッターの音も、はじめこそ緊張したけれど慣れてくるとかえって心地いいものになった。 いつまでも、このままでいたいような・・・ どうしよう・・・ あたし、胸のどきどきがとまらない・・・ その日からいるかは春海を避けるようなった。 |