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4時限目が終わると、いるかは教室を抜け出して屋上へ向かった。 お弁当は三時間目のあとに食べ終わってしまったけれど いつものようにパンを買う気にはならなかった。 あんまり食欲がないなぁ・・・ 普通の女生徒の倍は食べているいるかにしては確かに少なかった。 今日ばかりではない。 こんな日がここのところずっとだった。 春海と顔をあわせることを避けようと、 昼休みはここ屋上で過ごすことにしていた。 木に登るのはもうやりすぎてばればれだろうし、寝ちゃって五時限目に間に合わないと困る。 屋上にはぐるりとフェンスが回してあるけれど眺めがよく、遠くには海も見える。 ボイラーや空調設備があって別にいいところではないけれど ぐるり360度の眺めだけはすばらしかった。 「・・・いるかちゃん?」 「・・・晶・・・」 ふと見ると、階下につながる扉のところに晶が立っていた。 晶はにっこりと微笑んで、いるかの隣にこしを下ろす。 「どーしたのよ。 このところずっと昼休みになるとどっかに消えちゃって。 山本君が何度か探しに来てたのよ。」 「・・・そっか・・・」 「・・・何か悩んでるのね?」 「晶・・・」 「話しにくかったら、いいんだ。 でも誰かに話したくなったら、あたしがいるからね。」 「ありがと・・・」 「それに・・・ちょっと責任あるしね。」 「え、なんの?」 「ほら、あたしがいるかちゃんの背中を押しちゃったようなものだからね。」 そういって晶は軽くウィンクした。 「ねえ・・・なんか歌わない?」 「え、ここで?」 「もちろん。 この時期はみんな窓を閉めてるからね。気がつかないかもよ。 気づかれたって、いいじゃない。昼休みだもん。」 「・・・」 「歌ってみようよ。 きっとすっきりするよ。 そんなふうに暗くなってるのはいるかちゃんらしくないって!」 「・・・そーだよね・・・・うん。」 いるかは立ち上がって海に向かったフェンスのそばにいき、すうっと大きく息を吸い込んだ。 Addio・・・ del passato・・・ (え、いるかちゃんオペラ歌えんの?) いつもの声とはまるで違う、裏声で歌ういるかの声に晶は驚いた。 ものやわらかな音質、たっぷりとした声量・・・ 伴奏がなくても音ははずさない。 小さいころから歌ってたのかなぁ・・・ それにしては最初歌ってもらったときはひどかったけど・・・ 晶は次々浮かんでくる問いかけを飲み込みながら聞きほれていた。 さようなら、過ぎ去りし日の美しく愉しかった夢 薔薇の顔色もすっかり蒼ざめて アルフレードの愛さえも今の私にはない。 疲れ果てた魂を支え励ますものなのに。 ああ、 この女を許し、受け入れてください、神さま。 もう何もかもおしまいです。 慄き震えるような声は風に乗って学習院中を駆け巡る。 防音効果の効いた窓の中にいた生徒たちは気づかなかったが、 中庭をいるかを探すともなく歩いていた春海の耳には届いた。 (あいつ・・・屋上にいたのか・・・それにしても「椿姫」とはね・・・) 春海は迷うことなく屋上へ上がる階段を駆け上っていた。 ・・・Tutto,・・・ Tutto fini・・・ パチパチパチ・・・ いるかと晶が振り向くと、そこには春海が立っていた。 「いるかちゃん、あたし次の物理、当番だから。」 晶はそういい残して春海の横をすっと通り抜けて消える。 あとにはいるかと春海が残された。 いるかはすこしばつの悪そうな顔をしている。 「いい声だな・・・」 「ん・・・そうかなぁ・・・」 春海はいるかのそばによってきて、 後ろからそっと肩をつつむように抱きしめた。 「・・・探したぞ。」 「・・・ゴメン・・・」 「おまえ・・・すこしやせたな。」 「えっ、そう?自分じゃわからないけど・・・何でわかんの、春海。」 「そりゃわかるさ。」 そういって春海はいるかの正面に回った。 左腕でいるかの体をぐっと引き寄せる。 「・・・誰か・・来たら・・・」 いるかは閉じられた扉のほうを気にする。 「来ないよ。」 「・・え?」 「・・・生徒会長の特権。」 春海の手には屋上の扉の鍵が握られていた。 くっくっく・・・・・ いるかは笑いを押し殺している。 「・・・やっと笑ったな。」 「・・・春海・・・」 春海は右手でいるかの髪をなでる。 いるかは両腕をそっと春海の背にまわして抱きしめた。 「・・・大好き・・・」 小さい声で、そっと囁く。 「・・え?」 「・・・そろそろ行かなきゃ。5時限目が始まっちゃう。」 いるかは春海の腕をするりと抜けて扉に向かう。 「おい、まてよ」 春海が鍵を持って追いかける。 カチャッ 扉を開ける。 出て行こうとするいるかの腕を後ろから春海がつかむ。 勢いに任せてぐいっと引き寄せて、ほんの数秒――キスをした。 春海が腕を放したとき、いるかはすこし微笑んでみせた。 「あたし、先いくね」 そういって、階段の手すりをひらりと横から飛び越え、 何メートルも下の踊り場に軽々と降り立った。 唖然としている春海に軽く手を振って、いるかは廊下の先へと消えていった。 何かが違うような気がする。 春海の知っているいるかと、どこか違う気がする。 ではいったいどこが・・・ 春海は廊下を歩きながら考えていた。 いつもなら・・・ そう、いつもなら 春海が後ろから不意に抱きしめたりすればもっと・・・慌てたり赤くなったり・・・ 平手打ちやら何やらが飛んでくることはさすがに稀になったけれど、あんなにおとなしくしていたことはなかったと思う。 それがきょうは赤くもならず、おとなしかった。 変だ。 鎖骨や肩のあたりも幾分頼りない感じになって・・・ 今までも、あれだけ運動するくせに華奢なつくりだと思っていたけれど・・・ 春海の両腕にはさっき抱いたいるかの肩の感触がはっきりと残っている。 それに振り向きざま見せたあの微笑・・・ いるかの笑顔なんて見慣れているはずなのに、ドキッとした。 なんだか急に大人びたような・・・ いるかの笑顔はいつも曇りのないものだったのに、さっきのは違った。 何か含んでいるような、晴れ晴れと笑えない何かがあるような・・・ このところずっと雲隠れしていたのも、原因はやはり同じことだろうな・・・ 西園寺か・・・それとも慣れないことをしているせいなのか・・・ もし、いるかの心が自分から離れていくようなことになったら・・・ そんなことはない、と言い切れるほどの自信は春海にはなかった。 ただ信じてやるだけでは あんなふうにアンバランスになっているいるかを支えきれないこともわかっていた。 徹はいっていた。 いるかちゃんってあれで結構繊細なんだからね・・・と。 いわれるまでもなく、知っているつもりだった。 ただ、いるかはあまりそんなところを見せようとはしない。 もっと頼ってもらいたいのに、もっと甘えてほしいのにと思うこともある。 なんでも一人で悩んで抱え込んで最後まで何も言わない・・・ そして自分はまるで傷ついていないような顔をする。 倉鹿から帰ってしまうときもそうだった・・・ 春海の脳裏にあの夏の日の出来事がよみがえる。 涙をぼろぼろ流して謝るいるか。 見送られるのがつらいからと、誰にも、自分にも何も言わずに去っていこうとしていたいるか。 あいつにあんな思いはもうさせない・・・ けれど春海にはわかっていた。 自分にできることとできないことがあるのを。 学校内でのことなら何とかしてやれる。 だが今回いるかのかかわっているのは学校の外、春海にとってもなじみのない世界だった。 いるかを守ってくれるものは何もない。 高校生ということで、それなりの配慮はされるだろうし、いるかの両親も認めたことだ。 だが、まったく知らない世界で、いるかがどんなものを見、どんなことを考えているのか。 春海には憶測することしかできなかった。 どんなに成績がよくとも、どんなに先生たちに認められていようと、 自分は所詮ただの高校生に過ぎないのだと、春海は苦々しい思いをかみ締めていた。 何か自分にできることはないだろうか・・・ 春海は考えた。 何か・・・いるかに力になってやれそうなことは・・・ しばらく考え込んだ後、春海の頭に一人の人間の名が思い浮かんだ。 「・・・そうだ・・・あのひとなら・・・」 教室に向かう春海の足取りは、先ほどよりすこし軽くなっていた。 |