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西園寺はいつものようにいるかを六段の家に送って、自宅兼スタジオにしている恵比寿のマンションに帰ってきた。 が、なぜか落ち着かず眠れそうにもないので近所のバーへとまた出かけていく。 落とした照明に、マイルス・デイヴィスの‘blue in green’が流れている。 「・・・カミカゼを。」 カミカゼを頼むのはアメリカにいたときからの習慣だ。 才能のひしめく場所でのし上がるには、自分をうまくアピールすることも大事だと知った。 東洋人、それも日本人なら、それを印象付けてやろうと、あえてカミカゼをオーダーするようになった。 ウォッカとコアントローとライム・・・ きつい組み合わせだ。 だが今日のような日には、ちょうどいい・・・ 如月いるかという少女は・・・やはりただの小娘ではなかったな。 見込んだとおり、いや、それ以上だった・・・ 打ち合わせを何度か重ね、実際に撮ってみての感触は西園寺の予想以上だった。 あの身軽さ、運動センスのよさはCMの台本に書かれているイメージそのものだったし、表情の豊かさ、音楽に対する感受性も申し分ない。 口で説明してもなかなかイメージは伝わらないものだがイメージにあわせて選んだ曲を聞かせると俺のほしい表情を引き出せる・・・ 剣道をやっていたといったが、あの手首のしなやかさも表情作りに一役買いそうだ… それにあの瞳… どんなに化粧をしても、目だけはごまかせない。 吸い込まれるような瞳っていうのは、ああいう眼のことをいうんだろうな… 時々潤んだような瞳でレンズを見つめる、あの表情もなかなか作れるものじゃない・・・ だが・・・ 西園寺の胸には撮影が順調に進めば進むほど苦いものが広がっていく。 最初は・・・なんとしてもあの子をモデルに使いたくて・・・ わざと挑発したリ、気を引くようなそぶりをした。 今回のような撮影では自分のほうが優位に立つことが絶対に必要だったから・・・・ 付き合ってる男がいる割りに非常に奥手で、 無防備というか無邪気だったあの子はうまくかかった・・・と思う。 なのに、今になってそのことを後悔するなんて・・・ばかげてる。 あの潤んだ目で見つめられるとつい言ってしまいたくなる。 悪かったって・・・ 触れれば壊れそうな少女性・・・冒しがたい孤高の処女性・・・ たかが化粧品のコマーシャルと思って気軽に引き受けたものの、こだわったあげく見つけたモデルは 商業広告の域を超えた作品にさえなりそうだった。 ファインダー越しでなくじかに触れたくなる。 ・・・こんなことは、初めてだ・・・ 「・・・こちらだと思いましたわ。」 不意に後ろから声をかけられた。 「・・・速水か・・・」 「ご自宅にお電話したらお留守でしたから・・・ きっとこちらだろうと思って。」 西園寺は何も言わずグラスを見つめる。 「・・・ホワイト・レディを・・・」 速水は西園寺の隣のカウンターに腰掛けた。 「・・・あの子のことが気になっているのでしょう?」 出し抜けに速水がいった。 西園寺は何も答えずにグラスを見つめたままだ。 「わかりますよ。 お忙しいのにあの子の送り迎えまでご自分でなさって、それに・・・ あの子はあなたのことを丞と呼ぶんですものね。 あなたが自分のことをそう呼ばせるのはごく一部の、近しい人だけ・・・ あの子は知らないようですけどね。」 「・・・何が言いたいんだ。」 西園寺は残っていたカミカゼを一気に傾けてきいた。 「あの子には手を出してはいけないってことです。」 すこし驚いて西園寺は初めて速水の顔を見つめた。 「あの子の気を引くようにあなたがいろいろなさったことはわかってます。 あなたほどの容姿と、才能とがあれば あのくらいの年頃の子なら簡単だったでしょうね・・・ 結果あなたは望むモデルを手に入れ、演出どおりの表情を得た・・・ でも、今度はあなたのほうが本気になってしまった・・・ 違いますか?」 西園寺はうつむいたまま答えない。 「今でさえあの子は傍から見て痛々しいほどです・・・ これ以上あの子の心をもてあそぶようなことは・・・」 「もてあそんでなどいない!俺は・・・」 西園寺は思わず大声を出してしまった。 静かなカウンター席に一瞬緊張が走る。 だが、西園寺はすぐに落ち着きを取り戻して再び腰を下ろした。 「わかっています。 でも、あなたは最初ごじぶんのためにあの子を利用した。 いまさらあれは演技だった、でも今は本気だなんて、言えるわけはありませんでしょう? あなたにできることは最後までただのカメラマンに徹することじゃないんですか?」 「・・・・・・」 「大丈夫です。 あの子にはちゃんと帰っていく場所があるんですから。 今のあの子は熱病にうなされているようなもので、あなたが離れていきさえすれば元通りになるんです。 あの子も、そのことはじき気づくでしょう・・・」 「おまえは・・・」 「・・え?」 「・・・おまえは、なんだって俺にそんなことをいう気になったんだ?」 「それは・・・」 速水はすこし口ごもって、言った。 「・・・私が少しお節介だからじゃないかしら。」 ホワイト・レディを飲みきって、お休みなさい、といって速水は去っていった。 eurythmics ‘There must be an angel’ カセットテープにはこう書いてあった。 「この曲知ってる・・・」 「そうか?ちょうどよかった。 この曲が今度のCMに使われるって決まったらしいんだ。 今日撮りたいイメージともぴったりだし、これを使うことにした。」 この前晶と一緒に聞いた曲だった。 歌っているアニ―・レノックスという歌手は晶のお気に入りで、どきどきソワソワする感じの曲はいるかも気に入っていた。 CMの台本はだいたい決まっていたが、ポスターなどに使われる写真は西園寺に一任されていていた。 「シンデレラの予感」という漠然としたテーマは決められていたが演出、イメージ、そしてモデルも、 すべて自分に任せてくれるなら、というのが条件だったのだ。 西園寺は「シンデレラ」を少女から大人へ変わる時期、ととらえ処女性を持ちながらもなまめかしく、清らかなのにどこか性的な香りのする、そういった演出を試みていた。 ・・must be talking to an angel・・・ カセットに合わせて、いるかは思わず口ずさむ。 「・・・お前、歌うまいな。」 「あっゴメン、撮影中に・・・」 「いや、いいよ。そのまま歌ってて・・・」 丞は歌を口ずさむいるかの横顔にシャッターを切る。 優美な猫足の長椅子に横ずわりして、あごを軽く右の指先で支える。 次は、素足の足首をそっと左手で触れてみる。 唇を少し開けて肩をあごに近づけるよう押し付け、やや目を閉じて・・・ 大学で西洋絵画を研究した丞はどうすれば女が美しく見えるのか、古今のポーズを頭に入れていた。 手のむき、角度、指先の表情、 妥協のない細かい指示を出していく。 はじめのころこそいるかは指示に従っていくのが精一杯のようだったが、数回目の撮影となったこの日には 指示に従いながらも丞とともにイメージを作り上げている---そんな自覚があった。 まるで熱にうなされているように、丞のためなら自分のすべてを投げ出して、 力のすべてを出し切りたいという強い望みがふつふつと湧き上がってくるのがわかる。 うんと近いところにいるかと思えば急に突き放されたように感じ、二人をつなぐはずのレンズが二人を割きもする。 丞のちょっとしたしぐさで有頂天にもなり、言葉ひとつで突きおとされる。 わかるのは、ただ彼がものすごい求心力を持っていて、自分がそれに振り回されているということだけ。 こんな気持ちをなんと呼ぶのか、いるかはあえて考えないようにしていた。 まるで別の自分になっていく、 その感覚はいままで経験したことのないものだった。 いるかは演劇も、ステージで歌を歌うことも経験したが、自分から何かを積極的に作り上げている、というつもりはなかった。 元気で明るくて、よく食べてよく寝て―――そんな自分がカメラの前に立つと跡形もなく消えているのがわかる。 ほかのことは何も考えられないほど、丞と作り上げる世界に集中していく。 それは想像していたよりずっと大変なことで、知識、経験、感性を総動員してやっとできることだった。 体も隅々まで緊張させなければたちまち丞の容赦ない叱責が飛ぶ。 いるかは晶の言っていた、モデルって仕事も意外と体育会系だという意味がだんだんとわかってきていた。 丞にぐいぐい引っ張られるように、いるかの表情は ときにルノアールの描くように夢見がちに、 ときにボナールの窓辺に立つ女性が戸惑っているように、 ときにアングルのオダリスクのごとく誘うように、 さまざまに変わっていく。 コルセットのように背中を紐できつく締め上げた衣装は 肩をあらわにし、鎖骨のきれいな陰影を強調する。 同時に幾分子供っぽさの残るいるかの身体とあいまって、 少女らしさと清らかさもうまく演出する。 パニエを入れたたっぷりと長い裾はふわふわと足にまつわりつき、 よく伸びた素足をいっそうほっそりとながく見せる。 そしてどこか前世紀の下着のようなデザインから なまめかしさがほんの少し漂う… いるかは確かに背が低いのだが、 全体的に小さいせいかバランスがよく、 写真に納まるとそれほど小さく見えない。 ・・・no one on earth could feel like this・・・・ I'm thrown and overflown with bliss There must be an angel Playing with my heart I walk into an empty room And suddenly my heart goes boom It's an orchestra of angels And they're playing with my heart (Must be talking to an angel) No one on earth could feel like this I'm thrown and overflown with bliss There must be an angel Playing with my heart And when I think that I'm alone It seems there's more of us at home It's a multitude of angels And they're playing with my heart I must be hallucinating Watching angels celebrating Could this be reactivating All my senses dislocating This must be a strange deception By celestial intervention Leavin' me the recollection Of your heavenly connection テープはエンドレスになっている。 ココロがふわふわと浮かんでいく感じ・・・ 胸がどきどきして舞い上がっていく感じ・・・ 翼が生えて、空へと・・・ ・・・ダメだ・・・ こんな気持ちでは飛ぶことなんかできやしない・・・ 心の中に天使が住んでいるようにどきどきしても、決して届かない・・・ 追いかけても追いかけても、さらに高いところにいる丞・・・ レンズ越しにしか触れることができない・・・ こんなに近くにいて、こんなに遠いなんて・・・ もう、耐えられない・・・ 誰か、助けてよ、だれか・・・・・・・春海・・・ まっすぐにレンズを見つめるいるかの目から 一筋の涙がこぼれた。 塑像のように硬い表情から流れる涙がライトの光を反射して、まるで真珠のようだった。 「・・・おまえ・・・」 丞はカメラを置いているかに駆け寄ろうとした。 いるかはそれを手で制し、 「ごめんなさい・・・今日はもう帰っていい・・・?」 とかすかに震える小さな声できいた。 「・・ああ・・・いいよ・・・いま車を・・・」 「いい。・・・一人で帰る。」 目を合わせようとせず、いるかは帰っていこうとする。 追いかけようとした丞の腕を引き止めた手があった。。 速水だった。 丞は悲しそうな顔をして首を横に振る速水を振り切っていくことができなかった。 歩いているときも、電車に乗っているあいだも、涙は止まらなかった。 道を行く人が、電車に乗り合わせた人が 不審な顔をして見つめても、 いるかに目には何も映らなかった。 硬い表情のまま、しゃくりあげもせず、静かに ただただ涙だけがこぼれていた。 切なさもやるせなさも凍りついて、 何も考えられなかった。 気づくと、いるかは春海のマンションの前に来ていた。 ・・・あたし、なにやってんだろう・・・・ 春海にどんな顔をして会えばいいっていうの・・・ 春海に何を話そうっていうの・・・ 雨が降ってきた。 みぞれも混じりそうな、冷たい雨だった。 いるかは雨をよけようともせず、ずっとマンションの壁にもたれかかっていた。 雨は髪をぬらし、涙の止まらないいるかの熱い頬を伝って落ちる。 ツイードのコートはずぶぬれになって、指先の感覚もなくなってきた。 それでもいるかは立ち尽くしていた。 雨に打たれることが何かの罰ででもあるかのように。 |