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雨はまだ降り続いていた。 「・・・いるか?!何でこんなところに・・・何やってんだよ、ずぶぬれじゃないか・・・」 春海が傘をさして学校から帰ってきた。 いるかの柔らかい茶色の髪は濡れて頬に張りつき、雨を滴らせている。 親にはぐれた子供のように途方に暮れて、今にもその場に崩れてしまいそうに頼りなく、儚げでさえあった。 「・・・ゴメン・・・・」 いるかは血の気のない口の端で無理に笑おうする。 その様子はあまりに痛々しくて、春海は傘とかばんを落としているかに駆け寄って思い切り抱きしめた。 全身雨にぬれて冷え切っているいるかの、目元と頬だけが熱かった。 力なく身体をゆだねる彼女がいとおしくて、濡れるのもかまわず、息の詰まるほど抱きしめずにはいられなかった。 家に明かりはなく、徹も藍おばさんも留守のようだった。 春海は急いでバスタブにお湯をためて、洗いざらしのバスローブとパジャマを用意する。 雨の滴るコートを受け取り、あったまっておいでといるかをバスルームへ案内した。 いるかは指先や足先がしびれるのを感じながら、湯気を立てているバスタブに身を浸した。 凍りそうに冷えていた身体がすこしずつ熱を取り戻していく。 寒さと冷たさで硬くなっていたからだが徐々にほぐれていく。 「・・・は・る・・う・・・み・・・」 そっと声に出して一音一音をいとおしむように呟いてみた。 とたんにいるかの目からは涙があふれてきた。 けれどさっきまでの涙とは違う。 もっと体の奥から湧き出てくるような、もっと豊かな、そしてもっと熱い涙だった。 春海は、ずっとここに、自分の心の中に住んでいたのに、なぜ今まで気づかなかったのだろう。 目を閉じて名前を呼べば、ほら、こんな身近に感じるのに。 会えなくても、声を聞けなくても、どんなときも、そばにいたのに。 いったいあたしは何を不安に思っていたのだろう・・・ 春海はいつの間にかアランセーターとシャツに着替えて、リビングで本を読んでいた。 「・・・何か食べる?」 いるかは頭を振る。 「じゃ、何か飲む?」 いるかはまた頭を振る。 春海は微笑んで、「すこしは胃に入れたほうがいいだろうな」といいキッチンへ行く。 しばらくしているかは湯気の立ついい香りのミルクを渡された。 「これ飲んで」 いるかは実際胸がいっぱいで、食べ物はおろか飲み物もほしくはなかった。 受け取りはするもののなかなか飲もうとしない。 春海は自分で一口含むと有無を言わせずいるかの唇を捕らえて すこしずつ口移しに飲ませた。 触れるだけのようなキスとは違う。 触れ合った部分がとけあわさっていくような、不思議な感覚に襲われる。 柔らかな生地の下から伝わる小さな身体はもう冷えてはいなかったけれど、春海は肩を抱いて離そうとしなかった。 いるかはのどを少し鳴らして飲み込んだ。 人肌くらいに温まったミルクにほのかな甘さとお酒の香りを感じる。 「・・・おいしい・・・ラム酒も入れたの?」 「うん。蜂蜜もはいってる。・・・もう少し飲める?」 「・・・うん・・・・い、いいっ、自分でのむっ!」 いるかはあわてて春海の手からマグカップをとった。 春海はちょっとからかうように、ちょっと残念そうに、いるかを見つめる。 いるかは湯上りの血色のよさも手伝って赤くなっている。 上目遣いでちょっと怒ったようにちょっと困ったように春海を見つめる。 春海は自分の部屋に行ってガウンを取ってきて、それをいるかに着せる。 「・・・おいで。・・・まだ髪が濡れてる。」 ソファに座る春海の胸に背中を預けて、いるかは髪を拭いてもらっていた。 身体をすっぽりと春海に包まれているような心地よい錯覚にとらわれる。 春海の器用な指先が、いるかの髪を丁寧に梳いていく。 背中に春海の心臓が規則正しく打つ音を感じる。 「いるか・・・」 「・・・なぁに?」 「この前屋上で歌ってたろ・・・あれ、もう一度歌ってくれないか。」 「いいけど・・・あんな暗い歌でいいの?」 「暗い?」 「そりゃ・・そーじゃん。ヴィオレッタがアルフレードと別れてたった一人で死んでいくのねって・・・嘆いてる歌だもん。」 「・・・知ってたのか?」 「まぁ・・・あたしの子守唄だったから。歌詞の意味を知ったのは結構後だけどさ。」 「オペラが・・・子守唄?」 「・・・かーちゃんの趣味だよ。あの人は自分の好きなことしかしないから・・・ 自分の好きな歌があたしの子守唄だったってわけ。 だから・・こんな曲ならいくつも知ってるよ。 ・・・あたしが・・いまだに地声で歌うのが苦手なのって・・・このせいだと思う・・・ かーちゃんに仕込まれたせいで・・歌ってのは裏声で歌うものだと思ってたから 裏声でないと音程が・・つかみにくいんだ・・・ 小学校とかでさ・・・自分とみんなの歌い方があんまり違うんで びっくりしたんだよ・・・」 いるかはとぎれとぎれに、ゆっくりと話す。 彼女は普段あまり家のことを話さない。 特に母親のことは。 それは自分を気遣ってのことなのだろうと春海は思う。 知り合って何年にもなるのに、いるかのことはまだ知らないことだらけだという気がする。 「なるほどね・・・ほかにはどんなのを知ってるんだ?」 「椿姫ならたいてい・・・乾杯の歌とか。 トスカやトゥーランドットも結構歌ってたな・・・」 「英語にさえ不熱心なやつが、よくイタリア語の歌詞を覚えてるよなー」 「・・・これってイタリア語だったの?」 「・・・・・・・・おまえって・・・」 「・・・何よ?」 「・・・・すごいよ。」 春海は乾きかけのいるかの髪を思わずくしゃくしゃっとした。 「もう、春海ってば・・・で、何がいい?」 「乾杯の歌にしよう。俺がテノールのところ歌うから。」 「春海、歌えんの?」 「すこしならね・・・いい?」 「うん!」 libiamo libiamo ne’lieti calici・・・ 春海の声は深く落ち着いて、 (・・・快い旋律の中 この目が私に対して 全能の力を振るうから・・・) いるかの声は可憐に柔らかく、 (・・・消えやすいのが愛のよろこび 咲いてはしぼむ一輪の花・・・) 二人の声は高く低く響きあう。 (・・・笑いが夜を美しくする この楽園の中で われらに新しい日が明ける・・・) 自分たちの声の重なり合いに酔いながら、いるかも春海もお互いから目を離せない。 いつかのような観客はいなかったけれど、溶けあう二つの声にここしばらくの二人の溝はゆっくりと埋められていった・・・ 暖かな部屋と、ラム酒の入ったミルクのせいで、いるかはだんだん眠くなってきた。 春海の腕の中で小さなあくびをする。 「・・このまま寝ていいよ。」 「・・・ん・・・・」 頭を春海の肩に持たせかけ、背を胸に預けたまま、いるかは静かな寝息をたてはじめた。 その重みを嬉しく思いながら、春海はしばらくそのままの体勢でいた。 もうすっかり乾いた柔らかな髪の毛を指でやさしく梳いてみる。 大きすぎる春海のパジャマとガウンがいっそういるかの小柄なのを強調しているようで、おかしくもあり、なんだか嬉しくもあった。 「おやすみ・・・」 起こさないようにそっと耳元に囁く。 いるかの、どこか子どものような幸せそうな寝顔を見つめて、春海は思う。 いつまでも、この幸福な眠りを守ってやりたいと。 翌朝、夜が明け切る前にいるかは目を覚ました。 気がつくと春海のベッドにいて、どうやら寝ているあいだに春海が運んでくれたらしかった。 「・・・春海?」 部屋にはいない。 いるかはいすに掛けてあったガウンを羽織ってリビングのほうへ行ってみた。 春海はリビングのソファで眠っていた。 明かりも暖房もつけたままで、本を読んでいてそのまま寝てしまったらしかった。 「春海ってば・・・かぜひいちゃうよ・・・」 起こすのもためらわれて、いるかは自分の着ていたガウンをそっと春海の体に掛けた。 かすかな寝息が春海の口から漏れる。 「ありがとう・・・・ごめんね」 小さく口に出してみる。 春海にいわなきゃいけないことはたくさんある。 謝らなきゃいけないことも・・・ でも今は・・・ いるかはまだ眠っている春海にそっと口づけた。 ほとんど乾いていた制服に着替え、まだ湿っているコートは手に持って、 いるかは春海の家をあとにした。 徐々に明けてきている空が美しい。 月がかすみ、星が消え、東の空はけぶったような淡い色だった。 「冬の散歩道」・・・春海が好きだといつか言っていた、あの曲を思い出す。 コートなしで朝まだきを歩くのは、かなりきつい。 風が頬を突き刺すようだ。 だが、いるかは寒さを感じなかった。 「あたしは・・・・負けない。」 思わず口に出して言っていた。 勝ち負けじゃないのかもしれないけど・・・ 丞にも、この仕事にも、・・・自分自身にも、絶対に負けない。 絶対に・・・ いるかの掛けてくれたガウンを手に持って、春海は窓から外を見つめていた。 唇にはまだいるかの残したキスが残っているようだった。 駅へとひとり向かういるかの後姿はどこか毅然として、寒いだろうに薄着なのも気にはなったけれど、そのまま行かせることにした。 いるかの去っていくのを見送りながら、春海は先日速水が言っていたことを思い出していた。 「・・・いるかちゃんは必ずあなたのところに戻ってくるわ。 だから、かえってきたら彼女を責めないであげて。 いるかちゃんは悪くないの・・・仕方ないことなのよ。 西園寺銕之丞のようなカリスマっていうか・・・才能を持つ人間には しばしば起こることなの。 カメラマンとモデルのような一対一の関係ではプロ同士でもあることよ・・・ でも、それは決して恋愛じゃない。 強い憧れのようなものなの。 時がたてば治る病気のようなもの・・・ ・・・「カサブランカ」って映画見たことない? ある?・・・じゃ、わかるでしょ?・・・」 よかった・・・いるかがもとのように元気になってくれて・・・ 責めることも許すことも今の春海の頭の中にはなかった。 窓を開けると、冬の朝らしい鋭い風が吹き込んできた。 せめているかが歩いているだろうあいだくらい、自分もこの風の中にいたいと春海は思った。 |