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冬至も近い、眠たげな朝日がようやく昇り始めたころ、いるかは六段の家に帰ってきた。 凍てついた門を開け、そっと玄関のドアを押す。 居間の扉がわずかに開いて、細長い灯りか漏れていた。 「…いるか?」 「…かーちゃん?・・・とーちゃんも、起きてたの?」 「あたりまえじゃないのっ! どうして寝てなんかいられるもんですか! 心配で…心配で…」 「ごめん、電話もしないで…」 「電話はあったわよ。春海君から。 疲れているようだから今日はこのまま泊めますって。」 「そっか・・・」 「あんた、このところずっとヘンだったじゃない。 いつもの半分くらいしか食べないし、暗い顔ばっかりして・・・話しかけても上の空だし… ねぇ、紫星堂のお仕事、お断りしてもいいのよ。 なんと言ってもあんたはまだ高校生なんだし、私と鉄之介さんで謝りに行ってあげる。なんと言われても、おまえがこんな状態なのに、これ以上の無理はさせたくないわ。 あんまり気軽に考えすぎてたのかもしれないって、ずっと後悔して…」 「・・・かーちゃん・・・」 「だからね、おまえはもう何にも心配しなくていいのよ。」 「そうだよ、いるか。おまえはまたいつもの生活に戻ればいい。 今回のことは私たちに任せなさい。いいね。」 「とーちゃん・・・」 葵は泣いていたのだろうか、少し目が赤い。 「ありがとう…でも、もう大丈夫だから。」 「え…?」 「本当に、もう大丈夫なの。 それに撮影もあと一回くらいで、あとは休みにはいってCM撮りを残すだけだし。 一度引き受けたことだもん、最後までちゃんとやるよ。」 葵と鉄之介は互いの顔を見合わせている。 「本当だってば。もう心配しないで。」 二人を安心させるように微笑むいるかの表情に、葵は何かを感じる。 「いるか、あんた・・・」 「ん?」 「・・・ううん、なんでも・・・」 言いかけてやめる。 「・・・まだ学校行くまで時間あるよね。 あたしもう少し寝る。二人とも寝てね。 じゃ、おやすみなさい。」 「あの子は、なんだかずいぶん大人っぽくなったようだね・・・」 「そうね・・・」 「・・・なんだ、まだ心配なのか?」 「そうじゃないわ・・・ ・・・なかなか、できることじゃないわよね・・・」 「・・・何のことだ?」 「いえ、なんでも・・・私たちも、もう休みましょう。」 「そうだな。」 鉄之介は伸びをしながらあくびをして、主寝室へ向かっていった。 その背中を見つめて葵は思う。 ・・・頭はいい人なのにねぇ・・・娘がはじめて朝帰りしたってのに何にもわかってないのかしら・・・まぁ・・・なにもなかったみたいだけど・・・ いるかの鈍さは父譲りだったようである。 西園寺銕之丞はいつもどおり校門のそばでいるかを待っていた。 なんと声をかけようか、どんな顔で会えばいいのか、考えても考えても答えは出なかった。 「おまたせっ!」 いるかの元気な声が後ろからした。 驚いて振り返る。 「今日でカメラ撮影は最後でしょ? あたし、がんばるね!」 「う・・・うん・・・」 「いこ?」 「・・・ああ・・・」 昨日の泣き顔がウソのように、屈託なくいるかは微笑んでいる。 「昨日はごめんなさい。」 「え?」 「急に帰っちゃって・・・今日はその分もがんばるからね!」 西園寺はいるかの瞳の奥に昨日までなかった力を感じた。 「さすが西園寺さんですよねェ・・・」 メーキャップアーティストの一人が速水に話しかけてくる。 「え?」 「素人相手にあそこまで表情を引き出せるんですもの。 プロのモデルだって、なかなかこうはいきませんよ。 ライティングのセンスもすごいですし。 でも、あの子もなかなかいい感じですよね。 メイクしててもびっくりするくらい肌がきれいだし… 色物が映えるからメイクし甲斐のある顔なんですよねェ」 「・・・そうね・・・本当に。」 「もったいないなァ。 あれでもう少し身長があったらかなり幅も出てくるんでしょうにねェ。」 「そうね・・・ファッション系のモデルには向かないかもね。」 「今回のように一人のときはいいんでしょうけど、 ほかのモデルたちと並べると、どうしてもバランスが取れないですよねェ。」 「・・・あの子が活躍できるのは、そうね、もっと…違うジャンルでしょうね。」 「でも、これが終わったら正式に契約するんでしょう?」 「え?」 「え、って・・・速水さんとこの事務所専属にするんじゃないんですか?」 「・・・それはまだ・・・できたらいいとは思っているけど・・・」 「なんか、いつもの速水さんらしくないんですね。 いつもは、強引に頼み込んででも獲得してるじゃないですかァ。」 「そうなんだけど・・・今回はちょっとね、いろいろあって。」 メーキャップアーティストは、その「いろいろ」が聞きたいようだったが、速水は目線を撮影準備中のいるかたちのほうに向けてこれ以上話すつもりがないことを示した。 今日の撮影はプールを使うものだった。 ホテルのプールを借り切って、西園寺を中心に準備が進められていく。 次々とバケツに入ったローテローゼが届けられて スタッフはそれを惜しげもなくむしり、花びらを山のように作っていく。 大型の扇風機も何台か用意され、いままでで一番大掛かりな撮影だった。 今回西園寺は長い髪が体を被う聖アグネスをイメージしていた。 素肌のような色の水着を着はするが、いるかの地毛とあまり変わらない明るめの茶色の、腰丈よりさらに長いストレートのかつらが衣装のようなものだった。 ウェストあたりまで水に浸かったまま、ぬれた髪で体を隠すようにする。 もちろん水着との境界もわからないように注意深く髪をまつわりつかせる。 昨日のカットが少女性と大人のにおい、清らかさと性的なものを象徴するものであったとするならば、今回西園寺は聖女の侵しがたい美しさと罪の香りを表現しようとしていた。 目の力を強調するため、きつめのアイラインが引かれ、まぶたにはゴールドのシャドウがたっぷりと重ねられる。 もともと長いまつげはさらに長く黒々とカーブを描く。 唇はぬれたようなつややかさを出すだけで、色みは加えない。 目元の力強さとやや青ざめたような肌と唇の色に近寄りがたい雰囲気がかもし出されている。 いるか自身も、これが自分の顔だとはにわかに信じがたいほどだった。 数時間前まで自分が制服を着て授業を受けていたことが、まるでうそのように思える。 けれど鏡をじっと見つめて、丞のイメージする像に近づこうとする。 西園寺はこの撮影のために何曲か選んでいた。 バッハの「マタイ受難曲」の第一曲。 同じくバッハの「ロ短調ミサ曲」よりキリエ。 宗教曲ならではの荘厳さはもちろんだが、 人々の悲しみや弱さ、憎しみや恐れを昇華してほしいと望む狂信的なまでの祈りが、旋律に織り込まれていた。 聖なる者への畏れ、そして憧れが曲を貫いていた。 あらかじめいるかには聞かせてあり、イメージが湧くよう説明していた。 音楽に対するいるかの感性は鋭く、曲の中に入り込んでイメージを膨らませ表情を作ることができた。 その表情は西園寺のほしいと思う表情と同じか、時としてそれ以上だったりする。 「西園寺さん、準備OKです。」 アシスタントの一人が知らせに来る。 いるかを所定の位置に立たせ、ライティングを微調整する。 いるかの顔をじっと見つめ、メークの仕上がりを観察する。 ふといるかに歩みより、濡れた髪をほんの数本、口に軽くくわえさせる。 とたんに聖女が娼婦になったような、なまめかしさが加わる。 厳しい表情の、力のこもった射るようなまなざし。 妖しさのほんの少し薫る口元。 これだ、と西園寺は思った。 いるかの前にバラの花びらが集められ、扇風機で風を一気に送り、花びらをいるかに向けて飛ばす。 バラはむしって時間がたてば元気がなくなり、水に長いあいだ入れておけば表面は水を吸い色褪せてしまう。 失敗は許されなかった。 ファインダー越しに、いるかと西園寺が見つめ合う。 瞬きをしないいるかのまなざしに、圧倒されそうになる自分がわかる。 感情を読ませない、高みに立つものの顔だった。 「・・・風を!」 西園寺の言葉を待って、花びらがいっせいにいるかに向け宙を舞う。 続けざまに何枚も、連続写真をとるようにシャッターがきられる。 いるかははじめ先ほどの厳しい表情を、そして斜め下を向きややうつむき加減で目を閉じた。 花びらにも耐えかねる、といった風情で。 わざと? それとも思わず? あっけにとられているうちに花びらはすべて水面に落ち、撮影は終わっていた。 「…西園寺さん?」 「え?」 「あの・・次の指示を。」 「あ、ああ・・・じゃ予定通り。」 今度は胸のところにティネケ、白いバラの束を抱えさせる。 赤いバラの花びらはいるかの周りにの水面に集められ、どこか血を連想させる。 また、頭から水をざぶっとかぶり、濡れた髪からさらに水が滴るようにし、唇に一枚、花びらをくわえさせる。 口から花びらがこぼれてくる花の女神フローラと、海の泡から生まれたヴィーナスをイメージした構図だ。 準備に時間がかかったものの、撮影自体はあっという間に終わった。 「カメラの撮影は今日で終わりだよね。 CMのときって、丞は来るの?」 帰りの車の中で、いるかが訊いた。 「一応な。現場の指揮はCM撮りの監督がやるんだが、所々スナップのようにして撮ることになっている。」 「そっか。ね、現場に友達を呼んでもいいかなぁ。」 「友達って…この間のやつか?」 「うん。撮影は休みに入ってからだし、呼んでもいいかなって。」 「まあ…いいんじゃないか?」 「そう?よかったぁ。」 いるかは無邪気な笑顔を見せた。 (あの子には帰っていくところがあるんですから…) 速水の言っていた言葉が胸にこだまする。 ・・・おまえは、帰る場所を見つたのか――― 西園寺はラジオから流れてくるクリスマスソングのボリュームを少し上げて、不器用に悲しさを紛らわそうとした。 |