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「あ」 「あ・・・きみは、このあいだの・・・」 「ええ、彼女の友人です。」 春海はそういって撮影中のいるかの方を見遣った。 冬休み中ではあったが生徒会の仕事、部活と学校での用事を済ませて春海は目黒の聖アンセルモ教会に来ていた。 無機質なコンクリートの壁に穿たれたいくつもの窓。 コルビュジェを思わせる画一的なつくりではあるものの 教会らしい荘厳さも併せ持つ、カソリック教会だった。 撮影はここで最後のシーンを撮ることになっていた。 夕方には終わるからといるかは春海を呼んでいたのだった。 寒空の中肩を出した衣装を着けているのに寒さが気にならないらしい。 監督と何か熱心に話している。 「・・・いい顔してるだろ?」 「ええ・・そうですね。かなり・・・本気になってやっていますね。」 「あの目の輝き、いいんだよなぁ・・・こっちが要求することを何でも受け入れてやろうっていうガッツがあってさ・・・ 一緒に仕事しててすごい緊張感があって、よかったぜ。」 「彼女からそこまでやる気を引き出せたんですから、すごいですよ。」 「なんだ、いつもあんなじゃないのか?」 「まあ・・・やる気を出せばなんだってやるんですけどね。」 「ふーん・・・そうなのか・・・」 西園寺はポットからコーヒーをそそいで春海に手渡した。 いつの間にか二人は以前からの知り合いのように話をしていた。 写真を撮り始めたきっかけ、大学を卒業後、単身アメリカにわたったときのこと、お金もなくヨーロッパをさまように歩き、絵画や彫刻をひたすら見つめた日々。 倉鹿でのこと、学習院でのこと、いるかが家出したときのこと、進や巧巳にもあまり話さないようなことも。 「わからないな・・・・そんなに好きなくせに、何で手を出さないんだ?」 「・・・・・・・・わかるんですか。」 「わかったさ、写真を見たときに。 今回は処女でなきゃ撮れないと思ってたから。・・・・って何でみんなひくんだ?virginなんて単語、英語じゃ普通に使うぜ?」 「ここはキリスト教圏じゃありませんからね。誰だってびっくりしますよ。 ・・・その調子でお仕事なさってたんですか?」 「そりゃ・・・」 春海は最近読んだ西園寺の評判を覚えていた。 いささか芸術家肌で、きわどい言動でも有名・・・なんだか急におかしくなった。 「・・・あいつ、歌もうまくないか?」 「時々軽音部に頼まれて歌ってますよ。 本人はいまだに苦手だと思ってるみたいですけどね。」 「ふーん・・・度胸があって歌も歌えて運動センスもあって、しかもカメラ映りがいいのにこの世界に入らないなんてもったいないけどな。」 「まあ・・・そうなんでしょうけど、彼女はよっぽどの理由がないとあんまり真面目にならないところがあって・・・」 「面倒くさがりなのか?」 「・・・無欲なんですよ。」 「・・・はっは・・・そうも言うなぁ・・・ちょっと待ってろ。」 丞は自分の飲みさしのカップを春海に渡し、スタッフ用のワゴン車へ向かって何かを取ってきた。 彼が手にしていたのは、白く大きな箱だった。 「これは、今回の撮影で撮った写真のうち作品になると思ったものだ。 何点かは広告に使うんで紫星堂に回したが、なんていうか・・・ 売り物にしたくなくてね。 これ一冊で写真集にもなるだろうけど・・・誰にも見せたくないと思ったんだ。 ネガごといるかにあげようと思っていたんだが、君にやるよ。」 そういって西園寺は春海に大きな箱を渡した。 箱の中には一冊の大判のアルバムと、何本かのネガが入っていた。 春海はアルバムを広げて、ページを繰っていく。 確かに----西園寺は天才なのかもしれない。 写っているのはいるかであっているかでない。 写真家の手によって作られた塑像、強烈なメッセージを放つオブジェ、絵画のように読まれることを期待する、そんな作品だった。 けれどその中に織り込まれたメッセージは明らかにいるかから出ているもので、一人の少女の中にこんなにも多くの面が潜んでいたのかと観る者を驚かせずにはおかない。 ペルソナ、いくつもの仮面、そして涙。 春海にはすぐわかった。 この表情は、あの日の、雨の中自分を待っていたときの顔だった。 こんなふうにあいつはカメラの向こうを見ていたのか・・・ 春海は今まで何度か感じたことのある、胸の痛みを覚えた。 西園寺は横を向いてコーヒーを飲んでいる。 その視線は少し離れたいるかを追っている。 コーヒーを飲んでいるふりをして、気付かれないように見つめている。 やはり、この男も、か・・・・ 春海は確信する。 いるかが何かに打ち込んでいる姿はいつも誰かを魅了してきた。 進も、巧巳も、そして自分自身も。 一回り年が違っても、世界的な名声を手に入れていても、あいつはそんなことお構いなしにまっすぐ飛び込んでくるからな・・・ 何がこの男を思いとどまらせたのか、春海にはわかっている気がした。 年が違うとか、いるかが高校生だからとか、そういったことではない。 もちろん春海の存在があるからではない。 おそらく、いるかのどこまでもまっすぐな魂に触れるだけの資格が自分にはないとわかったからなのだろう。 真っ白な壁が目を射るように、時として純粋さは人を傷つけ、そばにいることを難しくさせる。 そしてそれは両刃の剣のように、いるか自信をも傷つけることがある。 今回が、そうだ・・・ あんなに傷つくまで、逃げることもできず一人で抱え込んで。 代わってやることも護ってやることもできず、慰めてやることしかできなかった。 きっと、あいつはそれでもまっすぐなまま生きていくんだろうと春海は思う。 傷つくことを恐れないこと----それはいるかの強みであり、そして弱さでもある。 自分を守ることをいつまでも覚えない、そんないるかを守ってやるのはいつまでも自分でありたいと春海は思う。 一番最後のページには、制服姿で頬を染め走るいるかの姿があった。 「・・・これだけでいいです。」 春海はその写真をはがしてかばんに納めた。 西園寺はゆっくりとうなずく。 それでいい、というように。 「この写真にタイトルをつけるなら、さしずめ『アタランタ』だな。」 「ええ・・・僕もそれがいいと思います。」 走っている彼女の姿は普段にもましてきれいだと思う。 特殊なメイクをしなくても、特別なライティングがなくても、 この一枚は何よりも現代の神話のようだった。 「大事にしろよ。何しろ西園寺銕之丞の作品なんだからな。」 西園寺はちょっと子供っぽく拗ねたように言った。 「わかっていますよ、もちろん。大事にします。」 春海が答える。 「大事にしろよ・・・あいつのことも。」 「そんなこと・・・あなたに言われるまでもありませんけどね。」 「ったく小生意気なヤツだな・・」丞はボソッと言う。 「そうですね。」春海はにっこりと微笑む。 「おまえ・・・名前は?」 「山本です。山本春海。」 「春海か・・・いい名だな。覚えておくよ。」 「光栄です。西園寺さん。」 「・・・丞でいいよ。」 横を向いたまま、春海にだけ聞こえるような声でつぶやいた。 「あっいた!」 「速水さん・・・先日はどうも。」 「ねえねえ、春海くん、お願いなんだけど・・・」 「・・・またですか?」 「そういわないで。私を助けると思って。ね? こんどもいるかちゃんの相手役なのよ。 いるかちゃんがね、いままでは順調に撮り進んできてるんだけど、ここにきて なかなかOKがでないのよ。 たぶん春海くんとならうまくいくんじゃないかなぁ。だから、ね? いるかちゃんも助けると思って。」 「いまですか?」 「ええ、すぐ。大丈夫よ、映っても手だけだから。お願い!」 「あ・・・」 返事をまたずに速水は春海を引きずっていった。 いるかは大きなベッドにうつぶせに横たわっていた。 シーツには白いバラの花びらが散り敷かれ、オーガンジーの白っぽく透ける布がカーテンのように周りを覆っている。 クッションを抱えるようにして、夢見心地といった横顔がクローズアップされる。 (・・・ったく、柄じゃないんだよね、こーいうのってさっ・・・ 言葉でいろいろ説明されたってわかんないよー・・・ 丞ってやっぱりすごかったんだなぁ・・・ イメージががんがん伝わってきたもんね。 あー・・・はやくOKでないかなぁ・・・ ただ走ってればいいのかと思ったら最後にこんな厄介なシーンがあったなんて・・・) 「はい、いるかちゃんもう一回ね。」 「ふぁーい・・・」 いるかの集中力もだんだん限界だった。 しかもこの体勢では寝ろといわんばかり。 柔らかなベッドにいい香りの花びら・・・ ・・・いるか?・・・おい・・・・寝てんのか?おきろよ・・・ どこからか春海の声が聞こえる・・・・ 遠く・・・・いや近く?すぐそば・・・・?! 「えっ・・・・」 目覚めてふと顔を上げると春海の手があった。 無意識に手をかさね、そのまま目線を上へと上げていくと、見慣れた端正な顔があった。 「春海・・・なんで?」 「はいオッケー!お疲れ様でした!」 モニターを見ていた監督が大きな声で言う。 「え?えぇ?終わり?」 「うんうん、なかなかよかったよーいるかちゃん。 やればできるんじゃない。とろーんとした表情がよかったねぇ。 ほんとお疲れさんでした。」 「は・・はぁ・・・」 まさか本当に寝ていたとはいえない。 春海は笑いをひた隠しに口元を押さえてそっとその場を離れた。 |