評論
「いるかちゃんヨロシク」を読む

iruka

◇◆ はじめに ◆◇

 「いるか ちゃんヨロシク」のファンサイトを立ち上げるにあたって、おそらく一番作りたかったコンテンツです。 いるかちゃんのファンの方にも、内容をまったく知らない方にもお読みいただける内容にしたいと思っております。いわゆるネタバレという、作品内容に深くか かわった文章になりますのでその点はご留意ください。

 このコンテンツはなるべくまじめに(^_^;)、文学として、テクストとして「いるかちゃんヨロシク」を読もうという試みです。浦川作品を全部読んでい るわけではありませんし、手元に置いてあるものは「いるかちゃんヨロシク」のみですから、論文にはならず評論程度のものになると思います。
 連載が終わり何年もたったいま、改めて「いるかちゃんヨロシク」とはどんな作品だったのか、じっくり考えてみました。「いるかちゃん」をとても好きなこ とは確かですが、あえて少し作品の外に立って眺めてみたいと思ったのです。一読者たる私個人の考えですので、もちろん賛成、反対、ご批判はあろうかと思い ます。
 水無瀬はできるだけ多くの方のさまざまなご意見・感想をお聞きしたいと思っておりますので、掲示板なりメールなりでお聞かせいただければ、とても嬉しく 思います。



◆  第一回 「客人(マレビト)文学」としての「いるかちゃんヨロシク」

◆  第 二回 倉鹿修学院と里見学習院

◆  第三回 最終回 列車というメタファー

©2003-2005 Iruka-chan ouenbu Minase
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第一回


「客人(マレビト)文学」としての「いるかちゃんヨロシク」


 「いるかちゃんヨロシク」倉鹿編の原型は客人文学の典型とも言うべき「竹取物語」にみることができると思う。

 その構造は以下のようなものである。
異分子であるいるか(=かぐや姫)が品行の悪さ(=罪の浄化)のために本人は望まないのに倉鹿(=異世界、この世)へとやってくる。そこでいるかは持ち前 の明るさややさしさ、また人並みはずれた体力と運動神経(=美貌)で倉鹿の人々を魅了し、春海や進には恋愛感情を起こさせる(=多くの求婚者)。けれども 時が来ると、両親は帰国し(=月からの迎え)いるかは東京(=月世界)へと帰っていく。
 このタイプの物語はファンタジーによく見られ、「行きて帰りし物 語」としてひとつの定番となっている。主人公が自分の属するところと違う世界に迷い込み、やがては帰って行く、そのような物語は古今東西を問わず枚挙に暇 がない。有名なと ころではアラビアンナイトで知られる「千夜一夜物語」の中のシンドバッドの冒険もそうであろうし、児童文学ながらその宗教的暗示の強いC・S・ルイスの 「ナルニア国物語」シリーズ、「いるかちゃんヨロシク」連載時に映画化されていたミヒャエル・エンデの「はてしない物語」などもあげられよう。けれ ど「いるかちゃんヨロシク」の原型を探したとき、「竹取物語」以上に似通った作品は見当たらない。

 転入生、という設定は少女漫画ではよくあるものだと思う。
異分子の混入、それはいつでもドラマの始まりを意味する。「いるかちゃんヨロシク」にはいるかのほかに二人の転校生がいる。伊勢杏子と山本まのかである。 この二人の転入もそれぞれに波瀾の幕開けであった。けれど伊勢杏子は転入とはいえ、戻ってきただけであり山本まのかは二ヶ月で帰っていくことがはじめから わかっている。いるかの場合、両親の帰国まで、と期限は決まっているもののその帰国がいつかわからない状態で、いわばいつか帰ってしまうかもしれないとい う漠然とした不安を抱えながら物語が進んでいく。いつかやってくるであろう別れ、けれどそれはまだまだ先のことだという楽観、けれどいつかは必ずやってく るという事実。このあたりも竹取物語にとても似通っていいる。先延ばしにされている別れというものはよりいっそう日々をいとおしくさせる。
 最後に別れが待っていると知っている読者はいっそう倉鹿での彼女らを切ない気持ちで眺めることとなる。「いるかちゃんヨロシク」はスポーツシーンが非常 に魅力的であり、ギャグもかなりちりばめられてそれだけでも十分の面白いのではあるが、最後に別れが待っている、期限付きの日々を登場人物たちが過ごして いる、という了解が物語の奥行きをいっそう深くしているのだ。
 竹取物語もそうであるが、主人公であるかぐや姫、あるいは如月いるかは帰らねばならないとわかったとき、それほど抵抗せず別れを受け入れる。これもまた 「客人」の「客人」たる所以であろう。彼女らにとって帰郷ははじめからわかっていたことであり、いまさら約束を違えることはできない。彼女らとて心は残し つつではあるが、曲げられない事実として修養としてその運命に従う。
 一方それを拒み、なかなか受け入れることのできないのは祖父である如月上野介、その他倉鹿の人々(=かぐや姫の親、帝など)である。彼らは、はいそうで すかといってすんなり送り出せるほど諦めが良くはない。それほどかれらにとっているかの存在は大きい。

 中学生にとっては東京と地方都市はこの世と月世界ほども離れているし、両親の帰国は月からの迎えに等しいほど強制的な力を持って彼女を引き戻す。まさに 竹取物語が踏んでいるとおりの道筋である。
 ただ竹取物語よりも切ないのはいるかと春海がさまざまな問題(=身分の違い)を乗り越えて心をすでに通わせているということ。月からの迎えに等しい東京 へ 向かう列車は無常に二人を引き離す。
 漫画という表現方法ではあっても「いるかちゃんヨロシク」はかなり古典的な物語の筋道をたどって作られてることがわかる。

 そして舞台となる倉鹿市は作者 浦 川まさるの住んでいた奈良県生駒市がモデルとも考えられるが、日本人なら誰しも思い浮かべるような懐かしい、歴史的な町並みである。倉鹿編の最終回で作者 は主人公に言わせている。「10年たっても20年たってもきっとわすれない 倉鹿の町のこと、みんなと過ごした日々のこと」と。ここでわざわざ倉鹿の町の こ と、と書くほどに、作者自身もこの町に愛着があったのであろう。
 
 倉鹿を去りがたかった主人公は故郷を離れがたかった作者の投影かもしれない。



第二回

倉鹿修学院と里見学習院


 倉鹿修学院という学校は、漫画ならではの、ユニークな学校である。

 お城のような校舎を持ついわゆるスポーツ名門校で、学業よりスポーツの成績のほうが重 視されるらしい。このいかにも非現実的な学校が、里見学習院という学校と対比されたとき、その現実性ははじめて浮き彫りにされていく。
 地方の一私立と、東京の名門校。いかにスポーツで全国大会に出場しようとも、やはり偏差値、進学率といったことは学校として無視できない重要な要素であ ると思う。修学院にはバラエティに富んだ生徒が集まっていたことから考えても、それほど偏差値的には高くなかったのだろうと推測される。だからこそ、学院 長如月 上野介自身の口から出る言葉は重い。
「彼(=春海)のような才気あふれた少年をこのままこんな田舎の学校に埋もれさせて良いのか」
自分が院長を務める学校のことを誇りに思っていないはずはない。彼の口から出るこの言葉の意味の大きさは、いるかにも十分すぎるほど伝わったようだ。

 一方里見学習院は文武両道を謳っても「文」のレベルがかなり高いのだろうということが伺われる。
いるかの家庭教師が「あの高校に入ろうと思ったらこんなもんじゃ通用しませんよ」というように、いるかは受験に当たって相当の努力を強いられたようであ る。
 一般的に言って、中高一貫の私立に高校から入るのは中学から入るより難しいとされる。里見学習院もまた、そのような高校のひとつと設定されているのだろ う。「新顔組」と呼ばれる高校からの入学者は真面目なガリ勉タイプが多い、といわれるのもそのあたりが原因のひとつと思われる。
 スポーツ名門校であった倉鹿修学院とは違い、生徒たちはどこか頭のよさそうな、育ちのよさそうな子達ばかりである。いるかのクラスメイトたちはいずれも 賢く真面目そうな、 大人しそうな子達であったし野球部の近衛道にしても然りである。だからこそ生徒会と学校側の癒着も長いあいだそのままにされてきたのだろう。この学校での い るかは倉鹿修学院転入時以上に異分子そのものだ。
 「新顔組」と「エスカレーター組」、こんな差別が平気でまかり通る体制にいるかは反抗心を大いに掻き立てられる。そして、反発する。生徒会がリコールさ れるまでの期間はほんの二ヶ月ほどであっただろうが、その間にいるかを襲った試練はこれでもか、といわんばかりである。
 修学院に転入した当初はいるかの敵は出雲谷銀子とその一派のみだった。しかもいるかには湊、博美をはじめクラスメートたちの支えもあった。春海はじめ鹿 鳴会も、敵ではなかった。しかし里見ではいるかはまさに孤立無援の状態である。
 サッカーの紅白試合、「新顔」というだけでいるかはチームに溶け込めない。ほとんどイジメのような状態である。しかしそんな状況を跳ね返すべく、いるか は戦う。その戦い方は、がむしゃらというか、むちゃくちゃというか、決してスマートなものではなかった。シュートを妨害した玉子に平手打ちを食らわせる。 喧嘩早いとはいえ、自分から手を出すことのなかったいるかが、である。おそらく、いるかの中には基準があって玉子の行動はそれを超えたのだ、と思う。「恥 を知れ」、なんと彼女らしい言葉ではないか。頭の中はきっとぐちゃぐちゃで、何を言ったらいいのかもわからないまま、彼女たちはほとんど乱闘に近いことを 繰り広げる。
  もっとスマートな決着のつけ方もあっただろう、と思う。もっといるかちゃんを活躍させて、玉子たちをギャフンといわせるやり方もあったろうと思う。けれど 作者はこのような書き方をした。それは理不尽な差別にたちむかう、いるかの苦しい戦いの幕開けだからではないだろうか。競技で勝つことが喧嘩に勝つこと だった銀子との戦いとは明らかに違う。ここではいるかの人間的な資質で戦っていかねばならないのである。だからあえて、紅白試合もいるかの勝利では終わら せなかったのだろうと思う。そして正面きって向き合ったからこそ、玉子はいるかの理解者になった。ただ単に負かしただけではそうはならなかっただろう。お そらくいつまでも反発し合ったままだったことだと思う。
 出雲谷銀子と争った陸上は個人競技であり、犬養玉子らと争ったのはサッカーというチームプレイである。個人対個人から個人対大勢へ。いるかの戦う相手は 修学院時代に比べて大きく、なり、越えねばならないハードルは高くなっている。痛快さを求めて読み進んでいくとここでいったんあれっと思ってしまうだろ う。物語の進み具合が読者の希望をどんどん裏切っていくのである。
 春海との微妙な距離感も感じる中、次にいるかを襲うのはかつての野球部員であり今は留年して問題児となっている東条巧巳とのうわさである。これは読んで いても非常につらかった。およそ高校一年生の女の子が体 験することの中では最悪の部類に入りそうなことである。ここまでやるか、とさえ思ってしまう。普通なら登校拒否にでもなっておかしくない。こういううわさ を平気で流してしまうあたりが里見学習院の生徒たちの閉塞した雰囲気の象徴かもしれない。自分たちが押さえつけられている分、どこかにスケープゴートを見 つけたいのだろうか。いるかはうわさという姿の見えない敵と戦わねばならない。しかもうわさには戦っても勝てない。一方的に傷つけられるだけであ る。彼女を救うのは春海の手紙と、実は理事長であった松之助、そして玉子である。
クラスメートである一子や桂はあまり頼りにならない。知り合って間もないのだから無理もないかもしれないが、彼女たちにはいるかは救われなかった。スポー ツ万能であるがゆえに、いままで体力で問題を乗り越えてきたいるかがここでは精神的に試される。
 信じること、信じてもらえること。
信じていたものに裏切られることのつらさより、信じるべきだったものを信じられなかったときのほうがつらいといった里見松之助の言葉の重み。これは作者か らのメッセージだと思う。孤立無援に思われた中で、一番信じてほしかった人に信じてもらえた、それだけでいるかは立ち上がることができたのだと思う。玉子 の助けは紅白試合からひかれていた伏線の成就とも捉えることができる。いるかなりのやり方で人とぶつかっていけば、徐々にではあるものの味方ができてくる のである。春海にしてみれば、信じることは難しかったかもしれない。やきもち焼きの彼のこと、平静でいられなかったのは疑い得ない。だからこそ、彼は手紙 に思いを託したのだろうと思う。言葉にすることと紙に書くことの決定的な違いはあとに残るかどうかということである。そして書くことによって自分自身を信 じさせることもできる。話の状況下では直接会って話すのが難しいから、とのことではあったが文字にすることは春海にとって別の意味もあったのではないかと 思われる。おそらく、登校して、かしましい女子生徒からででも聞いたのだろう。ショックは隠せなかった。けれど、すぐに彼の心は決まった。彼にできること は信じること以外何があっただろうか?できないことは何もないような彼であっても、うわさには勝てない。彼もまた、人間的な資質をここで問われたのであ る。



第三回

最終回 列車というメタファー


 都合4回ある「いるかちゃんヨロシク」の最終回だが、倉鹿編はひとつにまとめても問題ないと思われる。物語の内容からいってもそのほうが骨子がつかみや すい。倉鹿編の最終回、ハイスクール編の最終回、そして「いるかちゃんヨロシク」の事実上最後を締めくくる「火の玉ガールの巻」である。これは別冊の付録 だったもので全部で100ページあるものであるから、最終回と区切ることは難しいもののシリーズ全体を締めくくる最終話として重要な役割を持っている。
 リュミエール兄弟の最初の作品が「列車の到着」であったことからもわかるように、列車というのは出会いと別れを運ぶメタファーとして最も有効なもののひ とつである。この、映画の世界で古典とされる隠喩を、浦川まさるは「いるかちゃんヨロシク」で効果的に使っている。
 いるかと春海の最初の出会いは小学二年生のときだった。お互いに名前も知らないまま別れることとなるが、熱にうなされているいるかが気付いたときは母に 抱かれて列車の中であったし、武士道水練大会に出ていた春海は列車の通り過ぎる音を聞いて少し寂しげな表情を見せる。
 
 倉鹿編の最終回は「いるかちゃんヨロシク」全編を通じて最も完成度の高い場面展開であるが、ここでも印象的に使われているのが列車である。あわや出発、 と いうときになって、春海は勘付いて駅へと走る。しかし二人の視線があったとき、列車の扉は閉まり動き始める・・・。
 ここからのコマ割りはまるで映画のよう である。いまだ二人が来ると信じて疑わない友人たち、かつて子供だった春海が見たと同じ鹿々川に架かる鉄橋の音。その音がいるかを東京へ連れて行く列車の 音だとは誰も気付かない。ホームに立ち尽くして涙する春海、次第に遠くなっていく列車の音、列車の窓辺で涙を流すいるか、そして彼女の中を去来する倉鹿の 友人たち、そして倉鹿の町。読者に別れの挨拶をするかのように笑顔で手を振るいるかと春海たち。列車の音をバックに、物語は静かに幕を閉じる。
 ここ一番という別れのシーンで列車を使ったことの効果は大きい。車なら、止まる ことができる。飛行機なら、無理やり引き離されるという演出はしにくい。バスでは行き先が遠くないようで雰囲気が出ない。やはり、列車しかないのである。 定刻になれば発車し、止まることのない、それでいて窓から二人が触れ合うほんのわずかな時間が持てる、列車しかないのである。

 そして「いるかちゃんヨロシク」そのものの終わりもまた、列車のシーンである。新潟から東京へ向かう夜行という設定だが、今度はいるかは一人ではなく、 春 海と二人である。そして列車に乗る少し前、春海の最後のせりふは倉鹿編の「好きだよ」からひとつ階段を上って「愛してるよ」になっている。別れのメタ ファーとして使われてきた列車は、ここではじめて旅立ちのメタファーに変わるのである。一人の少女が一人の少年と出会い、恋をし愛し合うようになって、や がて来るであろう二人の結婚も予感させながら、長かった物語はここで幕を閉じる。列車は二人を乗せて東京へ、けれどいるかは倉鹿の夢を見る。倉鹿の仲間た ち、そして「春海が待ってんぜ」の進の言葉。これはとても象徴的だ。二人は倉鹿で出会い、倉鹿で恋をし、そして本来なら終わりになるはずの物語を終わりに させず(これは読者からの強い要望があったためと思われる)さらにもう一回り大きな物語を作って再び幕を閉じた。かつての春海のライバルであった進はもは や二人の間に入ることはない。むしろ二人の橋渡しをする役目をあのせりふによって与えられている。異分子として倉鹿にやってきたいるかが、一度は自分の世 界(東京)に引き戻されるも、努力のかいあって再び春海とともに生きるようになる。現代のかぐや姫はなかなかたくましいのである。結末としてはこれ以上望 むべくもない。もちろん読者としてはその後の二人のことが大いに気になるところであろうが、物語の形としてはうまく同心円を描いた終わり方になっている。 見合い騒動で始まった家出をどう決着をつけるのかなど、気になる要素を多々残しつつもそれを列車の中で寄り添って眠る二人に託すことにして、列車は東京 へ、そして二人の心は倉鹿へと、帰って行くのである。


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