Erick SATIE “Je te veux”
6分05秒

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ナミモヨウ コイモヨウ






―――帰りたくない

って言ったら、春海はどうする?

―――何言ってんだよ、もう遅いぞ。

―――じゃ、泊まってく?

どっちも言いそうだね。




帰っても、またあしたの朝会える。
駅で待ち合わせて
遅れてきた私を嗜めるように軽く睨んで。
お昼にも、また会えるよね。
生徒会室で。
放課後もまた会えるかもしれない。
サッカー部の練習の後、大して用事がなくても生徒会室によって帰るのが日課。
ひょっとしたら春海に会えるかもしれないから。
―――って、野球部の練習が終わるころを見計らって行くんだけどね。
そこで会えなかったら図書館に行ってみる。
春海がいるのはたいてい人文のコーナー。
一番高い棚にも簡単に手が届くんだなぁってこの前発見した。
あたしは脚立に乗らないととてもじゃないけど届かないのに。
本の扉の裏に書かれた名前。
貸し出し名簿の長い列の最後にあるお目当てのきれいな文字。
―――山本春海。
いつ気付いてくれる?
そのすぐ後ろに書かれた如月いるか、の文字に。






目の前には湯気のたつ紅茶。
白いカップはあたしがあげたもの。
水色(すいしょく)もきれいに見えるでしょう?
何客買おうか、迷ったんだよ。
一客では味気ないし、二客であたしと春海の、って言うのも気恥ずかしかった。
徹くんと春海の、ってことにしたら藍おばさんの分が足りないじゃない?
でも三客ではあたしがきたときの分が足りない。
それに四客って、あまりイイ数じゃないよね。
で、結局五客。
白一色だけど波打つ模様が繊細で、春海の器用そうな指にあうって思ったの。
―――とは言えなかったけど。
ホントはもっとそばにいたいんだ。
往き帰りとお昼休みだけじゃぜんぜん足りないよ。
学校にいてもいつだって春海を探してる自分が恥ずかしいくらい。
倉鹿にいたときみたく毎日のようにおうちに行けるわけじゃないし。
だからね。
お茶を飲むときくらいあたしのことを思い出してほしくって。
こんなこと、面と向かっては言えないけどさ。

このごろは紅茶くらいちゃんといれられるようになったんだよ。
まだ、春海には教えてないけどね。
そのうちびっくりさせてあげるんだから、待っててよ。
危なっかしい、なんていつまでも言わせておかないんだからね。
あたしだっていつまでも何にもできない子供じゃない。
名前の違いだってわかるんだから。
春海がすきなのは、ダージリンだよね。
お茶を飲みにいくと、たいていそれを頼んでるもん。
でも、ミルクをたっぷり入れたアッサムもすきでしょ?
寒い日の学校帰りなんかは
あたしの頼んだミルクティーもおいしそうに飲むもんね。
わかってるんだから。


―――帰りたくない。


向かい合って勉強するのなんて、別に珍しいことじゃない。
家に誰もいないのも、別に初めてじゃない。
徹くんは修学旅行。
藍おばさんは倉鹿に帰っている。
それに―――
今日のお昼にさり気なく言ったよね?
ウチの両親、あさってまで留守にしてるって。

いつもは10分ごとに疲れた、おなかすいた、って春海を困らせるけど
今日は我慢するんだ。
実はさっきからほとんど進んでないけど
一応勉強に集中している・・・ふりだけは。
時々あたしをちらりと盗み見る春海の視線を感じる。
そりゃ、あたしがこんなに真面目にやってるのは珍しいでしょうけど
そんなに不思議そうな顔することないじゃない。
でも、あたしに声をかけたりしないですぐ自分の勉強に戻る。
春海のペンはあまり長いこと止まることがない。
答えを考える時間のほうがうんと長いあたしとは大違い。


最後に言葉を交わしてから、どれくらい経ったかな?
もう、だいぶ遅いよね。
普段ならとっくに帰ってるころだと思う。
でも、春海は何も言わない。
あたしも、何も言わない。
こんなに遅くまでお邪魔してたことってないかもしれないな。
今何時だろう・・・?
腕時計は勉強の邪魔だからはずしてある。
この位置からは掛時計も見えない。


―――帰りたくない。


あたしが帰った後、春海はどうしているの?
お風呂にはいって、パジャマに着替えて、ニュース番組なんか見ちゃって、寝るの?
こんなに長いこと一緒にいても見たことのない、おうちにいるときの夜の春海。
知りたいっていったら、笑う?
お風呂上りの、濡れた髪に触ってみたい。
起きたばかりで眠そうな春海の横顔がみたい。
・・・ダメかな。
もっと知りたいんだ、春海のこと。
知らないことがたくさんたくさんある気がして。










―――帰したくないって言ったら、お前はどんな顔をする?

嘘がつけないおまえのことだから、
真っ赤になって口篭るか、なんで?って聞き返すか。

どっちもありそうだな。


うちに寄って帰ることは倉鹿にいたころほど頻繁じゃなくなった。
それでも試験前や小テスト前になると
「ね、教えてほしいところがあるの。」
と上目遣いで聞いてくる。
「いいよ、うち来れば。」
そう答えるとぱっと明るくなるその顔が可愛くて
どんなに疲れていても彼女の頼みを断れない。

うちに帰ればたいてい徹がいる。
いるかの声に気付いて玄関まで走ってくる。
―――あいつ、おれにはそんなことをしないくせに。

ティーカップからは湯気が立ちのぼる。
かすかな香りはマスカテル・フレーバー。
真っ白なカップが淡いダージリンの水色を映し出す。

―――これ、あげる。

唐突に贈られた五客のティーカップ。
白地に波模様が全体に施されている。
滑らかな質感を味わうように手のひらで弄んでみたときのいるかの表情。
―――気に入った?
少し不安げに覗き込んだ瞳は小さなたくらみを隠しているようだった。
―――うん、いいものだな・・・ありがとう。・・・でも何で?
それには応えず、照れたように笑っていたっけ。

以来、紅茶を飲むたび、あいつのことを思い出す。
飾られたままのカップを見ては
次に来てくれるのはいつだろうと思いをめぐらす。

今日はどうしたんだろう。
いつもなら勉強を始めてもすぐおなかがすいただの疲れたのって言い出すヤツなのに。
集中力の続かないいるかに手を焼くのが当たり前なだけに
妙な気分になる。
教科書もちゃんと開いて、たまにはペンも動いているから
寝ているわけでもないし。
一体どうしたんだ。
とは言えここで勉強の邪魔をしてはいけない。
せっかく興がのっているのならそのまま続けさせなくては。

あ。

もう結構遅いな。
そろそろ10時過ぎなんじゃないか。
そういえば、しばらく両親が留守にするって言ってたっけ。
それで今日はのんびりしているのか。
いや、別に門限とか、ないよな。
放任主義っていうか、あんまりうるさくないようだから。


―――帰したくないな。


もう遅いし、明日は休みだから泊まっていかないか?―――って言えるわけないか。
こいつは言葉通りに受け取るからな。
いや、いくらなんでもそろそろ自覚ができてるかもしれない―――か?

あ、困った顔してる。
そろそろわからないところが出てきたのか。
ん?わかったらしいな。
ペンがまた動き出した。
お前の表情ってほんっと見飽きないよ。


カップは二つとももう空だった。











「うわっ、さっむーいっ!!!」

マンションの玄関を開けたらとたんに冷気がおそってきた。
思わず、すぐ脇にいた春海の胸に飛び込む。

「・・・風が結構出てきたな。お前、コートとか着てこなかったのか?」
「うん。昼間はあったかかったんだもん。」
「帰りが遅くなるってわかってんのに、・・ったくしょーがねーなぁ・・・
おれのじゃおおきすぎるだろうから、徹のをなんか着てくか。」
「うーん・・・ねぇ、春海・・・あ、のさ・・・」
「ん?」
春海の胸の中でそっとつぶやいてみる。
「今日・・・とまってっちゃダメ?」
「・・・いいよ。」

とたんにいるかは顔を輝かせて胸から飛び出す。

「ホント?やったぁ!お泊りだっ!」
「・・・・・・・・・」





「あ、春海あがったの?」
「ああ。」
「ね、ちょっとこっちに来て。」
「ん?」
「ここ座って。」

ソファに差し向かいに座る。
手を伸ばせばすぐ届く距離。
すっといるかの腕が伸びて前髪を半分ほどかきあげた。

「懐かしいな。トニーの髪形、好きだったんだよ、あたし。」
まだ濡れている髪をゆっくり梳く。

「お前、少し髪伸びた?」
「うん・・・え?」
「おれも、マリアの髪形好きだったよ。」
両腕で頭を挟むようにして指先に髪を絡める。
ふわふわとあごの周りを飾っていた髪を持ち上げると、いるかはすこし大人びて見えた。

「Te adoro Anton・・・」
「・・・え?」
「そんなせりふがあったよね・・・。意味は忘れちゃったけど。」
「おれは覚えてるよ。」
「そうなの?さっすがだなぁ・・・なんてイミ?」
「あなたを愛しています、アントンってこと。」
「・・・そっ・・そっか。そーだった・・よね。」
「・・・なに照れてんだ?」
「照れてなんかいないってばっ!ただ、ちょっと・・・」
「何だよ。」
「い・・いろいろ思い出しただけ!あ、あたし、もう寝るね。おやすみ!」
「・・・待てよ。」
「春海?」
「どこで寝るつもり?」
「どこって・・・」









「おはよ、春海」
「・・・ん・・・」
「もう朝だよ、起きて。」
トレイに載せられたティーカップからふんわりと紅茶の香りが漂っている。
「・・・よく寝れた?」
「うん!ぐっすり!」
「・・・そっか・・・」

不意に彼女の顔が近付いて
頬に軽くついばむような感触を覚えた。
「ね、お茶冷めないうちに飲もうよ。」

―――不意打ちか。
可愛いことをしてくれるな、お前は。

「・・・ってこれお前がいれたのか?」
「うん!」
「・・・うまい・・・」
「・・・ホント?」
「あぁ。なんか、すごくうれしいよ。ありがとう。」
「・・・これがやりたかったんだ。」
「え?」
「だから・・・朝起きてすぐのお茶を一緒に飲みたかった・・・っていうか・・・」
締め切ったカーテンからもれる薄明かりのなかでも
いるかが頬を染めているのがわかる。

―――ったくおまえは・・・

波模様のカップをサイドテーブルにおいて
春海はそっと彼女を抱き寄せる。
ぶかぶかのパジャマの中で小さな身体は少し冷えていた。
―――徹のパジャマのほうがサイズは合ったんだろうけど
おれのを貸して正解だったな。


起きたばかりの春海の身体は温かい。
柔らかなパジャマごしに伝わるぬくもりが心地よくてまた眠くなってしまう。

「・・・いるか?」

―――起こしに来て寝るやつがあるかよ

ほんとに気持ちよさそうにねるんだなぁ、おまえは・・・

柔らかな頬に指を滑らせてみた。
眠っていてもくすぐったいのか軽く身をよじる。
毛布を肩までかけてやった。

その寝顔を見ていた春海もなんだか眠くなってくる。

昨夜あんまり熟睡してないせいか・・・
―――お前のせいだぞ、わかってんのか?

髪を梳いて、あどけない額を出す。
生え際の産毛をそっとなでる。
細く柔らかな眉をなぞる。
ふっくらとした唇に親指をあてる。

―――昨夜はもらいそこねたけど、おやすみのキスは勝手にもらうぞ。

波模様のカップが二客、春海のベッド脇のテーブルに仲良く並んでいた。


(終わり)


★ANOTHER SECRET OUENBU★