みじんこさま作
探偵ごっこ
前編
1
昏い夕陽に染まった里見学習院。日没までには、未だ時間があるにもかかわらず、視力を支える光の絶対量そのものは、かなり少なくなってきていた。本格的な冬の訪れが、頬に吹き付ける風の冷たさからよくわかる。
重厚な造りの校門には、高く張り巡らされた塀。所々に覆いかぶさるような茂った木々。
「寒いね。急に日がくれるのが早くなったね」
如月いるかは、小さく身震いをした。並んで歩く山本春海も軽く頷く。
「お腹、すいたよぉ」
「……」
互いの部活が終るまで待っていたため、通常より、下校時間は少々遅かったが、未だ帰宅する生徒もまばらであるがいた。
突如、目の前に、僅かだが閃光が走った。カメラのシャッターが切られたのだ。黒い服を着た男が里見学習院の校門を写していた。
「へっ?」
決して、春海やいるかを写しているのではないことは、カメラの構えからすぐに判った。春海は,一瞬、眉をひそめたが,すぐさま、カメラを切る男に、つかつかと歩み寄った。いるかは校門前で、じっと二人のやり取りを見つめていた。
カメラを手にしている男の身なりは、良いとは云えなかった。年齢も二十代後半だろうか。春海が毅然とした態度で、男に問い掛けている。やがて、男は舌打ちすると傍に止めてあった車に乗り込み、校門の前から走り去った。車に乗り込む時、男は目尻に皺を寄せながら、初めているかを見つめた。どこか陰湿そうで、覗き趣味を剥き出しにしたような表情であった。
「…帰ったか」
春海は、やれやれと云った面持ちで、校門の前で立ちつくすいるかに、声をかけた。
「何なの、あの人。うちの校舎を写していたみたいなんだけど」
いるかは、先程の嫌悪感が残っているのか、腕をさすりながら訊く。
「どこかのカメラマンらしいんだが、撮影の許可は学校側には取っていないらしいから、追い返すのは簡単だったんだけど…」
「何か目的あるのかな、なんか気持ち悪いよね」
名門校である里見学習院が、撮影の対象にあることはよくあるが、今回は正規の撮影許可を取っていない。そのことが何か不審感を二人に抱かせた。
「なんか、あの人の目が、気持ち悪くて…嫌らしいっていうか、舐めるような視線って、ああいうのをいうのかな」
いるかがぼそりというと、
「舐めるような視線って…」
ぎょっとしたような面持ちで、春海はいるかの顔を見つめた。いるかの語彙力からは想像もつかない言葉であったからだ。しかし、『舐めるような視線』とは穏やかではない。
「もう少し、厳しく注意しておくべきだったかもな。でも…」
「でも…」
「でも、なに」
「おまえの口から、そんな言葉が出てくるのは、意外だった」
「売春!」
その言葉を聞いて、いるかは袋を開けたばかりのカレーパンを思わず、落としそうになった。
「いるかちゃん、声が大きいよ」
慌てて、いるかの口を押さえたクラスメートの桂であった。一子も自分の口に人差し指を当てる。
「うん、ごめん」
一時間目とニ時間目の授業の休み時間。クラスメートの私語が飛びかう環境であったのが幸いであった。いるかの頓狂な声は、さほど響かなかったのだ。
「でも、みんな、すごい噂してるのよ」
「そう、里見の名前は出てないけど、どう見てもうちの校舎だし。もう信じられないよ」
桂は、そう云いながら、登校途中で買ったという週刊誌を机の上に置いた。一子といるかも覗き込む。内容は、女子高生の恋愛事情をテーマに売春にスポットが当てられた三流記事であった。そして、里見学習院の校舎が映し出されていた。
「これじゃあ、まるで、うちの学校の子が売春しているみたいじゃない…」
と、いるかが呟いたとき、突如、思い出した。
数日前の出来事。
春海と校門を出たときに、出会った不審なカメラマンの存在。校舎を許可なく写していた事。そして嫌らしいような視線。
「…あいつだ」
「なに、いるかちゃん、何か知っているの」
いるかの呟きに、一子とケイが、いるかの顔を見つめ、身を乗り出した。いるかは数日前の出来事をニ人に語った。
「そうか、山本君が、追い返してくれたんだ」
一子と桂は感心しながら、そう云ったが、すぐにまた、真剣な表情に戻った。
「噂がすごいのよ。売春している子の名前まで 学校中に広がっているのよ」
「噂」とは、いいかげんな事が多く、本人の知らないところで勝手に大きくなる場合が多い。しかも、尾ひれがつく場合も多い。そのことはいるか自身がよく知っている。先日も父親が持ってきた見合いが嫌で「家出」をした。春海が、後を追い、自分を探すために数日間、学校を休んだのだ。それだけで「駆け落ち」になってしまった。
いるかは「噂」は、いいかげんなものだと思っていた。
「でも、火のない所に煙は立たないっていうしね」
そんないるかの心中などお構いなしに、一子と桂は小声で話し合う。
「隣のクラスの島崎さんよ。いるかちゃんは、こんな話は興味ないだろうけれど、かなり云われているんだよ」
「そう、ニ組の島崎さん、山本君と同じクラスの子」
「一応、役員は全員、そろったな」
里見学習院の生徒会は臨時で集会が開かれた。議題は、今回の売春騒動をどう収集するかである。本来は、「噂」話などに関してはノータッチの生徒会だが里見学習院の写真が無断で載せられている以上、無視するわけにもいかなかったのだ。
生徒会室は背の高い書棚が並び、大きな窓がある通常の教室程度の大きさであった。
生徒会長の春海は、珍しく遅刻せずに、役員会に出席しているいるかを、ちらりと見た。その時、生徒会室の扉が軽く叩かれた。
「会議中だぞ」
巧巳が呟いた。会議中は原則的に、役員以外入室禁止であった。
しかし、次の瞬間、扉が大きく開かれた。
「松之助じーさん!」
いるかが席から立ち上り、大声で、理事長の愛称を叫んだ。しかし、すぐに慌てて「理事長先生」と呼び直した。
「驚いたぁ。初めてじゃないの、こんなところに来て」
普段は校務員として校内で働いているのだが、生徒会室に来たのは初めであった。しかし、春海は一人落ち着いた様子で、
「今回の騒動の件ですね」
最初から分かっていた様子で、理事長を招き入れた。理事長はいつもの作業着姿で、あったが、やはり上に立つもの特有の威厳があった。
「実は、今日は、依頼したいことがあって来たんじゃよ。知ってのとおり、あたかも、里見の生徒が売春しているかのような記事が公に出てしまった。寸前でなんとか、マスコミ側に里見の名前を出さないようにと、写真の件と一緒に止めたのだが校内の風景写真が数枚出てしまった.」
しん、と、一瞬、静まり返った生徒会室。そして、松之助は大きくため息をつく。
「見る人が見たら、里見の校舎だって、充分にわかるしな」
巧巳が云う。
しかも、内容は、中年男性と寄りそう女生徒の後ろ写真。里見学習院の制服であるのは一目瞭然。ただ、それが「真実」であるかどうかは不明である。
「出版社側には、事実無根ならば里見の名誉毀損の上、それなりのことをしてもらうつもりだが、…むこうは、具体的な女生徒の名前まで把握してるらしい」
「それって…ニ組の子じゃないの」
玉子が、ぼそりと呟く。やはり知っていた。
「で、具体的には、我々としては、どうすれば良いのでしょうか」
春海は、まるで聞こえなかったかのように、松之助に慎重に問い掛ける。
「うむ、事実確認がしたいので、女生徒に尋ねてほしい」
春海の眉がぴくりと一瞬、動いた。
「それは、学校側から、尋ねたら良いのではないでしょうか」
「最終的には、そうするつもりだが、あまり、学校側が『呼び出して』訊くと、更に『噂』がエスカレートする可能性もある。最初は、君達にお願いしたい…」
春海の逡巡する様子が、生徒会室に漂った。当然である。あまりにも、異例な依頼の上に、本来、生徒会でやる趣旨の仕事かどうか考えているのだ。
「申し訳ないのですが…」
少し厳しさを帯びた目で、春海が口を開いた時、
「わかった。引き受けるよ。他ならぬ松之助じーさんの頼みだものね」
いるかが突如、松之助のの言葉を遮り、勝手に了承してしまった。
「おい、ちょっと」
冷静沈着な生徒会長とは思えない驚愕の声が響いた。
「なに」
「勝手に、承諾するなよ」
「いいじゃん。困っているんだから。助け合わないと」
「勝手に決めるな」
「いるかちゃん、ありがとう。助かるよ」
松之助が、そう云いながらほほ笑んだ。
春海の端正な顔は歪んでいた。巧巳、玉子を含め、他の生徒会役員も皆、深いため息をついた。
2
「調査開始だよね。春海」
いるかは、放課後の生徒会室に入るなり、そう春海に云った。一足先に来ていた春海は、腕を組んで椅子に座っていたが、いるかの顔を見ると、
「まるで、探偵ごっこじゃないか。こんなの生徒会の仕事で初めてだ」
春海は大きなため息をついた。なぜ、もっと、毅然と断らなかったのだろうかという後悔が押し寄せてきた。
巧巳は、春海の傍に近寄ると、
「仕事、増やすなよな」
「仕方がないだろう。もう、引き受けてしまったんだから。それに理事長の云う通り、先に俺達から訊くのもいいかもしれないし…」
やれやれと、云うかのように巧巳は肩をすくめた。春海も、本来なら、生徒会長して断るつもりだったに違いない。しかし、いるかが勝手に引き受けてしまい、今回の事態になったのだ。もう、あきらめの心境である。とにかく春海はいるかに甘すぎるのだ。これでは、生徒会長と副会長の立場がまるで逆ではないか。
「でも、実際に、一年ニ組の島崎由香が売春しているというのは、女子の間で有名なんだよ」
玉子が、いきなり椅子に座ったまま、口を開いた。
「里見で売春とはねぇ」
さすがの巧巳も、顔を引きつらせている。春海に至っては、この言葉には絶句状態であった。男子生徒の間では「噂」は流れていなかったらしい。
中年男性と肩を寄せ合う女子高生。後ろ姿からのアングルだが、間違いなく、里見学習院の制服をまとっている。そして、里見学習院の校舎風景、「売春」という大きな文字が週刊誌の見開きいっぱいに書かれている。
「あくまでも、髪型や後ろ姿からなんだけどね…女子の間では、もう確定状態だよ」
以前から、由香が中年男性と頻繁に会っていたというのは、かなり有名な話であったらしい。
「このオヤジと並んでいる子は、まず、島崎さんに間違いないと思うんだけど…」
「どんな子なんだ。俺、知らないぞ」
「巧巳が知らないんなんて、信じられない」
いるかが呟く。
「それだけ、印象が薄いということだ」
「う…ん、そうだね。この島崎って子は、中等部からの私と同じエスカレータ組なんだけど、なんか口数も少なくて、特に仲がいい友達もいなかった気がするし」
玉子は、思い出すように云う。やはり印象の薄い生徒らしい。
「よく、考えたら、ニ組なら春海と同じクラスじゃん。どうなの」
今度はいるかが云う。
「そう、春海と同じクラス。お前、なにか知らないのか」
と、巧巳。しばらく、春海は考え込んでいた。
「…あまり、知らないな。特別に目立つようなことはないしな」
「まあ、春海には、いるかしか目にはいらないもんね」
図星をさされたため、一瞬、言葉を失った春海であったが、さらに続けた。
「実は、年の離れた恋人とかという可能性はないのか」
「でも、恋人にしたら、かなり年が離れているし、私もこんなオヤジは絶対にいやだね」
女子高生らしい辛辣な意見である。
「じゃあ、父親の可能性は」
「知らないよ。でも、父親とこんなにも、べたべたしないだろうし」
「そうだよね。とーちゃんとはしないよなあ」
いるかは、週刊誌に目を落とした。写真の女生徒は中年男性と腕を組んでいた。自分でも父親に対して、こんな態度はしないだろう。まるで…。
「恋人同士みたい…」
いるかのその一言に、全員がため息をついた。やはり、そういう結論になるのか。
「なら、春海とこんな風にするのか」
横から、巧巳がいるかにそっと、訊く。
「なっ…に」
たちまち、耳まで赤くなったいるかは、巧巳の頬に拳を入れた。大きな音を立てて巧巳は床にひっくり返った。その姿にまたもや全員が深いため息がついた。
3
夕闇が空を覆い始めていた頃、春海、巧巳、いるか、玉子の四人は学習院の校門を後にした。空気が冷たい。
「おい、どうするんだよ」
巧巳は頬を擦りながら、並んで歩く春海に訊いた。まだ、いるかに殴られた頬が痛むらしい。
「…思案中」
「そりゃそうだろう」
「ほとんど、誰かさんが、一人で、引き受けたカンジだし」
「しかたないだろう。もう引き受けたんだから。それは云うなよ」
「最近、あいつにだけは、優しいよな。更にさ」
巧巳は、軽く舌打ちすると、後ろで玉子と並んで歩くいるかを見た。自分の発言で招いた異例な仕事に生徒会役員が困惑しているにも関わらず、当のいるかは、相変わらず呑気であった。
四人は駅の改札をくぐり、賑やかに人の行き交う大通りを歩いていた。
「おい、ちょっと…あれは」
巧巳が小さく声を上げ、足を止めた。春海も巧巳の視線を追う。
凝視。
困惑。
そして、疑惑。
視界に入ったものは、まさに島崎由香本人であった。こちらと同じく学校帰りだろう。中背でほっそりとした体つきの少女だった。長く伸ばした柔らかそうな髪が、風で揺れている。しかも、その隣には、後ろ姿だけでは分からないが、スーツ姿の男性が由香と並んで歩いていた。
春海と巧巳は 一瞬、無言で視線を交し合った。後をつけるかどうかだ。
「つけるしかないだろう」
巧巳は、当然のように歩き出す。こんな機会はめったにないに違いない。
「なんだか、ドキドキするね」
玉子といるかは、やはり、すこしばかり事の重大さ理解していない。玉子はともかく、いるかには、「里見学習院の名誉」など頭にないに違いない。
突如、先頭を歩いていた巧巳の足が止まった。春海も同じだった。怪訝そうにしながらも玉子は前方を見上げた。
「……」
先には、色鮮やかなネオンに彩られた建物が立ち並んでいた。必要以上の装飾の華やかさは、異世界のものとさえ思える。いるかを除いた三人は絶句状態であったが、いるか本人は事の成り行きが理解できず、不審そうに、春海の顔を見つける。
「何してるの。早く行こうよ、あっ、見失っちゃう」
「ちょっと、待て」
いるかは、走り出そうとするが、春海は慌てているかの腕を掴む。
「いるか、解ってるの?」
玉子の信じられないといった表情。
「へっ、なにが」
やはり、状況がわかっていなかったらしい。
「…この先はホテル街だぞ」
「よく知っているよな。さすが、巧巳だな」
「うるさいな、で、どうするんだ」
春海は思案している。ちらりと、いるかを、見やると、大きな目をきょとんとさせていた。やはり、状況がのみこめていないのだろう。
「ちょっと。あの二人、角を曲がったわよ」
玉子が小声で叫ぶ。問題の二人は肩を並べ、どんどん歩いていく。そして、雑踏の中へ消えていった。
「…どうするんだ、巧巳」
「こんなところで、俺に訊くなよ。確信的な証拠をつかむには、現場を押さえるしかないだろう」
「……」
「本当はおまえが行きたいだけじゃないのか」
「…あたしが訊くよ」
翌朝の生徒会室で、いるかがそう云った。
「はっきりさせた方がいい事は、はっりさせないとね」
持ち前の正義感から出た言葉らしいが、春海はいるかには不適当だと思った。巧巳も含め、生徒会役員は全員がそう思った。
前日の尾行の際、四人はホテル街に入ることに躊躇した。現場を押さえたいという気持ちも皆にあったらしいが、春海が断固反対したのだ。理由は自分たちも里見学習院の制服を着ているからだという。しぶしぶ、最後には巧巳も了承した。
「私服だったら、良かったのにな、ちょうど、カップルニ組だし自然だぜ」
「誰と誰がカップルなんだよ」
巧巳の本心を知っている春海は、この手の冗談には未だ過敏に反応する。また、留年するぞと、喉まで出掛かった言葉を呑みこむ。
「話は聞いたよ。昨日の件は、山本君の判断に従って正解だと思うね。いくらも問題の女生徒をホテル街で見かけたとしても、制服姿で追いかけるのは得策ではないよ」
三年生の曾我部がおもむろに口を開いた。落ち着きのあるバリトンの声が生徒会室に静かに響く。受験前で、もう役員会に顔を出さない曾我部であったが、今日は出席していたのだ。
「本人に直接、訊くのがいいかもしれないわね」
黙って訊いていた他の役員もうなずく。
「でも、いるかは論外だよ。ストレートに訊いてしまえばいいもんじゃないからね」
「あたしじゃ、無理ってわけ」
明らかに不満げな態度であったが、皆、一同に頷く。
「春海は、どう思っているの」
「無理だ。お前には順序立てて、物事を見極める力がないからな」
冷静沈着な春海らしい的確な意見であったが、いるかは、不愉快に思った。
「じゃあ、春海が訊けばいいじゃん」
一瞬、春海の顔色が曇った。売り言葉に買い言葉。しかもなぜ、自分にばかりに押し付けるのだという、理不尽な感情も生じたようだった。
「巧巳はどう思うわけ。誰が適格だと思う」
「春海…かな」
巧巳自身、嫌であった。それが本音である。
「私も、春海が一番いいと思うよ。やっぱ、いるかには無理だしね」
「そうだね、山本君が同じクラスだし、さりげなく、訊き出せないかな。ただ、今回のケースでは、きちんと論理を組み立てた上で、自分たちの目撃情報を伝え、相手の感情を上手に読み取る技量が必要になると思うんだ」
最後は三年の曾我部が場を仕切る形になった。曾我部は推理小説が好きだったという。
「もちろん、山本君が嫌なら別の方法も検討してもいいと思うよ」
生徒会役員全員が春海の顔に視線を注いだ。
「…僕がやります」
春海は重苦しい気分で頷いた。