馨子さま作
1【喪失のバレンタイン】
「あっ、忘れるトコだった」
いるかは、ジュエリーボックスからネックレスを取り出す。
昨年のホワイトデーに春海からもらったイルカのネックレスだ。
黒色のタートルネックのセーターに、このシルバーの艶やかな光沢はよく映える。
いるかはそのセーターに黄色と黒のチェック柄のタイトスカートを合わせ、上には、そのスカートと同じ柄のハーフコートを羽織る。
スカートと同柄のコートというのが珍しく、最近のお気に入りだ。
出掛けに「今からいく」と春海に電話をいれ、急ぎ駅に向かう。
手には、小さな手提げ袋。
そう、今日はバレンタインデー。
袋の中は言わずと知れた、いるかお手製の「チョコレート」が入っている。
今年も大騒動になるだろうと予測した。
念の為、材料は多めに購入し、失敗に備えた。
しかし、予想に反して、今年は拍子抜けするほどすんなり出来た。
レシピは去年より難しいものを選んでいた、にも関わらずだ。
いるかは、『何か入れ忘れたのではないか』、『手順を間違えたのではないか』、とひとしきり考えてみたが、何一つ間違ったところはない。
味見用にと取っておいた切れ端を食べてみても、かなりの出来だ・・・と思う。
いるかは何度も首をひねるが、なんてことはない、理由は至極簡単だ。
いるかの料理の腕が上がっていたのだ。
昨年の春、山本、如月、両家の見合いが整い、その後結納を交わし、春海といるかは正式に婚約した。
ともに16歳、結婚はまだ先の話だが、いるかの母、葵には一抹の不安があった。
代議士の子息との縁談、外交官という夫の職業を考えてみても、これはまたとない良縁である。
しかし、「天真爛漫」「自由奔放」を絵に描いたような娘である、「しきたり」「格式」が跋扈する世界で果たしてやっていけるだろうか。
この日から、葵は何かにつけ、いるかに家事を手伝わせるようにした。
始めのうちは、鍋を焦がしただの、火傷しただの、手を切っただの、大騒ぎしていたいるかだったが、段々とコツをつかめてきたのか、今では一人でキッチンに立つこともある。
また、春海を交えて食事をする時など、葵はそれとなく春海の味の好みをチェックし、いるかに教えたりもした。
そんなこんなで、いるかはそこらにいる女子高生より格段に料理上手になっていたのだ。
しかし、当の本人は『苦手意識』が先にたち、いまだ料理下手だと思い込んでいる。
そんなわけで、今年も自信ゼロのチョコを持って駅に急いでいたのだった。
『普通に行ったら電車に乗り遅れちゃう、近道して行こうっ!』
いるかは、近くマンション建築が始まる空き地を通り抜けることにした。
敷地はすでに囲いがしてあり、足場を組むための建築資材も持ち込まれていたが、まだ工事は始まっていなかった。
『ここも工事が始まっちゃうと通れなくなっちゃうなあ。』
そんな独り言を口にして、いるかは、敷地の囲いをくぐった。
「ま、まってくれ・・・お、お、俺が悪かった、だから許してくれ。なっ、なっ、頼む、殺さないでくれ!」
恐怖にゆがんだ男の顔。
しかし、対峙する男は顔色ひとつかえず、微笑みさえも浮かべてにじり寄る。
「うっ」
口元を押さえられ、小さなうめき声を一つ洩らしただけで、男は地面に崩れ落ちた。
『ひ、人殺し!!』
『け、警察に知らせなきゃ!』
建築資材の影になっていたおかげで、まだ犯人に自分の存在は気づかれていない。
いるかは急ぎ、引き返そうと一歩踏み出した、その時だった。
カラン
『し、しまった・・・・』
足元にあった、鉄パイプを引っ掛けてしまったのだ。
「誰だ!!」
男の動きは予想以上にすばやく、いるかが逃げの体制に入るより先に、手にした鉄パイプを振り下ろしてきた。
1打目はすんでのところで身を躱わしたが、パイプの先がネックレスの鎖をひっかけ、引きちぎった。
ペンダントヘッドのイルカは、まるで大空をジャンプするかのように弧を描いて飛んだ。
「あっ」
一瞬、注意がそちらにそれた。
男は、すかさず2打目を振り下ろす。
ガツッ
鈍い音がした。
いるかの意識はそこで途切れた・・・・・