馨子さま作

喪失の時間






【エピローグ】



「キェーイ」

「ヤア」



カーン

コーン



春の訪れがようやく本格化した如月邸の庭で、久し振りに春海といるかは竹刀を交えていた。



「あー、もう、今日こそは絶対春海から一本取りたかったのに!!」



「10年早いよ、と言いたいところだけど、正直ヒヤヒヤもんだったんだぞ。しばらく竹刀握ってなかったからなぁ。」

面をはずし、額の汗をぬぐいながら穏やかな笑みを浮かべて、春海は言った。



庭に設えた木製のベンチに腰をかけ、ミネラルウォーターを口に含む。

冷たい水が、体の隅々まで染み渡る。



「そうだ、いるか、これ。」

春海は、ベンチに置いておいた袋の中から、綺麗にラッピングされた箱を取り出し、いるかに差し出した。



「えっ、何?」

「バレンタインのお返し、今日はホワイトデーだろ。」



「あっ、そっか、今日って3月14日だったね。すっかり忘れてた。開けていい?」

「どうぞ。」





「えっ、ペン? これってT社のだよね、T社ってジュエリーだけじゃないんだ。」



いるかは手に取ってみる。

T社のロゴだけが入ったシンプルなデザイン。

重さといい、堅さといい、手にしっくりとなじむ。



「そう、シャープペン。指輪とかイヤリングとかアクセサリーも考えたけど、受験生にはぴったりだろ? お守り代わり。」

春海はいたずらっぽい顔をいるかに向ける。



「春海だって同じ受験生じゃないかぁ。」

「俺は、もうお守り持ってるから。」



「へっ?」



「それから、もう一つ渡すものがあるんだ。」

春海はそう言って、袋の中からイルカのネックレスを取り出した。



「あっ、それ、あの時無くしちゃった・・・・・」

「ああ、鎖も切れてたし、修理を頼んでおいたんだ。この日に間に合えばと思ってたから、よかったよ。」



春海は、ネックレスの留め金をはずし、いるかの首に手をまわした。



「俺は、もう二度とあんな思いはしたくないよ。俺にとってのお守りはお前なんだからな。」

そう耳元で囁いて、春海はもう今は大分薄くなった傷跡にそっと口付けた。



そして、そのまま頭を抱えるように自分の胸元に引き寄せた。



「さっき、佐伯さんから電話があったよ。」



いるかはハッとした表情で下から春海を見つめ返す。



「中埜さん、起訴されたって。それから梁瀬と梁成会のメンバーも全員逮捕したってさ。」



「そう・・・・・なんだ。中埜さんにとって奥さんと娘さんが殺されてからは時間が止まっちゃったんだね。」

いるかはポツリとそう言った。



「ああ、この3年間は、中埜さんにとって、喪失した時間だったんだ・・・・」



『そして、中埜さんはパンドラの箱を開けてしまった。決して開けてはならないパンドラの箱を・・・』



パンドラの箱

パンドラは、その好奇心から絶対に開けてはならないという箱を開けてしまった。

そのため、その中に閉じ込めてあった全ての災いが地上に飛び出してしまった。

だが、その箱の底には“希望”だけが残ったという。





“希望” そう、それは・・・・・



「ねぇ、春海、もう一番手合わせしてよ。今度こそ絶対一本取ってやるんだから!!」

竹刀を手に駆け出すいるか。



「ああ、わかった、わかった。」







春の柔らかな日差しは、優しく二人に降り注いでいた。






Fin





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春海のたくらみ
春海のさしいれ

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