馨子さま作
8 【喪失の時間】
ジャリ、ジャリ、ジャリ・・・・・
踏みしめる度に、土ぼこりが舞う。
「この場所で、葉山を殺し、いるかを襲った犯人は、あなただったんですね。・・・・・・中埜さん。」
春海は背後から声をかける。
「いつから俺だと?」
振りかえった男・・・・中埜は少しシニカルな笑みを浮かべて春海と向かい合った。
「僕のキーホルダーについているイルカを見て、いるかのネックレスとお揃いだと言った時からですよ。」
怪訝そうな顔つきで中埜は見つめ返す。
「あの事件でいるかが病院に運ばれたとき、すでにネックレスについていたイルカはありませんでした。なのに、どうしてあなたはいるかのネックレスと僕のキーボルダーがお揃いだと知ってるんです?」
一旦、言葉を切って春海は続ける。
「いるかが、この場所でイルカのペンダントヘッドをなくした事は、佐伯さんと可児さんにしか話していません。確認したところ、お二人ともつい最近までそのことはすっかり忘れていたそうです。
それにあなたはあれがT社の製品だといいました。
どうしてそれが分かるんです?
あの時僕はイルカの表側を見ていました。T社のロゴは裏側に刻印されているんですよ。
それから、これを拾ってくれた方が言うには、その方は警視庁前の植え込みでこれを見つけたそうです。六段でなくしたものが警視庁の前にある、おかしいですよね。
あなたはいるかのペンダントヘッドを持ち帰った、だからそれが僕とキーホルダーとお揃いで、しかもそれがT社の製品であることを知っていたんです。」
「あはははは・・・・・“語るに落ちる”とはこの事だな。そのイルカは咄嗟に持ちかえったんだよ、遺留品を残しちゃいけないって頭が働いたんだろうな。刑事の悲しい性だな。はははは・・・・・」
乾いた笑い声が辺りに響く。
「中埜、お前ほどの奴が・・・何故なんだ? 何故こんなことを?」
佐伯は、中埜の襟首を捕まえて詰め寄った。
警察庁刑事局長室
今より数時間前、佐伯は浅見刑事局長より警察庁へと赴くよう電話を受けた。
「佐伯警部、呼び出したりしてすまなかったね。」
「いえ、一体何事でしょう? 春海、それにいるかちゃんまでここにいるなんて・・・」
春海は沈痛な面持ちで佐伯を迎え、傍らにいるいるかは、先程まで泣いていたのだろうか、真っ赤な目をしていた。
「そんな馬鹿な!! 中埜が犯人だなんて!!」
「信じられない気持ちは僕も一緒です。ですが、いるか程の剣道の腕前を持つ者が、簡単に額に傷を負わされたことが不思議でした。しかし、彼が犯人なら、それは納得できます。それに、決定的なのはいるかの証言です。」
「いるかちゃん、思い出したのか?」
「うん」
いるかが力無く、頷く。
佐伯は、いるかが泣きはらしたような真っ赤な目をした理由を察した。
「それに、こんな写真もある。」
浅見は、目で秘書の武田に合図すると、4,5枚の写真を持ってこさせた。
写真には人目を避けるようにして密談している中埜と一人の男が写っていた。.
「こっちは中埜で、こっちの男は、確か、元羅門組若頭の梁瀬だ。」
「ここ何日か部下に尾行させていたんだよ。多分、なんらかの行動をおこすんじゃないかと山本君の指摘があってね。」
「あの中埜が暴力団と癒着していたというんですか? あいつは組のやつらに最愛の家族を殺されているんですよ。よりにもよってその家族を殺した奴と癒着だなんて、そんな事、あるはずないですよ。」
「僕もその点が腑に落ちません。しかし、実際、中埜さんが接触しているのは元羅門組の幹部組員です。これは、紛れも無い事実です。それに、この資料を見て下さい。」
春海はそう言って、何やらデーターやグラフの書かれた資料を佐伯に見せた。
「これは過去3年間の警視庁4課の検挙率のデーターです。中埜さんが、係長として4課の指揮を取るようになってからめざましく検挙率がアップしています。」
「それがどうしたと言うんだい? 中埜が組と癒着しているのなら、逆に検挙率は下がるはずだろ?」
「問題はその中身です。確かに検挙率はアップしていますが、検挙されたのは組織的には小さいものばかりです。そして、それに比例して、一つだけ勢力を拡大している組があるんです。浅見さんに聞いたところ、その組は新興勢力だそうで、その実態は明らかではないそうです。分かっているのは“梁成会(りょうせいかい)”という名前と、検挙され力の弱まった組を吸収してその勢力を拡大しているということです。」
「梁成会(りょうせいかい)? 梁、梁・・・・・まさかその組の組長が梁瀬?」
「ええ、僕はそう考えました。もし、中埜さんと梁瀬という男が繋がってるとしたら、架空の取引をでっちあげ相手を誘い、その現場に警察に踏み込ませれば、組織力の小さい組はひとたまりもないでしょう。そして、その組を乗っ取り、勢力を拡大する。あとは警察の情報をちょこちょこリークすれば梁成会は安泰ですからね。梁成会に関する情報の少なさも意図的なものではないでしょうか。」
「そんな信じられんよ。中埜がそんな、そんな事をするなんて・・・・」
「あたしだって信じられないよ。」
それまで、だまって会話を聞いていたいるかが堰を切ったように話し出した。
「でも、あの時、男の人を刺し殺して、その現場を目撃したあたしを襲ったのは紛れもなく中埜さんだったんだよ。あの背筋も凍るような怖さを持った人が、あの中埜さんだなんて、今だって信じられないよ。」
「いるかちゃん・・・・・・・」
「詳細は本人の口から聞きましょう。佐伯さん、中埜さんをあの現場に呼び出してもらえますか?」
春海は全ての感情を押し殺し、努めて冷静に言った。
襟首を掴んで詰め寄った佐伯に、中埜はふっと柔かな笑みを浮かべた。
心底、自分を心配してくれる佐伯対する感謝の笑みだろうか。
「どっから話せばいいかなぁ・・・・」
中埜は上着の内ポケットからマルボロを一本取り出し、火をつけた。
吐き出された紫煙は、黄昏時の空に吸い込まれていった。
「あれは、カミさんと娘の瑞希の初七日だったかな、一人の女性が俺を訪ねて来たんだ。彼女は、牧村の女だった。」
「牧村って、お前が更正させようとしていた羅門組の組員か? あの殺された。」
「ああ、牧村は殺される前、その彼女に俺宛の資料を託していたんだ。もし自分の身に何かあったら、警視庁の中埜に届けるようにとね。」
「だが、お前そんな資料があったなんて何一つ報告していなかったじゃないか?」
中埜は、佐伯の質問に少しシニカルな笑みを浮かべた。
「なあ佐伯、お前、今の警部になるまでに何年かかった?俺たちみたいに高卒で警察官になったやつはさあ、警部になるにも何年もかかる。それでも警部になれば出世したほうさ。なのにキャリアは、採用即警部補、一年もすりゃあ警部だよ。」
警察官には階級というものがあり、国家警察という職務も担う警視庁には次のような階級がある。
巡査→巡査部長→警部補→警部→警視→警視正→警視長→警視監→警視総監という具合だ。
警察官採用試験を合格し、警察官として採用された者は、巡査からスタートするが、次の巡査部長の昇進試験を受ける為には、大卒は1年、短大卒は3年、高卒は4年の巡査実務経験が必要である。
しかし、警察庁が採用する国家公務員U種試験合格者(準キャリア)は巡査部長から、また、国家公務員T種試験合格者(キャリア)は警部補からスタートできる。
その上、その後の昇進は年功序列で行われる。
それに対し、ノンキャリアは、警部補への昇進試験も大卒は1年、短大卒は2年、高卒は4年の実務経験が必要とされる。
次の警視にいたっては、キャリアが平均25〜6歳、準キャリアが35歳で就くのに対し、ノンキャリアでこの地位につけるのは全ての試験を一発でパスしたとしても40歳程度でやっとたどり着けるのである。しかもこの警視は小さい警察署の署長レベルにあたる階級であるため、ノンキャリアでここまでこれるのはほんの一握りだ。
キャリアとノンキャリアの格差はこれほどまで違うのだ。
「お前何がいいたいんだ? 俺たちノンキャリアとお前が資料の報告をしなかったことと何の関係があるんだよ?」
「牧村の残してくれた資料は、渡邊警部が羅門組と癒着していたという内容だったんだよ。」
「渡邊警部って、当時4課の係長で、羅門組とのドンパチで殉職した?」
「ああ、渡邊は出世を約束されたキャリア組み、それに引き換え俺は高卒採用のノンキャリア。資料を公表したところで、揉み消されるのがオチさ。だからまず、俺は奴の同行を探る為に4課に移った。」
中埜は、再び煙草を口にした。
「当時、羅門組は新組長と若頭の梁瀬とが対立していた。新組長はその対抗手段として警察との癒着を画策したんだ。そのターゲットが渡邊警部だったのさ。勉強一筋の、世間の荒波にもさらされたこともない坊ちゃんだ、ヤクザの巧妙な罠に見事にひっかかった。」
「罠?」
「女だよ。奴らは女を使って、篭絡させ、弱みを握った。出世コースの王道をまっしぐらの渡邊警部にとっちゃあ、ちょとしたスキャンダルも命取りだからな。」
「お前、どっからそんな事を?」
「梁瀬だよ。俺は、新組長と対立している梁瀬に近づいた。」
「梁瀬に?」
「ああ、新組長が警察と組んだとなれば、分が悪いのは梁瀬の方だ。だから接触は比較的簡単だったよ。梁瀬は色んなことをしゃべってくれたよ。牧村を殺したのは新組長側の奴らだということ、そして、俺を殺すように指示したのは渡邊警部だったということもね。」
「じゃあ、奥さんと娘さんが巻き込まれたあの事件は渡邊警部の指示だったのか?」
「ああ、それを知ったときの俺の気持ちが解かるか? その時だよ、どんな手段を使ってでも絶対あいつらを殺してやると誓ったのは!」
中埜は吸っていた煙草を捨てると踏みつけるように揉み消した。
「梁瀬は組長の名を騙って渡邊を呼び出し、新組長、組長側の幹部は架空の覚せい剤取引をでっちあげて呼び出したんだ。そして、銃撃戦をしかけたのさ。俺は後から4課の連中を引きつれて現場に行く手筈にし、梁瀬は組長を、俺は渡邊を撃った。もちろん羅門組の仕業に見せるために銃は、梁瀬に用意させたソ連製のトカレフを使ったよ。俺の銃をつかったら弾痕からバレちまうからな。」
「その使った銃はどうしたんだ?」
「後で、どっかの組のガサ入れしたとき押収品に紛れ込ませてやったよ。ソ連製のトカレフはヤクザの密輸銃の定番だからな。」
「一つ解からないことがあります。何故、あなたは再びいるかを狙わなかったんです? いるかの記憶が戻れば、それこそあなたにとっては命とりです。僕があなたに疑いを持つまでの間、僕達はあなたに対して無防備でした。いくらでもチャンスはあったはずです。」
それまで、佐伯、中埜のやりとりをだまって聞いていた春海が口を開いた。
「そこまでしたら俺は完全に人間でなくなってしまうような気がしたからさ。葉山の時は、罪悪感はなかった、悪党を一人減らしてやったと、勝手な正義感だけどね。だが、いるかちゃんは違う、あの時は咄嗟で、考えるより先に体が動いてしまったが、後になって体が震えたよ。無事だと知ったときは、心底ホッとした。」
話し終えた中埜は、背中の乗せた重い荷物を下ろした時のような解き放たれた笑顔を見せた。
「世話かけたな、佐伯。じゃあ、行こうか・・・・」
「ああ」
佐伯は、溢れ出た涙を拭おうともせず、中埜の背を押した。
「中埜さん!」
「中埜さん!」
春海といるかは同時に叫んだ。
中埜は振り返らなかった、だた、軽く右手を挙げた。
春海は視線を中埜の背中に向けたまま、傍らにいるいるかの肩を抱き寄せた。
二人は、佐伯と中埜の消えた方角をいつまでも見つめていた。