馨子さま作
喪失の時間
7 【貝合わせ】
「どういうことなんだ?」
春海は、唸るように呟いた。
留守電にあったT社の猪原を訪ねて、たった今店から出てきたところだ。
春海は近くの公衆電話から、今はもう暗記してしまった警視庁捜査1課の番号をプッシュする。
「春海か、どうした?」
「すいません、佐伯さん、お忙しいところ。あの、いるかのしていたネックレスのヘッドのことなんですが・・」
「おおお、すまん、すまん。あれから鑑識さんにもう一度確認しようとしてすっかり忘れていたよ。あ、ちょっと待ってくれよ、おい、可児、可児―」
佐伯は、大声で部下である可児刑事を呼んだ。
なにやら可児刑事と話しをしているような声が電話口からきこえる。
「ごめん、ごめん、可児もあの後、鑑識には確認してないって。なんなら、今から鑑識さんに聞いてやるけど?」
「あっ、いえ、すいません言葉が足りなくて。実はそれ見つかったんです。拾った方が刻印されていたロゴから、お店の方に届けてくれてたんです。」
「なんだ、そうか、良かったな。あっ、そうそう昨日の写真の鬼沢って男、見つかったよ。ただ残念なことにアリバイ成立。やっこさん、事件当日は喧嘩沙汰を起こして埼玉で留置されてたよ。警察がアリバイの証人なんだから皮肉なもんだよな。おっ、すまん。なんか動きがあったみたいだ。悪いけどこれで切るよ。」
「すいません、お時間取らせて。じゃあ、また。」
「ああ、すまんな。」
電話ボックスをでたところで、春海は沸きあがる疑惑を抑えきれないでいた。
突拍子もない考えだと自ら否定してみても、この疑惑を払拭するまでにはいかない。
しかし、警察の人間でもない一介の高校生に何が出来るだろうか?
『誰か、いないだろうか?』
『――そうだ、あの人なら・・・・』
春海は、今でてきたばかりの電話ボックスに再び入った。
「ひさしぶりだね。山本君」
「すいません、お忙しいところを。アポイントだけでもとお電話をしたんですが・・・・」
「いや、いいんだよ。本当は約束が入っていたんだが、先方の都合で急にキャンセルになったものでね。ぽっかり時間が空いてしまって、丁度よかったよ。」
春海は、佐伯への電話の後、警察庁に電話を入れた。
警察庁刑事局長である浅見氏への面会のアポを取る為だった。
警察庁刑事局長である浅見は、春海たちの通う里見学習院のOBであり、高校生を巻き込んだ組織的な覚せい剤密売事件の対策として里見を訪れた際、知り合った。
(『里見学習院殺人事件』参照)
電話は浅見の秘書である武田に繋がれ、その武田によると今なら浅見は空いているという。
春海はその足で警察庁へと赴いた。
里見の近況などを報告した後、春海は本題を切り出した。
「山本君」
翌日の学校帰り、春海は校門前で呼び止められた。
「武田さん、それに浅見さん。」
武田は黒塗りの高級車から降りると、恭しく、浅見が座る後部座先のドアを開けた。
仕立ての良いスーツにブランド物のネクタイ。
だが、それらは決して主張過ぎることなく、浅見という人物にピッタリと収まっていた。
「頼まれていた資料だよ。」
浅見は分厚い書類袋を春海に手渡した。
「春海?」
春海と一緒にいたいるかは、目の前で繰り広げられる展開についていけず、訝しげに春海の名を呼んだ。
「ああ、いるか、覚えているだろ? 纐纈さんの葬儀の時、お会いした・・・・」
「あっ、えっと、確か警察の・・・・・」
「警察庁刑事局長の浅見です。山本君から事情は聞きましたが、大変だったようですね。怪我の具合はいかがですか?」
エリート然とはしているが、決して人に威圧感を与えない浅見の微笑に、いるかもつられて笑顔になる。
「あ、はい、もう大丈夫です。痛みもほとんどないですし、ただ傷がちょっと生々しいので包帯はしていますけど・・・・」
黒目がちな瞳で、まっすぐに語りかける。
くるくる変わる表情、太陽にも負けないとびきりの笑顔。
そんないるかをこれ以上ないと思われるほど愛し気に見つめる春海。
この輝かしい笑顔が曇ることがないよう、この愛し気に見つめる瞳に陰りが表れることがないよう、浅見は心ひそかに若い二人の恋の行方にエールを送った。
「刑事局長、そろそろお出ましにならないと・・・」
「わかった。」浅見は武田に向かってそう言い、再び視線を春海に戻すと、、
「では、私はこれで失礼しますよ。あっ、それから、例の件は手配しておいたから。」と言った。
「すいません、お手数取らせました。」
春海は、車に乗り込む浅見に深々と頭を下げた。
走り去る車のバッグミラーに、じゃれあう猫のように楽しげな春海、いるかの姿が映し出される。
「見ていて微笑ましいカップルですよね。確か婚約者同士とか・・・」
運転席に座る武田が、浅見に話しかける。
「政財界の子女が多く通う里見で、高校在学中に婚約というのもさして珍しいことではないし、ましてや代議士の子息と外務官僚の令嬢とくれば、まあ納得というところだが、あの二人はそういった打算や駆け引きとはかけ離れたところで大事に大事に育んでいってほしいよ。」
「そうですね、本当にそう思いますね。」
武田は、再度バックミラーに目をやった。
もうすでに二人の姿の見えなくなっていたが、仲むつまじい二人の姿がまだミラーに残っている気がした。
「しかし、もし山本君の推理が正しければ、刑事局長はどうなされるおつもりですか?」
「どうするもなにも、刑事局長としての責任を全うすればよいことだ。」
「しかし、それでは・・・・」
「組織のトップに立つということは、そういう事だと私は思っている。それに彼の正義感の前に、私は誠実に向き合いたいと思うよ。」
「刑事局長・・・・・・」
二人を乗せた車は、都会の夕闇の中へと吸い込まれていった。
明かりを絞ったリビングで、一人春海は浅見から手渡された分厚い資料に目を通していた。
『さすが、浅見さんだ・・・・』
こちらが望んでいた、いやそれ以上の内容に浅見の配慮が見て取れる。
しかし、同時に春海の抱いた疑惑は、払拭されるどころかますます膨れ上がる。
『でも、決定打がないだよな・・・・・』
春海は深いため息をついて、ソファーに深く体を預けた。
「春海君、まだ休んでいなかったのかい?」
パジャマ姿の鉄之介がリビングに入ってきた。
「あっ、すいません。起こしてしまいましたか?」
「あ、いや。ちょっと寝付かれなくてね。ブランデーでも飲もうかと。君も一杯どう? 少しぐらいなら大丈夫だろ。」
「じゃあ、一杯だけ。」
鉄之介は、高級酒がいくつか並ぶキャビネットからXOを取り出し、グラスに注ぐ。
クリスタルの透明な輝きは、ブランデーの深い琥珀色を余すことなく映し出した。
「ところで、こんな時間まで何をしていたんだい?」
「事件の資料をちょっと・・・」
「事件って、いるかが襲われたあの事件のことかい?」
「ええ、犯人が捕まらないことにはどうも落ち着きませんから。」
「君にはすっかり迷惑をかけてしまって、申し訳ないね。おまけに葵のやつは息子ができたと舞い上がっているし・・・・」
「いえ、そんなことは・・・。それに、おばさんには感謝しています。徹がすっかり懐いてしまって・・・・」
「そういえば、お母さんを亡くしているんだったね。いくつの時だったんだい?」
「僕が小学校6年生の時で、徹はまだ幼稚園に通っていました。」
春海は自分の母の死を思い出していた。
あの時、徹はまだ死というものを理解するには幼すぎた。
日頃は深閑としているあの倉鹿の屋敷に、いつになく大勢の人が集まった。
自分の母親の葬儀だというのに、「おにいちゃん、今日はお祭りなの?」と言ってはしゃいでいた。
その無邪気さが逆に周囲の涙を誘っていた。
でも俺は泣けなかった。
いや、泣くわけにはいかなかった。
確かに母の死は悲しかった。
だが、幼い徹をかかえてこれからどうすればいいのか、そればかりが頭を占めていた。
当分は親父もいてくれるだろう、しかし、仕事第一のあの父が長居などするはずもなく、母を求める弟をどう支えていけばいいのか、そればかりを思っていた。
大人にならなければならない、母の死という悲しみを封じ込め、この哀しみを誰にも気取られることなく生きていかなければならない。
そんな想いがいつしか、春海の心の中に誰も触れさせられない聖域を作り出した。
だが、二年後、その聖域は春の嵐の前で脆くも崩れ去る。
その春の嵐は、太陽の光さえ遮っていた壁をも跡形もなく持ち去り、かわりに春の柔かな日差しにも似た暖かな日溜りを与えてくれた。
『いるか、お前に出会わなかったら俺はどうなっていただろうか・・・・』
「・・・君? ・・・うみ君? 春海君?」
押し黙った春海を心配して、鉄之介が呼びかける。
「えっ? ああ、すいません。ちょっと、酔っちゃったかもしれません。でも、おかげでぐっすり眠れそうです。」
「そうかい? 高校生にこれ以上すすめるわけにはいかないが、大学生にでもなったらまたじっくり飲みたいものだね。」
「ええ、その時はとことん付き合いますよ。」
二人は笑い合った。
その週の土曜日、昼食を終えた春海、いるか、徹の3人は、如月邸のキッチンで食後のお茶を楽しんでいた。
「ごめ〜ん、春海君、ちょっと手伝ってぇー」
葵の声がリビングの隣にある和室から聞こえてきた。
「わーー、かあちゃん、何やってるんだよぉ?」
見ると、葵は和室にある天袋から何か箱を取り出そうとしているところだった。
「何って、いいから、ちょっと助けて!!」
「あっ、危ない!!」
春海は、今にもずり落ちそうな箱と葵を支えた。
「ふぅー、ありがとう、春海君。やっぱり、こういう時は男手が必要よね。」
「こういう時って、一体何やってるのさ?」
「何って、お雛様、出しているのよ。」
「お雛様ぁ?」
「そうよぉ、もうすぐ桃の節句でしょ。あんただって一応女の子なんだし・・・」
「一応ってどういう意味だよ。」
「とにかく、いいから、ちょっと手伝って。」
「僕も手伝っていい? 葵おばちゃん。」
「ええ、いいわよ。徹君の方がいるかよりよっぽど役に立ちそうだわ。」
女姉妹のいない春海、徹の兄弟は、物珍しさも手伝って、興味津々と言った面持ちで、人形の飾り付けを始めた。
「手の込んだ作ですね。下段の調度品なんか、細工も細かいし、螺鈿ですよね? かなりいい物のような気がするんですが・・・・」
飾り付けを終え、一歩下がった位置からひな壇を見つめていた春海は、隣にいた葵に話しかけた。
「ええ、如月の義父がいるかが生まれた時に揃えてくれたの。」
「じーちゃんが?」
「そうよ。あんたは如月の家にとっちゃ初孫ですもの。お義父さん、それはそれは喜んで。それに倉鹿はそういった季節の行事を大切にする土地柄でしょう? だから、かなりいい物だと思うわよ。」
「あれぇ、でもなんか、正美ちゃん家で見たお雛様と違う感じがする。」
同じく、ひな壇を見つめていた徹が小首をかしげて言った。
「正美ちゃんって?」
「ほら、かーちゃんも知ってるでしょ? 去年、同じクラスだった東条巧巳。正美ちゃんは巧巳の妹で、徹君とは友達なの。」
「ふ〜ん。その正美ちゃんって、ずっと東京の人?」
「うん、そうだと思うよ。僕が前に倉鹿の事を話したとき、うちはずっと東京だから、そういう故郷があるのが羨ましいって言ってたもん。」
「そう、だとしたら関西風と関東風の違いね。うちは関西風だから。」
「関西風と関東風?」
「そう、関西は公家風、関東は武家風でね、色々違いがあるのよ。例えば、最上段の女雛と男雛は、関西だと御殿の中に、関東だと金屏風の前に飾られるの。位置も関西は向かって右が男雛、左が女雛、関東はその逆に飾るのよ。」
「そう言えば、正美ちゃんのお雛様、金屏風の前に飾られてた。」
「関西と関東とじゃ、そんな違いがあるんですね。」
そう言って、春海はふと視線を下に落とすと、まだ開けられていない木箱があるのに気がついた。
それは、葉書大の大きさの桐の箱で、紫色の房のついた紐で丁寧に結ばれていた。
「あれ? これ、何だろ?」
「あら、ホント。何だったかしら、コレ?」
葵は箱を手に取ると、紫の紐をほどき始めた。
「ああ、そうだ、思い出したわ。そういえば、お雛様と一緒にしておいたんだったわ。忘れてた。」
蓋を開けた葵は、少し懐かしそうな声で言った。
「何なの?」
いるか、春海、徹も頭を寄せ合うようにして、箱の中を覗き込んだ。
中には、貝殻が二枚入っていた。
内側に白地に金箔、銀箔の下地が施され、その上に一方の貝殻には琵琶を弾く十二単の女性の姿が、もう一方の貝殻には笛を吹く直衣を着た男性の姿が描かれている。
「貝合わせよ。もっともこれは鑑賞用だけど。」
「貝合わせ?」
どこかで聞いたことのある言葉にいるかは眉根を寄せて、呟くように言った。
「何よ、貝合わせも知らないの? あんた、古典で習ったでしょう?」
『お前なー、古典で習っただろ?』
「―――えっ!」
「嫁入り道具で私が持ってきたものなのよ。公家風の嫁入りはこの貝が婚家に一番最初に入るのが慣わしだって、奈良の母が頑張っちゃって・・・・」
『貞節の象徴として公家風嫁入りには行列の先頭をきって婚家に入るのが家例とされたんだ。』
「ねぇ、ちょっと、いるかどうしたの? 急に黙り込んじゃって。」
葵がいるかの顔を覗き込む。
「あら、やだ、顔が真っ青じゃない。どうしたのよ、一体?」
いるかは葵の声など全く聞こえないかのように、自分の考えに捕らわれていた。
『同じこと、以前にも聞いた気がする』
『――そうだ。あれを言ったのは春海だ。』
『いつだっけ? 』
『――そうだ。あれは去年のホワイトデー、春海がネックレスをプレゼントしてくれた時だ。』
『ネックレス? そういえば、あのイルカの、私の大切なあのネックレスどうしたっけ?』
『――そうだ。あのネックレスはあの時、鎖が切れて、イルカが目の前を飛んでいって・・・・・』
『どうして、鎖が切れたんだろう?』
『――そうだ。あの時、あたしは男の人が殺されるのを目撃して、そして殴られて、その時ネックレスの鎖が切れたんだっけ・・・』
『――そうだ。あの時、あたしを殴ったのは・・・・・・、男の人をナイフで刺し殺したのは・・・・・』
『――そうだ。あの顔は、あの顔は・・・・・・・・』
「いるか! いるか! どうしたんだ? おい、いるか、大丈夫か?」
春海は、いるかの両腕を掴み、少し乱暴に揺す振った。
ハッと我に返って、いるかがその大きな瞳をさらに大きく見開いて、春海を見上げた。
「・・は・・る・・うみ」
「どうした?」
「あたし、あたし。思い出した、思い出したの。事件のこと全部。」
「あの時、男の人を刺し殺して、そしてそれを目撃したあたしを襲ったのは・・・・・襲ったのは・・・・」
いるかは、大粒の涙をこぼして、そのまま春海の胸に倒れこんだ。