きれいな白いリボンを丁寧に解いて
箱を開けた。
中に入っていたのはシルバーのキーホルダーだった。
「わ、かわいい・・・」
ゆるやかにカーブを描くそれはハートの輪のようにも見える。
春海はいったんいるかの手からキーホルダーを受け取って
鍵を取り付けて彼女に返した。
「持っててくれないか?」
「え?この鍵?」
「うん・・・ほら、藍おばさんも通って来ることになったし、お前が来ても誰もいないことがあるかもしれないだろ。そんなときは、入ってていいから。」
「でも・・・なんか悪いよ。」
「いいんだよ。おれが持っててほしいんだから。」
「春海・・・」
照れ隠しに、いるかはもらったばかりのキーホルダーを見つめた。
曇りのない銀の程よい重さが心地いい。
その細く滑らかな輪に何か彫ってあるのが目に入った。
「なんて書いてあるの・・・あたしの名前?」
IRUKA
そのあとに続く文字は、いまはまだ彫らない。
「ああ・・・結構時間がかかってさ。今日に間に合わないかと思ったぜ。」
「今日に間に合わないとなんか困ったの?」
「お前・・・今日が何の日か知ってるよなぁ?」
「バレンタインデー・・・でしょ?」
「男性が女性に贈り物をする日でもあるんだ。」
「へぇ・・・そうなんだ。春海よく知ってるね。」
「・・・で?」
「え?」
「お前は・・・何もくれないのか?」
「・・・一応、ある・・・」
最初に取り出したのはCDだった。
「My Funny Valentine・・・か。
ありがとう。この歌、知ってたのか?」
「うん。父さんが持ってるレコードに入ってたんだ。
でも、それとはだいぶ雰囲気違うよ。
春海がすきそうだなって思ったから。」
「おまえ、この歌詞知ってる?」
「ううん、気にしたことなんてないけど・・・?」
「・・・そうか。」
「なんか、へんなの?」
「いや、そうじゃないよ。」
「じゃ、何で笑ってるの?・・・どんな意味なの、教えてよ。」
「・・・かいつまんでいうと、・・・そうだな。
どうかそのままで、変わらないでいて、って感じかな。」
あなたってあんまりかっこよくないし、そんなに頭よくないし、
どこかコミカルでギリシャ彫刻みたいってわけにはとてもいかない。
でもね、そんなあなたがとても好きだから、そのまま変わらないでいてね。
・・・前半部はあえて教えなかった。
「ふーん・・・?」
納得したのかしないのか、いるかはステレオから流れてくる音楽に熱心に耳を澄ましている。英語の授業もこのくらい力を入れて聞いてくれれば・・・
彼女の教師の役も買って出ている春海はそんなことを思った。
「あ〜やっぱりわかんないっ!・・・春海?」
・・・一体いつから見つめられていたんだろう。
気がづくと春海はじっといるかの横顔を見つめていた。
春海の切れ長の眼がやや斜めから瞳を見つめている。
口の端をほんの少し上げて、
これは、春海が何かをたくらんでいるときの顔だ。
いつも余裕たっぷりで、憎らしくなるくらい。
でも・・・いやじゃない。
案の定、にっこりと微笑んだ彼は両腕の中に彼女を納めてしまった。
後ろから抱きしめられるのは、嫌いじゃない。
すごく安心する。
でも、少しだけ不満がある。
それは、彼の背に手をまわせないこと。
いつも両手が所在無くて。ちょっとだけ逃げたくなる。
「・・・で、これだけ?」
「これだけって?」
「今日、一日中待ってたんだけどなー・・・」
「・・・」
「いつ渡してくれるかなー・・・って。」
「・・・今年も、作ってみたけど・・・」
「本当?」
からかいを含んだ声音が急に変わった。
うれしいというか、ほっとしたというか・・・
春海はどんな顔をしているんだろう。
後ろから抱えられていては見ることができない。
あ、ひょっとして、そのため?
あたしのこと照れさせるのは好きなくせに
自分のは見せたくないんだ、・・・嫌なヤツ。
でも・・・いいか。今日くらい。
「・・でもね、期待しないで・・・やっぱりあたしあんまりこういうこと得意じゃなくって・・・」
「何言ってんだよ、去年だってそのまえだって、うまいって、上手だって何度もいったのに。」
「で、でも、やっぱりさ、春海無理してない?」
「してない。」
「だってさ、今年に入ってから何度も練習したのに、最近は誰もあんまり食べてくれないんだよ〜・・」
洋酒の量が多すぎたとき、タクマは三粒で酔っ払った。
かもめは肌に悪そうだから太るから、と如月家にあまり寄り付かなくなった。
お手伝いさんは年寄りには多すぎますよ・・・といい
口の悪い舌の肥えた母親は聞きたくない感想ばかりをいう。
優しい父はそれでも食べてくれたがもともと甘いものがそう得意ではないので
無理やり飲み込んでいるようだ。
そんなわけでいるかは今年のチョコレートもそれほど自信がなかった。
けれど、本を見て何度も同じものを作っているうちに
分量はそれほど間違えなくなり
温度もまあまあ調節ができるようになり
切り分けるときもまあまあ形をそろえることができるようになった。
今年は生クリームと洋酒、紅茶をたっぷり使った生チョコレートにした。
春海と代官山のお店で食べた味が忘れられなくて
似たレシピを一生懸命探したのだった。
結果、まったく同じものではないにしろ、そこそこ似たものが出来上がった。
口に入れると溶けるような食感。
柔らかい口どけにほろ苦いココアパウダー。
それほど悪くないじゃない・・・昨夜は自信があった。
けど。
今日になって下級生からかわいいチョコレートを贈られて急に自信がなくなってしまったのだ。
・・・なんでみんなこんなに上手なの・・・
女の子としての自分にも急に自信がなくなってきた。
しかもクラスメートたちは気にしていることをはっきりという。
晶みたいに大人っぽくはなれないし
一子みたいにおしとやかにもなれない。
少しは女の子っぽくしたら、と友達はたまに言うけれど
どうすれば女の子らしさと自分自身が衝突せずにすむのか、わからない。
走るのがすき。
汗をかくのが好き。
笑いながら食べるのが好き。
それが、そんなにいけないこと?
せめてハンカチくらいは子供っぽくないものにして
父のお土産の香水をひと吹き、する。
ただ、それだけ。
もっと勉強しなさいとか、
もっとおとなしくしなさいとか
もっと女の子らしくしなさいとか。
―――いまのままじゃいけないの?
そう、聞きたくなる。
かばんのそこにはチョコレートの箱が眠っている。
何度も結びなおしたリボンの形を崩さないように
今日は教科書の類は全部サブバッグに入れた。
―――どうかそのままで、変わらないでいて、って感じかな。―――
春海は、そういった。
もし、春海がそう思ってくれているなら―――
「・・・どうしてもほしい?」
「くれるまで離さない。」
やっぱり春海は天邪鬼だ。
こんなときでもなんだか素直じゃない。
あたしはいつもはぐらかされちゃってるみたいだ。
「・・・わかったよぅ・・・」
丁寧に幾重にも保冷剤が敷き詰められたかばんの中に鎮座ましましたのは
真っ白い箱と水色のリボン。
「なんだか、さっきの箱と逆みたいだな・・・」
「あ、そういえば・・・」
小さな偶然にようやく二人の視線が合った。
正方形であろうとした台形。
形を正確に表現するとそんなところだろうか。
それでも箱に納められた小さなチョコレートの粒は
おとなしくココアパウダーに埋もれていた。
添えられたスティックにさして一粒目をいただこうと思ったとき、
春海の心に小さないたずらが芽生えた。
いるかの鼻をつまんで思わずあけた彼女の口の中に
チョコレートを放り込んだ。
「ひゃっ・・・」
「ほら、おいしいだろ?」
・・・まだ食べてないくせに。
「何よぅ、あたしは毒見係?もう、いらないんならあたし全部食べ・・・」
「もちろん、返してもらうよ。」
「え・・・・」
あっけにとられているうちに
口の中で早くも溶けかけていたチョコレートを奪われてしまった。
「・・・これ、いつか一緒に食べたやつ?」
「うん・・・春海おいしそうに食べてたもん。
まったく同じってわけにはいかないけど・・・」
「・・・おれはこっちのほうが好き。」
「なにいってんのよ、お店のほうがおいしいに決まってるじゃん。」
「そんなことない。ほら、疑うんならもう一個、食べてみな。」
「また取り返しにくるつもりでしょ。」
「・・・おまえ、結構疑り深いな。」
「・・・それって誰のせいだろうなぁ・・・」
チョコレートは甘い。
口に含むたび、オレンジ、洋ナシ、ベルガモットと違う香りが広がる。
キスはそんな香りが混ざり合って二人はほんの少しだけ酔い心地になった。
「・・・おまえ、またうまくなったな。」
「え?去年より少しは上達した?」
「ん・・・どっちも。」
「どっちも・・・?」
春海の手の甲がいるかの頬をすべるように撫でるとき。
髪をすくようにしてうなじを抱くとき。
春海の瞳はこう言っている。
―――キスしていい?
返事のかわりにそっとまぶたを閉じる。
それが、このごろの二人の合図。
チョコレートの香りはキスの味をいつもより甘くした。
触れているわずかの部分の温度を、少しだけ、高くした。
キスはもう拒まなくなった彼女に、本当はもっと欲張りな自分がいる。
「・・このチョコレート、洋酒が入ってる・・・?」
「うん・・・コアントローとかウィリアムとか・・・あ、きつかった?」
「・・・酔った。」
・・・もちろんウソである。
「うっうそだー、春海お酒強いくせにっ!」
ウソだ、と口では言いながらも
心配そうに自分の顔を覗き込もうとする。
いるかの、こんなところが好きだ。
気が強いのに自分のことになるとちょっと心配性で。
なのに、いつもそれを利用してしまう。
おれって、結構性格悪いかも・・・
そう思いつつも好機とばかりにいるかをソファに押し倒してみた。
ぐったりと力を抜いて自分にもたれかかっていた春海が急に元気になって、
いるかはようやくからかわれていたことに気づく。
そして、この体勢の不自然さも。
「ちょ、ちょっとなにすんのっ!」
ほんのわずかでも声に媚びや色気があれば、と思わないこともなかったのだが・・・
予想通り、か。
「・・・ぷっ」
「・・・春海?」
「なんかすると思った?」
「・・・っ!もう、春海のばかっ!」
とりあえず笑ってごまかした。
鋭く繰り出されたいるかの左ストレートを手のひらで吸収して
そのままふっと抱き寄せた。
「ゴメン。ほら、機嫌直せよ。」
「もー・・・やめてよね!春海冗談きつい!あたし帰る!」
「ゴメンって。ふざけただけなのにそんなに怒るなよ。」
「ちっとも面白くないっ!」
・・・どうやらかなり怒らせてしまったらしい。
ハイハイ・・・もうしばらくは我慢します。
しばらく腕の中から逃れようとじたばたしていたいるかも
一つ、二つとチョコレートを口に運ばれるうちにおとなしくなった。
いるかにもらったCDは一周して、また最初の曲に戻った。
「My Funny Valentine」
曲にのせて、春海は思った。
どうかそのままで、変わらないでいて。
僕の、小さくて、かわいい―――婚約者殿。
(終わり)