funny valentine 3
立春はとうに過ぎたのに、雪も降りそうなほどの冷え込みだった。
倉鹿の底冷えする寒さに比べれば
東京の冬は生ぬるい。
コートさえいらないと思えることもある。
でも、ここの冬を寒くしているのは気温だけじゃない。
こんなに多くの人がいて、肩が触れ合うほどの混雑の中で
誰一人、自分のことを気に留めない。
知った顔がひとつもない。
当たり前の、この乾いた無関心が冬にはいっそう厳しく感じる。
砂に埋もれていくような雑踏を掻き分けて
春海は歩き続けた。
春は名のみの 風の寒さや・・
子供のころ覚えた早春賦を口の中で紡いでみる。
この歌の似合う倉鹿は、故郷は、はるか遠い。
この時期は街中の音楽がラブソングになっているんじゃないかって思う。
それとも、聞こえる音楽がみんなラブソングに聞こえるのかもしれない。
ふと足を止めたレコード店から流れてくるのは
父が持っているシナトラの古いレコードに収められていた曲。
「my funny valentine」
アレンジがだいぶ違ってなんか大人っぽい。
春海、こういうの好きかもしれないな・・・
いるかは躊躇うことなくその店に入っていった。
エレベーターを使わないで階段を上った。
自分の靴音を聞きながら、ゆっくりした歩みで。
踊り場から見える海が夕陽色に染まってきらきらしている。
春海も、こんなふうに足を停めることがあるのかな・・・
時々、思う。
春海の見るすべてを見たいと。
そうすれば、彼の心のもっと奥に入っていける気がして。
あたし、すごい欲張りだ。
春海が、好き。
とても、好き。
そんな気持ちは彼と離れているこんな時間のほうが感じる。
いつまでも、一緒にいてね。
いつまでも、変わらないでね。
そのままのあなたが、とても好きだから―――
吹きさらしの風は冷たいけれどもうしばらくこうしていたい。
最近知ったこと。
春海の手は意外と冷たい。
手を握ると、いつもあたしのほうがあたたかい。
春海はつめたいだろ、といって離そうとする。
あたしはその手を両手で捕まえて少しずつ体温を移していく。
30センチ下から見上げた春海の顔は少し、紅かった。
こんなふうに手が握れるから、寒い冬も好きになった。
体温が一つになるって、素敵なことだって思った。
301号室。
鍵を開けてはいる、という行為がひどく新鮮だった。
鍵穴を探し当てて鍵の向きを正しくしてひねる。
ただそれだけのことなのに。
カチャッと錠の開く音がして、
誰もいないはずなのに「お邪魔しまーす・・・」と言って入っていった。
誰もいないはず、なのにエアコンがついていて部屋の中はあたたかい。
タイマーでもかけていたんだろうか。
春海の、そうしたささやかな気遣いが舞い上がるようにうれしい。
徹もまだのようだ。
春海が帰ってくると言っていた時間にはまだだいぶ間があった。
暖かな部屋の空気が眠気を誘い、いるかはソファに身体を横たえていつの間にか寝入っていた。
「・・・ただいま。」
インターホンには返事がなかった。
鍵はかかっていない。
無用心だな・・・一応女の子なんだし一人でいるときは鍵かけるようにいってやらなくちゃ・・・
「いるか?」
案の定、名前の主はソファですやすやと眠っていた。
部屋から毛布を取ってきてそっとかけてやる。
軽き身じろぎしても、起きる気配はない。
ひざを折って、息がかかるほど傍によっても眠ったままだ。
「・・・ただいま。」
これが、言いたかった―――
そして彼女にお帰り、といってもらえれば
外の寒さも
一日の疲れも
何もかも忘れられるような気がしていた。
このよく寝る姫からはまだその言葉をもらえないけれど
駅からの帰り道、走りたくなるほど早く会いたかった。
エレベーターを待つのがまどろっこしくて
階段を一段飛ばしで駆け上がってきた。
―――息は、もちろんあがっていない。
ぴくりとまぶたが動く。
気持ちいいんだから邪魔しないで、とでも言いたげに眉根を少し寄せる。
長いまつげも細い眉もうっすらと紅を差したような頬も
閉じ込めてしまいたいくらい可愛いけれど―――
枕の代わりにしている手の甲には―――ヨダレがついていた。
たのむから、そんな顔して人前で寝てくれるなよ・・・
おまえの寝顔を見ていいのは、おれだけだからな―――
「・・・ん・・・」
「・・・目が覚めたか?」
「あ・・・あれ春海?おかえり・・・いつのまに・・・
起こしてくれればいいのに・・・って何で笑うのっ。」
「お前・・・顔にあとがついてる。・・・ヨダレもついてる・・・ここんとこ。」
ハンカチで口元を拭ってやるといるかは子供がむずかるように顔をしかめた。
そういえば腕を枕にして眠っていたっけ。
手で触れると袖口のあとが頬に少し残っている。
「や、、やだぁ・・・にしてもっ!
いきなり顔見て笑うなんて失礼じゃん!」
すぐに跡は消えたしもうヨダレもついていないのに
いるかは自分のハンカチで顔を半分隠すようにしている。
小花を散らしたパステルイエローのハンカチからは
少し甘い花のような香りがした。
時々思う。
彼女は、こんなふうに少しずつ変わっていくんだなと。
キャラクターもののハンカチは縁にレースのついた花柄になって
いつの間にか香りをしみこませることを覚えて。
数年前サルか山猫のようにしか思えなかった子がいまは女にしか見えない。
すぐ紅くなってからかい甲斐のあるところはちっとも変わらないが
口を引き結んで目を伏せがちにしている表情がかわいくて、やっぱり誰にも見せたくない。
「・・・そーだよなぁ。ごめんごめん。」
ソファに居住まいを正したいるかは軽く春海を睨んで、それでもやっと目を見て言ってくれた。
「お帰りなさい。」
「ただいま。」
「・・・どのくらい前に帰ってきてたの?」
「三十分くらい前かな。」
「そんなに前?何で起こしてくれないのよぅ・・・」
「あんまりお前が気持ちよさそうに寝てるからさ。」
「うん・・・なんかあったかくて気持ちよかった。
毛布もかけてくれたんだね。ありがと。ところで・・・今何時?」
「7時前。今日は飯食ってくだろ?」
「ん・・・徹君は?」
「あいつは正美ちゃんに呼ばれたって言ってたからそっちでご馳走になってくるんじゃないか?」
「へ?そうなんだ。」
―――そうだ、今日はバレンタインデーだった。やったじゃん、徹くん。
てことは春海と二人だけ?
なんか緊張するなぁ・・・
いるかの思いをよそに春海は用意されていた食事をてきぱきと温め直した。
「手伝おうか?」
「・・・座ってろ。」
「・・・ふぁ〜い・・・」
まだまだ、信用がないいるかであった。
「あ〜おいしかったっ!ごちそうさまっ!」
「もう、いいのか?」
「うん!おなかいっぱい!」
幸せそうな顔。
自分は、何かを食べさせること以外で
彼女にこんな笑顔を作ってやることが出来るんだろうか・・・?
改めて考えると・・・あまり自信がない・・・
「そういえば春海、渡すものがあるって言ってなかったっけ?」
「ああ。・・・」
実は、ずっといつ渡そうか迷っていた。
眠っている彼女の手の中に入れておこうか、
目の前においておこうか。
しかし。
おなかを満たさないことには何事も始まらないこの恋人のことを考えると
とりあえず何か食わせねば、と思った。
時間は、たっぷりある。
徹は9時前には帰ってこないだろう。
彼は弟ながら、もののわかったやつである。
春海はかばんの中から水色の小さな箱を取り出した。
「いるか、うちの鍵は?」
「あ、玄関においてあるよ。」
「持ってきて。」
「うん・・・?」
「あけてごらん。」