幸運だった、と思ってしまった。
もちろん彼女の両親の身に起こったことについてではない。
大学入試も終わり、もう授業らしい授業もなくなって
卒業式を待つばかりになっていたこと。
いるかの両親ともに事件に巻き込まれたせいで
現地に付き添える保護者が近くにいなかったこと。
もちろん芹沢家の彼女の叔父叔母は付き添って赴くことを申し出てはいたが
あらかじめ僕に相談してくれていてくれたことも幸運だった。
当然、僕が一緒に行くつもりだったから。
いるかは飛行機に乗っても一睡もできる様子じゃなく
ぎゅっと握ったままの拳は開かれることもなく。
周囲の雰囲気は重たいものなのに、ほんの少しのささやきにも過敏に反応される。
戦地に赴くというのはこんな感じなのかもしれないと春海は思った。
ニューヨークのJFK空港で乗り換えても依然ぴりぴりした空気につつまれたまま
彼らはサンサルバドルへ到着した。
案内されるまま対策本部ともなっている大きなホテルへといざなわれる。
旧植民地時代の雰囲気を色濃く残したその建物は
そこにいたるまでも風景の貧しさを裏切って
白く宵闇に浮かび上がるように彼らを迎えた。
―――ですので、現時点ではにらみ合いのまま膠着状態であるといえます。
赤十字による食事や医薬品の差し入れは行われていますが
政府関係者による面会はまだかなわず
犯人側の要求―――政治犯の釈放―――にも応じるとの回答は得られていません。
まだ若そうな書記官の説明を受けて、疲労の度合いも濃い家族たちは
それぞれに割り当てられた部屋へ引き取っていく。
いるかと春海には中で行き来のできる扉のついた二部屋が宛てられた。
実際には同い年の彼らだが知らないものからみれば春海はずいぶん年上に見られる。
さらに春海は意図的に大人びた風を装ってもいた。
社会人に見えなくもなかっただろう。
保護者のごとく振舞うのに奇異の目はどこからも感じられなかった。
部屋に落ち着いてようやくいるかも息がつけたようだった。
ふぅ、と大きなため息をつく。
息を潜めて話すことさえままならなかった緊張が
ほぐれていった。
「疲れただろ、シャワーでも浴びてはやく休めよ。」
「……ん」
そうは言うものの、いるかは腰を下ろしたソファから立ち上がろうとしない。
何か話したげな雰囲気を感じて
春海はいるかの横に腰掛けた。
大丈夫だよ、というように依然握られたままの拳を上からそっと包んだ。
「……何度かね、父さん言ってた。
自分は公僕だから、もし外国で何か事件に巻き込まれても
民間人を優先的に助けなきゃならない。
もし助かるとしてもそれは一番最後なんだって。」
「それは……」
「あたし、子供のころから一人残されるのがいやで、
父さんたちが出かける間際にそんなこといわれても
いっつもふてくされて、ろくに返事もしなかった。
だけど、まさか、こんなことになるなんて考えてもみなくって……」
「いるか、」
「どうしよう、どうしたいいんだろ。あたし、こんなところでなにができるんだろ。
ただ待ってるだけなんて……イヤだよぅ……」
ぐっと拳を握ったまま、
いるかはぼたぼたと涙をこぼしていた。
ああ、悔しいんだな、と思った。
こんなとき、悲しんだりしないで悔しがるのが、いるかなんだ。
こわばってる体をそっと抱き寄せて
腕の中でなかせてやることしか、春海にはできなかった。
春海もまた、考えていた。
なにが、自分に、できるのか。
天井のファンがゆっくりと周り
白い蚊帳のかけられたベッド。
上質のリネンは糊がききすぎるのかこわばって本来の肌触りの良さを損なっている。
よどんだ風。
どこからか硝煙の香りが運ばれてくるような気がした。
街灯の明かりは一部のメインストリートを除いて乏しく
さびしげな青白いひかりがところどころ見えるだけだった。
いかがわしさも不穏な空気もすべて熱帯の漆黒に呑まれて、
サンサルバドル―――聖なる救世主という皮肉のような名前の街は
夜に包まれていった。