花々のささやき
百合
其ノ壱
「春海、
起きて……」
何処からかいるかの声がする。
百合の噎せ返るような香も。
夢とも現ともつかぬまま、春海はゆっくりと目をあけた。
「おはよう。」
ベッドの脇にはいるかが座っている。
目を覚ました春海を見つめてやさしく微笑んでいる。
「春海ったら無用心だよ。
玄関の戸も表の門も鍵かけないで開けっ放しじゃない。」
「いいんだ……ここは東京じゃないからな……それに……」
「それに?」
いるかは言いよどんだ春海の顔を覗きこむ。
どこか楽しそうだ。
「……こういう嬉しい訪問者もあることだし……」
皆まで言わずいるかの腕をつかんで自分の上に抱き寄せた。
「春海ってば・・ダメだよ。」
「なにがダメだって?」
「……ほら、起きてよ。」
いるかは春海の腕を引っ張って上体を起こさせた。
花瓶にはあでやかな白百合が数本活けられている。
「あの百合は?」
「今朝起きたらね、ウチの庭のがたくさん咲いていたの。
あんまり綺麗だからもってきちゃった。ね、春海、お墓参りに行かない?」
「え?」
「春海のお母さんの。お彼岸まではこっちにいられないし、倉鹿にきてご挨拶をしないのもなんだしね。
百合は下にまだたくさんあるの。ね、一緒にいこ?」
いるかはベッドから体を起こして春海を促す。
「あぁ、わかった……今着替えるよ。」
「あたし、下に行ってるね。ご飯食べるでしょ?あたしもまだなの。
なんか軽く作るから。」
「うん……冷蔵庫にあるものとか、適当に使えよ。」
「わかった。じゃ、着替えたら下に来てね。」
するりと春海の腕を逃れているかは部屋を出ていった。
パタパタパタ、とかるい足音が廊下に響いた。
混濁した意識が徐々にはっきりしてくる。
目覚めて、一番に目にするものがいつもお前であったらいいのに―――
眠りに落ちる前の、その日の終わりにいつもお前を見つめていたい―――
そんな望みを抱くようになったのはいつからだろう……
婚約―――
そんな約束が何だというのだ。
もしかして、が、いつか、に変わっただけのことだ。
そんなもの―――何になるというんだ―――
春海は着慣れた綿のシャツに袖を通し、手早く身支度を整えた。
ベージュの麻のワンピースを着たいるかが台所に立っている。
包丁の立てる音のリズムが少したどたどしい。
肩に少し力が入っている。
集中しているだろう、春海の気配に気づかない。
長くなった髪をゆるくまとめた後姿はどこか新鮮だった。
「いるか……」
脅かさないようにそっと声をかけた。
「あ、早かったね。もうじきできるからちょっと待ってて。
目玉焼きにするけど春海卵いくつ?」
振り返った笑顔は少しはにかんでいた。
何気ない風を装おうとする、彼女の心のうちが手に取るようにわかる。
「ひとつ」
「え、ひとつでいいの?あたし3コは食べるけど」
さも意外、といった表情に思わず苦笑してしまう。
「おまえは相変わらずよく食うなー……」
「これでも前に比べれば少食になったんだけどな。」
「……もとがもとだからなぁ……」
「はるうみっ!ゴハンいらないのっ!?」
「あっ、いただきます!」
下から軽く睨む、けれどその口もとは笑っていた。
結婚生活の真似事のようで、少し気恥ずかしい。
目玉焼きの蒸し加減は藍おばさんにも聞いていたのだろうか。
驚くほど、いつも朝に食べるものと似通っていた。
「おまえ……」
「ん?おいしくない?」
「いや、……いつの間に覚えたんだ?」
「やだなぁ。あたしだって少しくらいはできるよ。
……って言ってもうちで何度も練習したんだけどね。」
そういっているかは少し照れたように笑った。
「……どう?おいしくない?」
「一応、焦げてはいないよね?」
「卵もつぶれてないよね?」
「形もそう悪くないよね?」
「おまえ……」
矢継ぎ早に言葉を繰り出す彼女が本当に不安なのがわかる。
器用な、とは言いがたい彼女が自分のためにいろいろ練習したのだと思うと
それだけで顔がほころんでくる。
「……すごく、うまいよ。それにおいしい。」
「よかったぁ……」
いるかな心底ほっとしたようで、ようやく自分の朝食に手をつけ始めた。
「あ、お線香はあたし持ってきたの。」
「え?」
「……ほらね。」
そういっているかは濃紫色の縮緬の風呂敷の包みを解いた。
鳩居堂、と記された桐の箱のふたを取る。
清靄―――
包みには、そう書かれてあった。
ふわりとひかえめな、白檀の香り。
「……いい香りだな……ありがとう、わざわざ。」
「ううん……行こう。」
―――あたしができるのは、これくらいだから―――
いるかはその言葉を飲み込んだ。
東京は銀座、鳩居堂前。
この店の前を通るといつもいい香りがした。
香袋のにおい、しばらくあけられていなかった箪笥の引き出しの香り。
その香りに引き寄せられるように、何度か店に入ったことがあった。
けれど今日用事があるのは、今まで足を踏み入れたことのなかった二階だった。
「どういったものをお探しでしょうか。」
お香がずらりと並べられたカウンターを何度か行き来したころだろうか。
店員がはじめているかに声をかけた。
「……墓前にお供えするお線香を探しているのですが……」
自分の声の低さに驚いた。
倉鹿に行こうと決めたとき、
いるかはまず春海の母の墓参のことを思った。
どんなに時間がなくても、それだけはしたいと思っていた。
でも。
花を手向けて、お線香をあげて、手を合わせる。
自分ができるのは、それくらいしかないことに気づいた。
もし、生きていらしたら―――
いろんなことを話もしただろう。
一緒に出かけることもあっただろう。
お料理を教えてもらうこともあったかもしれない。
春海の子供のころのお話も聞けたかもしれない。
なのに。
亡くなるということは―――
人がすでにこの世にないということは―――
こんなにも、取り返しのつかないことなんだ。
どうしようもない、この隔たり。
生きている自分と、なくなってしまったその人と。
このあいだはどうしたって埋まらない。
なぜ―――あなたは亡くなってしまったのですか―――
目を閉じた。
「……お線香でしたらいくつか違う香りがございますよ。
手向ける方に合ったものをお選びいただけるかと存じます。」
店員は先ほどより心なしか優しげな声になっていた。
こんな思いを抱えてここに来る人は
ほかにもいるのだろう。
桐の箱に納められた品のよい色のお香。
いくつか出してもらった中で
いるかは「清靄」と名づけられた品を選んだ。
靄の中にいるように、
今となっては彼の人の顔ははっきり思い出せない。
春海の清々しい表情の影にいるその人のことを想って
ほのかに白檀の香りのしたあの桔梗柄の浴衣のことを思い出して
いるかはその香りを選んだ。
丁寧に水揚げされた百合は玄関先におかれていた。
いるかは馴れた様子で濡れたティッシュをあてがい根元をまとめた。
それが済むと髪を解いて、鏡も見ずに手櫛で梳いて整えた。
なぜかそれは見てはいけないもののような気がして、
春海はつと目を逸らした。
「……春海?」
促すようにいるかが見つめる。
「……行こうか……」
髪に隠れるようにして、真珠がいるかの耳たぶを飾っていた。
長い石段を登り、年ふりた山門をくぐった。
水桶を手に取る春海。
時間は、ここをよけて通り過ぎるようだった。
永遠に引き込まれそうな沈黙が、
夏の気だるげな日差しの中に凝っていた。
御影石が並んでいる。
いるかはあやまたず足を進めた。
丁寧に花粉をとられた百合は山本家の墓前へ、
凛とした美しさを保ちながら供えられた。
百合の甘く白いかおり。
そして
清靄の薫り。
ゆるゆると煙はしばらく地上をさまよい、
やがて諦めたように上へ上へとのぼっていく。
うっすらと立ち上る細い煙がすっきりとした葉の緑に絡みつき、
白いつぼみへ、緩やかに反り返る花びらへと纏わりついていく。
この煙に包まれてこの世の百合があの世へと届けられたような、
そんな気がした。
徐々に暑く濃くなってくる陽射しも木々に遮られてこの山間には届かない。
影と影が重なり木陰は苔むして、やわらかく足音を消す。
―――お義母さま
いるかはそう呼びかけた。
義母、と呼ぶにはまだはやいけれど
心の中ではそう呼んでもいいような気がした。
目を閉じて、手を合わせて。
いるかです。
また、参りました。
ほのかに百合の香りを感じる。
暗闇の中に、かぼそい道ができていた。
彼岸と此岸が、かすかに結ばれたような。
ありがとうございます。春海を生んでくださって。
わたし、なんとか春海に寄り添えるよう努力しますから。
春海をまもってあげられるように、強くなりますから。
どうか、見守っていてください
白檀の香り。
扇子の香りが移ったものだろうか。
徹くんに渡されたあの浴衣には、確かにこの香りが残っていた。
そして、8歳のあの夏にも、確かに彼の人はこの浴衣を着ていたように思う。
そして、同じ香りがした―――
わたし―――小さい頃お目にかかったこと、忘れてません。
あの時わたしはとっても悲しくて、
寄りかかって甘える人が誰もいなくて、
ただ泣くしかありませんでした。
……つらいときや寂しいときはね、何かを一所懸命やるといいのよ……
あの後もずっと、あなたの言葉は心に残って……
春海とわかれて、東京へ帰ったときも
この言葉を頼りに勉強して
一緒の高校へ行くことができたのかもしれません……
―――わたし、お話しなきゃいけないことが
まだまだたくさんあるような気がします。
春海のことも、わたしのことも。
また、来てもいいですか―――……
ふと目を開けると
供えた百合がいるかを見下ろしていた。
凛として楚々として、甘くやさしげな花が、
記憶のかなたに眠る人の面影に重なって見えた。
―――お母さん
また、来ました。
二人で。
小さかった徹も中学生になりました。
僕と入れ違いに、里見学習院へ。
お母さんの替わりはとてもできませんでしたが
素直な、やさしい子に育ってくれました。
お父さんとも、このごろは少しずつ話せるようになってきました。
僕は、もう大丈夫です。
彼女がいますから。
安心してください。
また、来ます。
目を開けると、いるかはまだ手を合わせていた。
彼女が手を解き振り返るまでの間が、ひどく長く感じられた。
「帰ろうか。」
「……うん・・」
そうは答えたものの、いるかはまだこの場所に心を残しているようだった。
母がこの世にないことを、自分より悼んでいるような―――
睫毛にほんの少し残っている涙に
彼女の心の深さをみたような気がした。
明るく溌剌とした表情の下にたまに見せる
こんなやさしさに触れるとき、彼女の心の気高さを思う。
自分の中の一番深いところまで降りてきて
そっと寄り添っている彼女を見つける。
―――ありがとう―――
一陣の風に少し乱された前髪を押さえるいるかの白い指。
春海は指先で軽く梳くようになおしてやった。
微笑んで、首を少しかしげるいるか。
耳元の真珠が、また、髪の間からのぞく。
石段を二人で並んで降りる。
白壁の照り返しが少し眼に痛い。
短い影が重なる。
人気のない真昼の道。
聞こえるのは二人の靴音、そして眠たげな蝉の声。
「……何を話していたんだ?」
「え?」
「いや、ずいぶん長いあいだ目を閉じてたろ。」
「うん……まあね。……ねぇ、春海、覚えてる?」
「ん?」
「小二のとき、あたし、一度春海のお母さんに会ってるんだよ。」
「ああ、そうだっけ。おまえが覚えてるってコトのほうが意外だよなぁ。」
「また、春海ってばそんなこという……」
いるかは口を尖らせて、少し機嫌を悪くしたふりをして立ち止まる。
春海は振り返り、微笑んで手を差し出す。
「ごめん。……ほら、おいで。」
不承不承、という面持ちで、それでもいるかはその手をとった。
怒らせたいわけじゃない。
不機嫌にさせたいわけでもない。
ただ
軽くでいい、謝りたいのだ。
理由がなくては、まだ、彼女に触れることができない気がしている。
手をつなぐのにも肩を抱くにも
何か、きっかけがほしくて
つい、こんな口調になる。
「……でね、そのとき教えてもらったの。
寂しいときや辛いときは
何かひとつのことを一生懸命やるといいのよって。」
「……おふくろがそんなことを?」
「うん。あたし正直なところ、
もう春海のお母さんのお顔ってあんまり覚えていないんだ。
でもね、その言葉だけはずっと忘れられなかったの。」
「……」
「春海のお母さんは、歌を歌うっていってらした。
あたし、あの夏は泳げるようになろうって一生懸命やろうって思ったけど……
高校に入って軽音で歌うようになってから、少しわかるような気がしてたんだ……
気持ちが少し、軽くなるっていうか……何かとひとつになれるっていうか……
あんまり上手く言えないけど。」
「そう、か……」
こんなふうに―――
思いがけないところで、母はまだ生きているのだと感じる。
肉体の滅びることは死ではないと、どこかで読んだ。
忘れ去られることが、本当の死なのだと。
―――お母さん
今一度、春海は呼びかけた。
空に向かって。
あなたは、亡くなってはいなかったのですね。
こうして、いるかの中に―――
色を失って眩しすぎる太陽に春海は目を細めた。
〔其ノ弐〕
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