百合
其ノ弐
「やっぱ
り……」
「え?」
「……いいかおりがする……」
「……・百合の香りじゃないの?」
「いいや……違う。」
「じゃ、お線香の香りとか?」
「じゃないって。あのかおりじゃない……」
外で軽く食事を済ませ、どこによることもなく二人は春海の家に帰ってきていた。
「じゃあ……あれかなぁ……」
「あれって?」
「でも、そんなに強く残ってないでしょ?」
「ああ……このくらい近寄らないとわからない……それに……なんか覚えがあるんだ、このかおり……」
薄くといたおしろいのような香り。
やわらかな棘を含む花の香り。
……ばらの芽の 針やわらかに……
子規の歌のような……
母に手を引いてもらって歩いていたころ
袖口からこんな香りがしていたように思う。
「……そうかもしれないね。」
「え?どういうことだ?」
「これはね、春海のお父さんにいただいたの。
春海のお母さんにあげたことのあるものだって、いってらしたよ。
いいかおりだけど、あたしにはちょっと早い気がして外につけていく気にはなれなくってさ。
だからお風呂上りとか、少しつけて寝るの。
昨夜のがまだ残ってる
んだね。」
―――お若いあなたには少し早い気もするのですが
いつかこの香りのにあう女性になられますように―――
「……親父が、そんなことを?」
「うん。なんだ春海知らなかったの?」
「……」
「なんかね、名前も気に入ったの。」
「ふーん……何て名なんだ?」
「MITSOUKOっていうの……あたしね、なんか春海の名を連想した。
漢字をあてると美津子、かなあって思って。
津、は港の言い換えでしょう?美しい海、春の海、って具合でね。……思い込みだけど。」
「そうか……なるほどな。」
MITSOUKO―――その名なら聞いたことがある。
クーデンホーフ・カレルギー伯爵に見初められ
異国に嫁いだミツコ―――青山光子の話。
その子供にはパン・ヨーロッパ運動でその名を知られたリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーがいる。
ECの母体となったその思想はクーデンホーフ・カレルギー全集となっており、翻訳は父の書架にも収まっていた。
なるほど、父らしい―――
父は物を選ぶ基準がはっきりしている人だから、
母へ贈る物もそうやって決めたのだろう。
大ハプスグルグ家もその落日のときにあり、宮廷文化も爛熟しきっていたであろうウィーンに一人、東洋人として飛び込んでいったミツコ。
確か伝記も出ていたと思うが、読んだことはない。
ただ―――その姿がなぜか母に重なる。
背筋を伸ばして、遠い目をして、少しさびしそうで。
「……春海?」
いるかの声が薄紅色を帯びている。
誰かに聞かれることをおそれているかのように、そっとささやきかける。
「ん……なんでもないよ。」
曇りのない瞳につられるように、追想はかき消えた。
「……だからね……」
―――いつも春海を想いながら眠っていたの―――
いるかは背伸びをしてやっと届く春海の首筋にキスをした。
少し開けられた窓から風が入ってきてはカーテンをはためかす。
そのたび、夏の午後の日差しが少し部屋に紛れ込む。
テーブルに置かれた真珠のイヤリングがわずかに転がる。
閉じられたカーテンを透かして入ってくるのは淡い、けだるげな光ばかり。
そんな光に包まれて、二人はまどろんでいた。
風が入ってくるたび空気が揺れて、二人の元に百合の香りが届けられる。
けれど春海の探しているのはもっと淡い、もっと儚い、それでいて懐かしいかおり。
「……ん……」
「少しは眠った?」
「うん……なんか気持ちよくて……春海は?」
「おまえの寝顔を見てた。」
「え?ずっと?」
「ずっと。」
「もう……やだなぁ……」
そういっているかは春海の首に腕を回した。
ふぅ、と小さなため息がもれる。
「疲れたのか?」
「ううん……そうじゃない……」
「どうかした?」
少し心配そうに自分を見つめる春海。
そのやさしさに包まれて、心を残りなく預けてしまいたくなる。
うまく言葉にできそうにないけど、言ってみよう……
「……少し、怖いような気がするの。
こんなふうに毎日一緒にいることに慣れてしまうと
東京に帰ってからどんなに寂しいだろうなって。
今がとても楽しいから、とても幸せだから、なんだか、こわくて……」
「いるか……」
ほんの少し涙の混ざった浅葱色の声。
そっと見せてくれた彼女の心はとても壊れやすいもののように思えた。
できることなら、そんな切なさはふりはらってやりたいけれど―――
「……なら、一緒に暮らす?」
少し驚いたようにいるかは目を丸くした。
けれど、小さく首を横に振った。
わかっていた。
彼女がそう答えるだろうということは。
周囲の思惑で婚約こそしているけれど、結婚は自分たちの問題だと思っている。
どんなに好きでもどんなに愛し合っていても、今はまだそのときじゃない。
そして結婚せずに一緒に暮らすことは自分たちらしくない―――
今はまだ、我慢しなくてはならないのだとわかっているのだ。
百合の蕾は朝より開いている。
唇がほころぶように、少しずつ。
花に見つめられているような、そんな気がする。
―――100年待ってくれますか―――
こんな言葉が、春海の心に風のように入ってきた。
香りとともに訪れたその一節は確か「夢十夜」―――
100年待ってくれますか。
100年ではないけれど
自分は待った。
100年にも等しい時間を待った。
長かったのかもしれない。
長すぎたのかもしれない。
けれど
ただ待つしかできないということも
ただ見守るしかできないということも
わかっていた。
風に当てて
日光を含ませて
自然にほころんでくるのを待つしかないと。
風にも当てず
腕の中に閉じ込めては
ひよわな、小さい花しか咲かないことも。
守ってやりたいと
強く抱きしめすぎては
その命をも奪ってしまうと。
ふくらんで、今にもほころびそうな蕾。
その中では滴るような香が時を待っているに違いない。
そしてためらいがちにゆっくりと開いていく―――
「……春海のお母さんって……」
「ん・・?」
「この香りの似合う人だったんだろうね……」
遠い日に別れた幼馴染を懐かしむように、いるかは言った。
「……そう……かもしれない……あんまり覚えていないけど……
普段はつけていなかったと思うけど、行事のときとか出かけるときとか……
やさしい母だったけど、ときどき、寂しそうにしてたこともあったっけ。」
当たり前のように答えている自分に少し驚いた。
母のことをこんなふうに人に話したことはなかった。
「……お父さんは、お忙しい方だもんね……」
「おれがいても、徹がいても、それでもやっぱり寂しかったんだろうな。
ときどき母がすごく遠く感じることがあったよ。
母は決して親父を悪く言わなかったけれど、
おれはめったに帰ってこない親父を恨んだこともあったっけ……」
「そんな……」
話すことで、少し心が軽くなっていく気がする。
いままで誰にも―――徹にも、いるか自身にも話してこなかったのに。
「いや……子供心にわかったからさ、おれでは母の寂しさを埋めてやれないってことをね。」
「……もしかして、少し後悔しているのかもしれないね。春海のお父さんは。
そしてその埋め合わせにあたしにいろいろ親切にしてくださるのかもしれない。
……あたし、好きだよ。春海のお父さん。
あまり表情を変えない方だから、何を考えてるのかわからないって思うこともあるけど。
……時々思うんだ。
あたしを通して春海や、なくなったお母さんに手を差し出しているんじゃないかって。
詫びるとか、謝るとかじゃなくってさ、なんかこう……近づきたいと思ってるっていうか……」
「なんか、おまえのほうが親父のことをわかってるみたいだな。」
「えっ、まさか、そんなことないよ。良くしていただいているとは思ってるけど。」
あわてたように答えるいるかに微笑まずにはいられなかった。
そう―――なのかもしれない。
父一流のやり方で、手を差し伸べているのかもしれない。
自分に、そして母に。
決して人に媚びない父。
他人に対しても、子供である自分に対しても。
けれど、その峻厳な心もいるかの朗らかさの前には柔らかくなるのだろうか。
―――100年待ってくれますか―――
自分が死んだら、埋めてください。
そしてその墓の傍らで
100年待っていてください。
きっと逢いにきますから―――
亡くなる間際、母は父に何を話していたのだろう。
病院の廊下は薄暗くて、
非常口の緑のランプが妙に生々しかったのを覚えている。
カツーン カツーンと廊下に響く誰かの靴音が時間の過ぎていくのを教えていた。
腕にしがみつく徹の手のひらが冷や汗でじっとりと濡れていた。
かすかに開いた病室のドア。
母は父に何か話していた。
意識がなくなったのは、その直後だった。
だから、母の最期の言葉を聞いたのは父ということになる。
だが。
何を話していたの、と聞くことはなかった。
痛々しく包帯を巻かれた母の白い腕が
ゆっくりと父の頬に触れた。
なでる、というより、触れる、というほうが当たっていたかもしれない。
扉を背にするように立っていた父の表情は見えなかった。
もしかしたら父は泣いていたのかもしれない。
あの父の泣いたところなど想像もできないけれど―――
母の葬儀の後、しばらく父は倉鹿に滞在していた。
人の出入りのあわただしさがひいた夜、父は一人で広縁のいすにかけ庭を眺めていた。
母がよくそうしていたように。
その背中を自分は見ていた。
声をかけることはなかった。
話したいことは何もなかった。
何をしゃべったらよいのかわからなかった。
父には父の、母と過ごした時間があった。
そしてこれからも、父は一人で母と向き合っていくのだろう。
自分はその時間の中には入っていけないのだ。
この家の中心にいたのは母であったと、そのときはじめてわかった。
自分でも、徹でも、父でもなく。
その中心を失ったいま、自分と父をつなぐものはほとんど残っていないように思われた。
「……春海か……」
気付くと、父がこちらを見ていた。
「お父さん……」
父は何か言いたげだった。
だが、二人とも言葉をうまく見つけることができなかった。
沈黙の中の戸惑いが二人の心を落ち着かなくさせた。
そして、必要以上のことはしゃべらないまま
長い年月を過ごしてきた。
それまでも不在がちの父ではあったが
心なしか母が亡くなってから、以前よりいっそう家に寄り付かなくなった。
父が見つけてきた住み込みのお手伝いの藍おばさんはいい人で、
母の代わりの家事は何でもこなした。
幼くして母親を亡くした自分たちに注いでくれる愛情は
雇い人としての義務をはるかに越えていて、
まるで実子のようにかわいがってくれた。
実際、母がいなくなっても生活は何一つ変わらなかった。
きっと逢いにきますから―――
父はいるかの中に母の面影を見出しているのだろうか。
似たところなどどこにもないと思えるのに。
いや―――似て、いるのだろうか。
100年たったら逢いに来ると
100年たったらまた逢えると
そう信じているのだろうか。
母に贈った香水を贈り
いるかの中に亡き人が再び姿をあらわすのを見守っているのだろうか。
思い出した。
「夢十夜」を見つけたのは父の書架だった。
そしてその冒頭、第一夜には、確かに涙のあとがあった―――
そして気がつく。
足元に白百合の茎が伸びてきて
その花が開いたとき―――
「……少し親父の気持ちがわかるとすれば、おまえのおかげなんだ。」
「え?どういうこと?」
「少しわかったからさ。
おまえが急に東京に帰るってわかって、いきなり別れを突きつけられるってことがどんなことか。
これからずっと続くって信じてた時間
が急に断ち切られるってことがどんなことかわかって、少し親父の気持ちがわかった気がしたよ。」
「春海……」
「今となっては懐かしいけど、あの時は本当につらかったんだ……」
「ごめん……」
いるかは少し俯く。
その肩をそっと抱いた。
「おまえのせいじゃないよ。おまえだってつらかったろ?」
「うん……すごく。
いつか帰るってことはわかってたけど、こんなに早いとは思ってなかったからね。
あたしも学んだかもしれないな。あの時。
そう……そ
のときそのときを大切にしないといけないんだって。」
この時間はかけがえのないもの。
二人ですごす時間は何より大事。
もう、躊躇わない。迷わない。
そんなことで、時間を無駄にはしない。
自然にこぼれる笑みが お互いの視線を捕らえて離せない。
今なら、聞けるかもしれない―――
「……そう……ずっと気になってたことがあったんだ……」
「?」
「……教えてくれないか。」
「いいけど……なに?」
珍しいこともあるもの、とでも言いたげな表情でいるかは春海の言葉を待った。
ずっと心に引っかかっていた。
あの夏、心の底に沈めたまま聞けなかった。
「……中三の……あの夏、どうしておれに何も言わずに東京に帰っていこうとしたんだ?」
風にあおられて、真珠がテーブルの端から落ちた。
板張りの床に真円ははじかれて、軽やかな音を続けざまにたてた。
首を擡げる百合はその香りで彼らを撫で包んだ。
ふと訪れた沈黙の中にその香りだけが浮かび上がっていた。