あの夏―――
別れることに、最後まで正面から向き合うことができなかった。
辛さを受け止めるだけの強さがなかった。
そしてそれは今も―――
いるかは
春海の胸に身体をうずめた。
泣けるものなら泣いてしまいたい気分だった。
瞳がさざ波だっていくのを感じる。
「あたし―――あたしね、春海とただの友達になってお別れしようって思ってた……」
「えっ?」
春海は驚いているかの身体を引き剥がす。
そして顔をじっと見つめる。
「本気で?」
「うん―――そう。そう思ってた……」
いるかは少し涙声になっていた。
「だって、東京と倉鹿はあまりにも遠くって。
でも、友達なら離れても友達でいられるでしょ。
でも、付き合ってる二人にはお別れじゃない。
あたし、春海とお別れしたくなかった。
ずっと、どんな形でもいいから、付き合っていたかった。
だから、中途半端なままお別れするよりは「友達」になろうって……」
「おまえ……そんなことを……」
「ごめん、思い出したらまた悲しくなっちゃった……」
四年も前のことなのに、春海の腕の中にいるのに、それでも思い出すと胸が痛む。
「……だってあたしたちは付き合おうっていって
付き合い始めたわけじゃなかったもん。
あれこれ考えてたらあたしたちって友達なんだか何なんだかよくわかんなくなって。
だからいっそみんなと一緒に考えようって、そう思ったの。」
「……」
「なんか春海はいつも考えてることがわからないし
そーいう雰囲気もないし、あたし……」
言い出してしまうと堰を切ったように言葉がとまらない。
ほとんど思い出すこともなくなっていたことなのに
こんなにも鮮やかに覚えていることが不思議だった。
あの日々に感じた、同じ夏のにおい。
時の止まったような街並。
変わらない春海の家。
それらすべてがあのころに戻ったような錯覚をもたらす。
やがて春海は表情をやわらかくしてつぶやくように言った。
「おまえ……ほんっと鈍感だからなぁ……」
深々とため息をつく。
「・・え?」
「おれは……いつだっておまえから目が離せなかったよ。
いつだっておまえに触れたいと、そう思ってたさ。
だけどその企てはおまえのせいで
10回に一回くらいしか成功しなかっただけのことだ。」
「え゛、そうなの?」
「そうだ。」
やれやれ、といった春海の表情。
少し素直になりすぎたとおもっているのだろう。
口元を引き結んでいる。
けれどその視線は甘くやさしく彼女に注がれている。
「……」
「……」
どちらからともなく笑いが漏れる。
「……なーんだぁ……悩んで損したなぁ……」
「おまえ……もしかして今までずっと悩んでた?」
「う、ううん、そんなことないけどさ……やっぱちょっとひっかかってたかも。
今でも春海のことよくわかんないって思うことあるもん。」
「そういえば……こんなふうに話したことなんてあんまりなかったかもしれないな……」
「何年も一緒にいるのにね。」
「しかも婚約してなかったっけ?」
「そーいえばそーだっけね……」
二人はまた顔を見合わせて、おかしそうに笑った。
「親父も、あれで趣味はいいな……」
「え?」
「この香り、おまえによく似合ってる。」
首筋に感じる春海の柔らかな髪がくすぐったい。
うぶげを震わせる彼の息遣いが甘ったるい。
「でもさ……お母さんの香りでしょ?いやじゃない?」
「いやじゃないさ。確かに少し落ち着いて大人っぽいけど……
どこか凛として、それでいてものやわらかで……お前によく合うよ……」
「春海……」
どう反応してよいのかわからないように、いるかは少し頬を染めた。
その言葉はこの香りに向けられたものだろうか。
それとも自分に向けられたものだろうか。
湯上りにはたく白粉のようなとらえどころのないやさしい香り。
浴衣の袖口からこぼれる微かになまめいたくゆり。
封を切ったときになぜか感じた懐かしさ。
夜、この香りを付けると包み込まれるようなやさしさを覚えた。
部屋の片隅では開きかけた百合が二人をそっと見つめている。
夕闇が忍び込んできた部屋の中、百合の白さが浮かび上がっている。
母親の香り―――
自分で言った言葉だったが、何かが引っかかった。
記憶の深いところで眠っていた香りが、ひとつ呼び覚まされた。
小さい頃―――
あの香りがすると、母が出かけるのだとわかった。
学校から帰る。
母の部屋の前を通る。
扉はかすかに開いている。
そしてあの香りがする。
そのまま通り過ぎようとすると、必ず中から声がかかる。
「いるか、お帰り。」
「……ただいま」
その後なんと続いても、いるかは聞かぬふりをした。
不機嫌さを隠そうともせず
乱暴に自室の扉を開け、かばんを投げ出す。
いってくるわ、と言われても返事をしない。
時にはいってらっしゃいと言えることもあったけれど、
たいていは見向きもせず見送った。
そして
母のいなくなった母の部屋に入って
まだ残っている香水の香りを求め、鏡台を探した。
すりガラスの鳩のついたきれいなボトルがその香りのもとだった。
大事なものがあるから無断で入ってはいけない、と言われている部屋に入ることはささやかな反抗の現われだった。
どんどん気持ちが荒くなって
幼いなりの凶暴さをどこかにぶつけたくなって。
その香りの瓶は外に出ようと暴れている怒りを少しずつ変えていった。
かなしさへと。
l'air
du temps
大学に入ってから第二外国語でフランス語を選択し、
その意味がわかったときは思わず口元がほころんだ。
時の流れ―――
なぜか、母らしい、と思った。
でも、やはりこの香りが呼び覚ますものは
幸せな記憶ではなかった。
この香りは母の香り、そして
母の不在の香りだった。
香りがもたらす記憶は鮮明で、
出来事よりそのときの感情を心へと映し出す。
悲しみは悲しみのまま。
憎しみは憎しみのまま。
もう、忘れたと思っていた。
離れて暮らして、大人になって、母が出かけるのを待ちわびたことさえあった。
長電話をとがめられることもない、
勉強しなさい、と言われない、
母の外出は高校になってから子供のときとその意味を変えていた。
でも―――
友達とふと立ち寄った香水売り場で
懐かしいそのボトルを見つけて
試香紙にひとふきしたとたん、
小さかったころの想いが何の前触れもなくいるかを襲った。
この香りだけは一生付けることはないだろうと思った。
春海は―――この香りで何を思い出したのだろう。
哀しい想いだろうか。
それとも、
幸せな記憶だろうか。
そうであってほしい。
お母さんと暮らした日々の楽しい記憶であってほしい。
あいまいな微笑の中にささやくような願いを込める。
春海はいるかの首筋に唇を寄せる。
脈打つあたりに、ほのかに香りが残っている。
懐かしい香り―――
だが、着けて半日以上も経つその香りは
もはや最後の力を振り絞って消えいこうとするばかりになっていた。
替わってただよいつづけるのは―――百合の香り。
風が凪いで、再び部屋の中に霧のように垂れ込めてきた香り。
墓前に供えたあの百合は、今頃母の元に届いているだろうか。
いるかが手ずから供えたあの花は今も美しく咲いていることだろう。
そして気がつく。
足元に白百合の茎が伸びてきて
その花が開いたとき―――
―――ああ、百年はたったのだと思った。
(終わり)