馨子さま作



喪失の時間










4【ブルー・オーキッド】



 翌日、いるかは精密検査を受けた。

結果は、記憶障害以外特に問題がないということで、その日の退院が決まった。



春海は、昨夜は病院には泊まらず、一旦自宅に戻った。

如月家滞在の準備もあったし、徹の事もあったからだ。

翌日のいるかの検査に間に合う時間に徹を伴い病院へと赴いた。



「よかったな、すぐに退院できて。」



「うん。徹君もごめんね、なんかいっぱい心配かけちゃったね。」



「ううん、お兄ちゃんから聞いたときはびっくりしたけど、でも、これからしばらくいるかちゃん家に泊まれるから、僕、ちょっとうれしいんだ。」



「徹、お前、遊びに行くわけじゃないんだぞ。」



「わかってるよぉ。でも・・・・」



「徹く〜ん」

背後から徹を呼ぶ少し低めだがよくとおる女性の声がした。



「あっ、葵おばちゃーん!!」

徹は、一目散に駆け出し、そのままピョーンと葵に飛びついた。



「徹のヤツ、すっかり懐いちゃったな。」

何を話しているのか、この距離では聞こえないが、二人の楽しそうな様子に春海は目を細めて言った。



「うん、それはかーちゃんも同じだよ。『わたし、息子が欲しかったの』って、うるさいのうるさくないのって・・・」



「ふ〜ん、なら孫でもいいんじゃないか?」



「へっ、孫???」

『かーちゃんの孫ってことは、あたしの子供ってことで。ってことは、あたしと春海の・・・・』



「春海、それって・・・・・」みるみる真っ赤になるいるか。

それを横目に、『とりあえず、意味は分かってるみたいだな・・・』とほくそえむ春海だった。



「ほら、行くぞ!」

春海は、まだ赤い顔をしているいるかに向かって、右手を差し出した。















 六段の如月邸に戻ってほどなくして、いるか達は二人の男の訪問を受けた。



一人は、警視庁捜査1課の佐伯。

そしてもう一人は、警視庁捜査4課の中埜(なかの)と名乗る男だった。



柔和な面差しではあるが、銀縁の眼鏡の奥から覗く目からは、やはり刑事独特の、人を奥底から見透かすような眼光を放っていた。



「警視庁の捜査4課っていえば、確か・・・」

春海は訝しげな表情を浮かべた。



「そう、通称マル暴。暴力団事件の担当課だよ。」



警視庁の刑事部は、刑事警察の調整・企画・立案を行う刑事総務課、殺人事件やハイジャックなど重要事件を扱う捜査1課、知能犯、経済犯、選挙犯罪を扱う捜査2課、紙幣偽造などの金銭犯罪や窃盗事件を扱う捜査3課、そして、通称マル暴とよばれる暴力団事件を扱う捜査4課があり、その他、捜査共助課(全国指名手配担当・他道府県警との協力事務)、鑑識課(警察犬の訓練・機動鑑識班・検死・鑑識官の教育などの担当)、機動捜査隊(通称“機捜” 初動捜査担当)、科学捜査研究所で構成されている。

(※捜査4課は現在、平成15年4月新設の「組織犯罪対策部」(暴力団等や国際犯罪組織の犯罪の取り締まりを担当)に移設)



「マル暴の刑事さんには見えませんよね。」



「ああ、こいつは変わり種でね、俺とは同期で、元々は同じ捜査1課の刑事だったんだ。本人の希望でね、4課に移ったのさ。」



「そうだったんですか、道理で・・・」



「春海、“道理で”ってどういう意味だよ。」



「いえ、昔、僕が通っていた剣道の道場にですね、時々指導しに来てくれた先生が県警の刑事さんだったんですよ。その方が話してくれたんですが、以前、ある組員が捕まってその取調室にお茶をもっていくように言われて持っていったそうなんですが、どっちが組員で、どっちが刑事か分からないくらい二人とも強面だったって話してくれたことがあるんです。その先生も当時、子供達から恐れられていたぐらい強面だったんですけどね。だからマル暴の刑事さんてみんな強面の方ばかりだと思っていたものですから。」



「あはははは・・・確かにマル暴の連中はみんな揃いも揃って怖い顔してるもんなぁ。顔で負けるわけにはいかんからな、強面の連中をそろえているってわけさ。」

佐伯は屈託なく笑ってそう言った。





「いるか、ちょっと手伝って。」

キッチンの奥から葵の声がした。



しばらくして、コーヒーの芳醇な香りとともに、葵とそれに続いているかがリビングに入ってきた。



「あっ、おかまいなく」



「たいしたものはございませんけど・・・」

葵は、そう言いながらお茶請けのクッキーを、続いているかがコーヒーをテーブルに置いた。



「どうぞ、召し上がって下さい。」

鉄之介はにこやかな表情とともに来客の刑事にそれをすすめた。



ブルーマウンテンが注がれた、マイセンはブルー・オーキッドのコーヒーカップ。

きっちりと温められたそれは、来客をねぎらうゆかしい心遣いが感じられる。



『そういえば、いるかちゃんもきちんとしたお茶を煎れてくれたっけ』

あの古風ともいえる作法は母親ゆずりなんだろうな、佐伯はそんなことを考えながらカップに口をつけた。





「捜査4課の方が一緒ということは、昨日の遺体は暴力団関係の人間だったんですか?」

春海が切り出す。



「春海、お前、相変わらず、鋭いね。」



「昨日の遺体って?」

いるかが大きな目をパチパチさせて訊く。



「いるかちゃん、昨日は君の怪我のこともあって、詳しいことは言わなかったんだが、昨日君が倒れていたあの現場にね、男の他殺死体も発見されたんだよ。」



「他殺死体!!」



「そうなんだよ。殺された男は、暴力団谷川組の組員で葉山茂、32歳。刃物で胸を一突きされていて、ほぼ即死。暴力団同士の抗争によるものだろうという見方が強まってね、だから、4課と合同に捜査にあたることになったんだ。」

佐伯はそう言いながら、葉山の顔写真をテーブルに置いた。



「ふ〜ん、昨日、佐伯さんと可児さんが病院に来たのはそういう訳だったんだ。」



「ああ、唯一の目撃者だったからね、でもそれがいるかちゃんだったなんで、ホントに驚いたよ。」



いるかはテーブルに置かれた葉山なる男の写真を手に取った。



「うん、でも、あたし全然その時の事覚えてなくって。今、写真見せてもらったけど何にも浮かばないし。思い出そうとしても、なんかぼやけるっていうか、輪郭が朧気にっていうか。でも、それも本当にあったことなのか、TVで見たのを記憶してるせいなのか、すっごくあやふやで。自分の身の上に起こった事なのに全然わかんないんだぁ。」

ふぅ、とため息をつきながらいるかは申し訳なさそうに言った。



「まぁ、昨日の今日だからね。仕方ないよ。でも、何か思い当たるようなことがあったらすぐに連絡してくれよ。それから・・・」



佐伯は語気を強めるように後を続けた。



「それから、くれぐれも身辺に注意すること!!」



「身辺に注意?」



いるかはキョトンとした表情で佐伯を見つめ返す。



「そう、さっきも言ったけど、今のところ唯一の目撃者はいるかちゃんなんだ。君が記憶を失っていることは、もうすでに、犯人の知るところとなっているのかどうかはわからないが、犯人にとって、いるかちゃんは非常に危険な存在なんだ。また襲ってくる可能性は充分にある。だから決して一人にはならない事。出来れば事件解決までは不必要な外出は避けてほしいし、もし外出するなら必ず我々に外出先を告げてほしいんだ。いいかな?」



「うん、わかった。そうする。」



『そっか、だから春海はうちに来てくれたんだ。』

いるかはそっと、隣に座る春海を見つめた。



「お家の方も何か気づいたこと、例えば、誰かに見られているような気がするとか、いつもと感じが違うとか、些細なことでも遠慮せずに連絡して下さい。」



「わかりました。お手数おかけしますが、宜しくお願いいたします。」

鉄之介は、愛娘の置かれた状況に少し青い顔はしているものの、外交官としてのプライドがそうさせるのか、努めて冷静に答えた。







「そういえば、春海、お前、中学の時、剣道で日本一になったんだって? 前の事件で、お前の名前聞いた時、どっかで聞いた事があると思ったんだ。ほら、警察の人間は剣道か柔道は必須科目だからさ、俺は剣道を選択してたから・・・・」



佐伯は、それまでの重苦しい雰囲気を払拭するかのように話題を変えた。



「えっ、ええ、倉鹿の修学院にいた時ですけどね。団体戦で優勝しました。でも、その大会なら彼女も準優勝だったんですよ。」と春海はいるかに視線を向ける。



「うん、でも、あの時はあたし、捻挫しちゃって。一本踏み込んだらもう左足がついていかない状態だったから、大将戦は準々決勝と準決勝以外一本もとってないんだよね。」



『かもめとの勝負に心残りはないけど、やっぱり男子と一緒に優勝したかったな・・・・』

いるかは、3年前の武道館での大会を思い出し、少し悔しそうな表情を浮かべた。



「へぇー、いるかちゃんも剣道やってるんだ?」



「そりゃあ、そうですよ。彼女のおじいさんは如月上野介ですよ。」



「――如月上野介!! 剣道の神様といわれた全日本剣道連盟会長じゃないですか。」

それまで、自己紹介以外ほとんど口を開かなかった中埜が身を乗り出すようにして驚きの声をあげた。



「父をご存知でしたか?」

鉄之介は相変わらず微笑を湛えて中埜に視線を向けた。



「ええ、剣道をやっている人間で、如月上野介先生を知らない人はいないでしょう。」



「先程も言いましたが、警察は剣道か柔道が必須科目としているんですが、そのどちらかは、警察学校のときに選択するんですよ。だから私は、警察に入ってから剣道を始めましたが、中埜は幼いころからやってましたからね。警視庁の代表で何度も全日本で優勝してるんですよ。」

佐伯が、まるで自分のことのように誇らしげに言った。



「全日本で何度も優勝? ――って、もしかしたら、中埜さんて、中埜秀幸さんですか?」

今度は春海が驚いたような声を発した。



「春海、知ってるの?」

いるかが小首を傾げるように言う。



「ほら、いるか覚えてないか? 3年前の大会、表彰式の後、有段者によるデモンストレーションがあっただろ、その時のデモンストレーターのお一人だよ。お前、綺麗な竹刀さばきだってみとれてたじゃないか。」



「ああ、あの時の・・・・」

いるかは納得といった表情で頷いた。



「そんな風に言ってもらえるとちょっと照れるけど、君達は今でも剣道は続けているのかい?」



「いえ、高校に行ってからは野球一本に絞っています。さすがにかけもちは辛くて・・・・・」



「あたしもサッカー部の方選んじゃったから。たまに春海に相手してもらって竹刀は振ってるけど・・・」



「中埜さんはどうなんです? 連覇記録を毎年更新しているんじゃないんですか?」



「いや、3年前のあの大会以来、剣道から遠ざかってしまってね。ちょうどあの大会のすぐ後4課に移ったから、なんやかやと忙しくてね、剣道まで手が回らなくなったんだよ。」



少し寂しげに、そしてどこか憂いのある影が中埜の顔に浮かんだのを、春海は見てとった。





その後暫くの間、雑談し、刑事達は如月邸を後にした。









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