馨子さま作

喪失の時間



5 【清算なき過去】



春海は、校舎の屋上でフェンス越しにグランドを眺めていた。

グランドでは、いるかのクラスが体育の授業をしているようだ。



頭に包帯を巻いているので、いるかの姿はすぐに見て取れる。

しかし、頭の怪我など問題でないのか、彼女はグランドを処狭しと動き回っていた。



「相変わらず、元気なヤツ。」

くすっと笑みを浮かべながら、春海の瞳はいつまでもいるかの姿を追っていた。



「自習の時間なのに、こんな所でサボリか?」



「巧巳! 課題はもう提出したよ。ちょっと生徒会の仕事があったから抜けたんだよ。それも終わったんで、ここに来たのさ。お前こそ、どうしたんだよ。」



「生徒会の仕事? 何かあったか?」



「まあな、昨日は日曜で休み、その前の日も高等部の入試で休みだったろ、2連休ともなると整理する書類がたまってしまうからね。」



「そっか、俺は課題が終わっちまったんで、暇つぶしに抜けてきた。」

そういいながら、巧巳は視線をグランドに移す。



「あそこにいるの、いるかか? 元気だよなー、相当な怪我だったんだろ?」



「いや、傷の程度はそうでもなかったんだけど、記憶の方がね・・・」



「ああ、そういや記憶を失ってるんだったな。」



春海は、ため息をついて、フェンスを握る手に力をこめた。

視線はいるかを追っている。

だが、その瞳に暗く、陰りのようなものが浮かんだのを巧巳は見逃さなかった。



「記憶喪失っていっても、日常の生活には支障ないんだろ?」



「ああ、唯一の目撃証言が取れないから警察にとっては痛手だけどな。いるか本人の日常生活には特に支障はないよ。」



「だったら、何でそんな顔してるんだ?」



「わかるか?」



「わかるに決まってるだろ。どうしたんだよ、お前らしくもない。」



「らしくない・・・か。」

春海は自嘲気味に呟いた。



『話したくない』というわけではないが、『どう話したらいいのか』、そんな風に考えあぐねている様子に見て取れ、巧巳は春海の口の開くのを待った。



「何から話せばいいのかな・・・」

春海は、そんな前置きをして話し出した。







「去年の生徒会リコールのこと覚えているか?」



「当たり前だろ、俺だって当事者だったんだぜ。」



「あはっ、そうだったよな。俺はさ、里見に入ったら巧巳と一緒に野球が出来ると思ってた、でもお前は退部したっていうし、先輩達に理由を聞いても何か隠しているようで要領を得ない。そのうち薄々、生徒会が絡んでることが分かってきたんだ。だから根津さんから生徒会役員の勧誘を受けた時、内心『しめた』と思ったよ。内側から探り出せないかと思っていた矢先だったからね。そんな時、お前といるかが“できてる”って噂が流れた。」



「そ、それは・・・・」



「もちろん、俺はそんなことまるっきり信じてなかったさ。」

何か言いかけた巧巳の言葉を制して、春海は言った。



「いるかは俺のところに来たよ、誤解を解こうとしたんだと思う。でも、その時、間の悪いことに、俺は根津さんや他の生徒会役員と一緒だったんだ。特に根津さんには俺の本心を悟られるわけにはいかなかった。それで・・・・」



「それで? それで、どうしたんだよ?」



「―――無視した。」

搾り出すような声だった。



「無視したって・・・でも、それは仕方がなかったことだろ? いるかだって理由が分かれば納得してくれるはずだぜ。」



「ああ、一応、俺の本心を書いた手紙をポケットに入れておいたからな。だから、いるかはそのことで俺を一言だって責めたりはしなかったさ。俺だって、『あれは仕方のなかったことだ』『あの時はそれが最善の方法だ』って思ってた、一昨日(おととい)まではな。」



「一昨日(おととい)って、一昨日何があったんだよ? 一昨日って言えば、いるかが病院に担ぎ込まれた日だろ?」



「『あなた誰?』って・・・」



「はあ?」



「『あなた誰?』って言ったんだよ。俺が病室に駆けつけてすぐ、一時的に意識を取り戻した時に。まるで見ず知らずの他人に向ける瞳だった・・・」



「でもそれは一時的なことだったんだろ? 頭打って、記憶の錯乱を起こしていたんじゃないのか?」



「ああ、次に意識が戻った時には、俺のことは思い出してた。でも、俺が気にしてるのはそんな事じゃないんだ。あの八百長事件の時、俺は『仕方がない、最善の方法』という理由でいるかを無視した、でもその時、俺は無視された側のいるかの気持ちを何も考えてなかったんだよ。」



巧巳は、何も言わず、というよりも何も言えなかった。

ただ春海の口元を見つめていた。



「『いるかなら分かってくれる』俺はいるかに甘えていたのかもしれない。一昨日、あの病室で全くの他人のような目で見られて、心臓が抉り取られるようだったよ。逆の立場に立たされて始めて、あの時のいるかがどんな想いをしたか、今更ながらそれが解かった。あの時、俺は解かってるようで、何にも解かっちゃいなかったんだ。」



自分自身の不甲斐なさに憤っているのか、春海は端正な顔を歪めて、はき捨てるように言った。



「俺はいるかを守りたい、あの笑顔を守りたいんだ。なのに・・・・・」

フェンスを握る右手に更に力を込めた。



「よせよ、ボール握る大切な右手だぜ。」

巧巳は、フェンスを強く握り締めたままでいる春海にそう注意した。



「まっ、その責任の一端は俺にもあるから偉そうなことは言えないけどさ。なあ、春海、俺たちまだ高校生なんだぜ。完璧なんてありえないし、失敗もするさ。試行錯誤の中で毎日を生きている。何をそんなに焦ってるんだよ。それにさ、いるかはお前に守られているだけの、それだけで満足するような女か?」



春海はハッとした表情をして顔をあげた。



「あいつは、お前の影でただただ守られているだけの女じゃない。お前の後ろなんかじゃなく、お前の横で、お前と同じ目線で、お前の弱さも強さもひっくるめて全てを受け止められる、それだけの器を持ったヤツだと俺は思うぜ。違うか?」



ややあって、春海が口を開く。



「ああ、そうだな。そうだよな。」



春海は空を見上げた。

冬の澄んだ空気の奥に、濁りのない青空が広がる。



その青空のように、春海は今まで自分の体に纏わりついていた強張りが氷解していくように感じた。



「ホントにお前はいるかのことになると周りが見えなくなるよなー。考えてみれば、お前程の男を振り回すんだから、いるかってすごい女だよな。」



「自分でも驚いてるよ。一人の女の子にこんなに振り回されるなんてさ。」

少し照れくさそうに春海は呟く。



「ほおぉー。まっ、手に負えなくなったらいつでも引き受けるぜ。」



「それだけは絶対ない!!」



「あはははは・・・・・・ そう言うと思ったぜ。」

巧巳は大笑いした。



「ほら、もうすぐ授業終わるぜ、教室に戻ろう。」

春海の肩をポンッと叩いて、出入り口のドアに向かう。



「ああ、そうするか。」

春海は、そう言って巧巳と肩を並べて歩き出した。

















 「なんか、倉鹿みたいだね。」



「うん?」



「だって、倉鹿では春海のお家は、じーちゃん家の近くにあったからほとんど一緒だったけど、東京(こっち)に来てからは乗り換えの駅までだから、あんまり一緒にいられないもんね。なんだか、倉鹿に戻ったみたいでうれしいなっ。」



春海の横で、屈託のない笑顔を向ける。



「俺も同じこと思ってた。」



「あはっ、そうなんだ。でも倉鹿かー、懐かしいなぁ。帰りたくなっちゃうよ。」



「ああ、そうだな。春休みにも行けたらいいけど、4月からは3年で受験生だからな、来年、大学受かってからゆっくり行こうぜ。」



「あー、そうなんだよね。もう受験生になるのか〜。ついこの間入学したような気がするのにね。」

「ふぅ」といるかはため息混じりに言った。





「相変わらず仲がいいねぇ。」



「佐伯さん!!」



佐伯はくすくすと笑いながら、校門を出てきた二人に声をかけた。



「ちょっと、いいか?」



「あっ、はい。いいですけど・・・・」



二人は佐伯の乗ってきた覆面パトカーに同乗し、佐伯のいきつけだという喫茶店へと向かった。





「おや、佐伯さん、いらっしゃい。今日は珍しく可愛いお連れさんと一緒だね。」



「ああ、マスター。可愛いは失礼だよ、これでなかなか頭の切れる名探偵さんなんだからね。」



「里見学習院の山本春海です。」

「如月いるかです。」



「里見学習院の山本春海っていったら、2年連続で甲子園春夏優勝したあの里見のエースピッチャーの山本春海君?」



「ええ、そうですが・・・・」



「いやぁ、感激だな〜。こんなところで会えるなんて!」



「マスターは無類の野球好きだからね。甲子園とドラゴンズ、だっけ?」



「そう、去年は優勝逃したけど、今年こそは頑張ってもらわなくっちゃねぇ。なんたって仙ちゃんが監督になったんだから。」



「マスターは、野球談義が始まると止まらなくなっちゃうからねぇ、でも、今日はこの辺で勘弁してくださいよ。一応仕事で来てるんですからね。えっと、ブレンドでいい?」



春海といるかは頷く。



「じゃあマスター、ブレンド3つ。奥のテーブル借りるよ。」





佐伯が奥のテープルを指定する時は、いつでも何か込み入った話をする時だ。

そのことを承知しているマスターは、それ以上野球談義も繰り広げることもなく、コーヒーを置くとそそくさとカウンターに引っ込んだ。





いるかの記憶は相変わらず戻ってはいなかったが、佐伯は落胆した表情は見せなかった。

いるかの心の負担を少しでも軽減させてやりたいという佐伯の想いからだった。



「暴力団の抗争という話でしたけど、そちらの方からアプローチできたんですか?」

春海が切り出す。



「ん〜、それがねぇ、最初はそっちの路線でいっていたんだけどね、殺された葉山は組の中でも下っ端の方でね、まあ、いわゆるチンピラって奴なんだけど、抗争っていう程のものに巻き込まれるほどの人物じゃないんだ。数人で喧嘩になってドンパチっていうなら分かるんだけどね。」



「個人的な恨みとか?」



「可能性としてはそれも捨てがたいんだけど、それにしては犯人の手口が鮮やか過ぎるんだよ。確実に急所を狙っているし、証拠も一切残してないんだ。警察の捜査方法を熟知した奴の犯行であることは間違いないね。それにね、葉山は近々大金が入るようなことを仲間内に吹聴しているようなんだ。」



「誰かを脅していたんでしょうか?」



「そう、それ。今はその方向で捜査が進められてる。」



「そうですね、いるかが襲われたあの現場に金銭授受を理由に呼び出されて、逆に口を塞がれたという推論は成り立ちますからね。」



「まあ、どのみち暴力団関係の犯罪であることは間違いないから、しばらくは4課と合同捜査ということになるね。」



「4課といえば、中埜さんですけど、あれほどの腕前の方が、剣道から遠ざかってるっていうのは勿体無い話ですよね。」



「う〜ん、あの時は中埜本人がいたんで話さなかったんだけどね、実は、竹刀を持たなくなったんじゃなくて、持てなくなったっていうのが正しいんだ。」



「どういうことですか?」



「3年前に4課に移ったって言ってただろ? あいつ、嫁さんと娘を組の奴らに殺されてるんだよ。」



「家族をですか?」



「ああ、当時あいつは俺と一緒に1課にいて、ある暴力団組員の殺人事件を追っていたんだ。その殺された組員ってのは、牧村真治という男でね、以前、中埜が逮捕したことがある奴だったんだが、同郷ということもあって出所した後も、中埜は何かと気にかけて、世話を焼いていたんだ。そんなこともあって、中埜にだけは心を開いていたんだ。それで、中埜の勧めもあって、組を抜けて更正の道を歩もうとしていた、そんな矢先だったんだよ、殺されたのは。」



佐伯はここで一旦言葉を切って、コーヒーに口をつける。

聞き入っていた二人も連れたようにコーヒーを口にした。



「奴のいた組はさ、羅門組といって、その頃、組長が病気で、その組長は自分の亡き後、息子に組長を継がせ、自分の懐刀と言われた若頭の梁瀬(やなせ)って男を息子の補佐にしようとしたんだ。ところが、この息子って奴はとんでもないボンクラで、そのくせプライドだけは高いって奴だったから、組長が亡くなって、自分が組長になった途端、その梁瀬を疎ましく思い始めたんだ。当然、組内にもその空気は伝わる。それで、まあ、いわゆる内部分裂に発展したんだけど、どうやらそれにまつわる何かをその牧村って男は知ってしまったみたいなんだ。それで、そのことを中埜に伝えようとして・・・・」



「その前に殺されてしまったという訳ですか?」



「そう。ところが組の奴らはそうは取らなかった。もう情報が中埜に伝わっていると思い込んでしまったんだよ。」



「えっ、まさかそれで中埜さんの家族を?」



「いや、狙われたのは中埜本人だけだったんだ。だけど、運が悪いとしか言いようがないんだが、家族も巻き込まれてしまって、中埜だけが生き残った。娘さん、まだ4歳になったばかりだったよ。いっつも、剣道の大会には応援に来ててね、「パパ、頑張って!!」って、ちっちゃい手を振って一生懸命応援してたよ。」



「それで、竹刀をもてなくなっちゃったんだ・・・」

いるかは少し潤んだ目をしてそう言った。



「ああ、そうだと思う。もちろん、警察では護身術の一つとして訓練しなくちゃならないからね、全く遠ざかってるってわけじゃないけど、覇気がないというか、昔の中埜を知ってる奴はあれが本当の中埜の剣道だとはだれも思っちゃいないよ。その事件のすぐ後、中埜は異動届を出して、4課に移ったんだ。移動してからの中埜は、そりゃあ、すざましかった、狂気っていうのはああいうものかと思ったね。」



「何かに没頭せずにはいられなかったんでしょうね。で、犯人は捕まったんですか?」



「捕まったというか、結局、組自体を解体させちまったんだよ、中埜は。」



「組自体を解体って、ってことは、つまりその羅門組とかいう組をぶっ潰しちゃったんですか、中埜さんは?」



「そういうことになるかな、でも、うち(警視庁)でも犠牲は出てしまってね、当時の捜査4課の係長で、渡邊警部って人がいてね、その羅門組が資金稼ぎの為に大規模な覚せい剤の取引を行うという情報を得たらしく、単身乗り込んだんだ。」



「単身って、普通、刑事さんって2名以上で行動するんですよね?」



「ん〜、今でもそこんとこが謎なんだ。『どうして、渡邊警部は単身で乗り込んだのか?』ってね。多分、情報を得てから取引までにそう時間がなかったからじゃないかってことになってるけど。中埜が渡邊警部の机のメモの走り書きに気づいて、その場に4課の連中と駆けつけたときには、もうすでにドンパチは始まっていて、渡邊警部はそれに巻き込まれて被弾してんだ。即死だった。新組長も流れ弾に当たって死亡、梁瀬を除いて、その場にいた組員は全員逮捕されたんだ。」



「その梁瀬って人は、逃げちゃったんだ。」



「そう、今だに行方不明なんだ。だから、確かなことは分からないが、新組長は梁瀬が撃ったんじゃないかっていわれている、梁瀬はその組長と対立していた筆頭だったからね。でもその羅門組も組長がいなくなり、梁瀬も行方不明、他の組員は逮捕となりゃ、実質的には解体されたと同じことだね。」



「そうですか、そんなことがあったんですか。中埜さん、『今は、剣道から遠ざかってる』って言った時、なんかすごく辛そうな、陰りのある表情をしたんですよ。だから、気になっていたんですけど。もうあの人の試合を見ることはできないんでしょうか・・・・・」



春海は、あの中学剣道選手権全国大会の時見た、その見事なまでの竹刀さばきを思い出していた。



「あいつにとってはさ、もう3年じゃなくて、まだ3年なんだ。確かに仇である羅門組は壊滅させたけど、だからといって死んだ人間が戻ってくるわけじゃあないからね・・・・・」

佐伯は大きく息をついた。






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