あらゆきさま作



春海の悪夢 第6夜 うみとそらとみんなと



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水の都ヴェネツィア・・
おりしもこの街に春の嵐のごときあいつがやってきた。

メストレ駅からサンタ・ルチア駅へ向う列車の中、春海はうなされていた。
車窓から覗く穏やかな海のように、暖かな湿り気が彼の体をやさしく包んでいた。
寝返りを打つと、懐かしい箱根の駅伝大会の情景がおぼろげに浮かんだ。

春海は駅伝大会のゴールにいた。
山中で根津美男の手下どもに襲われあちこち怪我をしていたが、
兵衛に支えられなんとか戻ってきたのだ。
彼はとりあえず勝利の歌を高らかに歌った。

「<喜べ!すべての敵は全滅だ!>
・・でもなんか疲れたな。このまま寝ちまおう・・。」

ここちよい疲労感に襲われ、目を閉じようとしたところいるかが彼の胸に
飛び込みながら言った。
「やだやだ死んじゃやだ!あたし春海のこと世界で一番好き!」

春海は疲れがいっぺんに吹っ飛んだ。死んでもいい・・と思った。
しかし今は全国中継のテレビカメラの前である。
彼はクールに決めた。
「・・・・・バカ!」
「わーよかった死んでなかった!」
「勝手に殺すなよなっ」

ラブラブのふたりをよそに、1人どんより澱んだ空気をまとった男がいた。
彼らと同じユニフォームを着ている・・が里美学習院の生徒ではない。
いいのか?・・細かいことは気にせず話を続ける。

彼の名は太宰進。倉鹿修学院高等部の1年生だ。
春海とは幼馴染で・・いるかを巡る恋のライバルでもあった。
あった・・と過去形なのはようするにフラれたのであるが彼はまだ吹っ切.
れていないようだった。
進はスニーカーの先でのノ字を書きながらぼそぼそと言った。

「・・・。いいな。おれだってがんばったのに・・。」

進のただならぬ様子を見て、徹が駆け寄ってきた。
山本徹、春海の6歳年下の弟である。
憎いライバルの弟ではあるが、なかなかかわいいヤツだ・・
と一人っ子の進は遊びに行くたび実の弟のようにかわいがっていた。
徹は心配そうに声をかけた。

「進お兄ちゃんどうしたの?」
「ああ、徹くんか。なんでもないよ。
・・あいつ助けなきゃよかったな。そうしたらいるかは・・。」
「え?」
「いやいや。なんでもないよ。」

さすがに本心を告白するのははばかられる。
適当なことを言ってごまかしていると、晶が大きな声で声をかけてきた。

「みんなー!!早く車乗ってー!みんなで江ノ島に行くよ!」
「江ノ島?なんで?」
「みんなで優勝祝いをするからに決まってるじゃない!早く早く!」

その声を合図に、里見の生徒もそうでないものも一路江ノ島へ向った。


夏の江ノ島の空はぬけるように青かった。
しかし、その空を曇らせかねない男が砂浜でなにやら本を読んでいた。
春海は声をかけた。

「ロデリーゴ・・じゃなかった進。おまえどうしたんだ?
・・なんだか元気ないな。台本読んだか?」

彼はみんなと騒ぐ気分になれず、1人はなれた場所で海を見つめていた。
暇なので本を貸してくれ、と春海に言ったところなにやらシェイクスピアの
戯曲などを渡されてしまったのだ。
せめて村上春樹あたりにして欲しい・・と進は思った。

しかも戯曲にはなぜか”ロデリーゴ”の部分のセリフに赤線が引いてあった。
おれに芝居をしろってことか?進は念のため確かめてみた。

「台本?ああこれか。
・・なあ春海、おれちょっと気になるんだけど・・。」
「なんだ?」
「ロデリーゴって死ぬ役じゃなかったっけ?」
「進・・バカだなあれはロドリーグだよ!全然別の役じゃないか!」
「そっか。やっぱりおれ達親友だよな!」

特に深い意味はなかったらしい。
友達っていいな・・進は春海の肩を抱こうとした。
しかし、彼はするりと進の腕から逃れた。
進の肩越しに彼の恋人、いるかの姿が見えたのだ。
春海は愛想良く別れの挨拶をした。
「当たり前じゃないか!あ、いるか!じゃあまたな進!」

1人残された進の胸にどす黒い感情が熾火のようにちらちらと瞬いた。
かわいさあまって憎さ100倍・・進は吐き捨てるように言った。
「ちくしょうっ!おまえさえいなければいるかは・・。」

徹がまた寄ってきた。
「進お兄ちゃんどうしたの?やっぱり元気ないね。ぼく心配だよ。」

徹の姿を認めると、ほっとした気持ちになった。
と同時に胸のわだかまりを吐き出してしまいたい衝動に襲われた。
進は言った。
「ああ、徹くんか。・・・。誰にも言わないかい?」
「うん!」
「おれ・・いるかのことが好きなんだ。」
「ぼくもだよ!」

徹は愛想よく言った。
こんなガキと一緒にされてたまるか・・
一瞬言葉に詰まったがやさしく解説してやった。
「え、いやそういう好きじゃなくて・・。
・・誰にもわたしたくないんだ。ってまだ徹クンにはわからないよな。」

しかし意外なことに徹も同じ事を言った。
「わかるよ!僕も正美ちゃんのこと誰にもわたしたくないもん!」

進は胸が熱くなった。と、同時にこいつ使えるかも・・
というどす黒い感情も同じ程度に強くなった。
「そうかい?それじゃあ・・。」
「ぼく協力するよ!」
「ありがとう徹クン!じゃあ手始めに・・ごにょごにょ。」

徹にとってこの協力は進のためだけではなかった。
しかし今は打ち明ける時期ではない。
期が熟すまでしばらくこどものままでいる事にしよう。
徹は無邪気さを装って元気に返事をした。
「うん!わかった!」


気を取り直してみんなのところに行くと、借り切った海の家はすっかり祝賀
パーティー会場として華やかに飾りつけられていた。
どこから調達したのか、料理も飲み物も洗練されたものが山のように用意
されていた。徹や正美も一人前にお手伝いをさせてもらって得意顔だ。
全員に飲み物がいきわたると、陸上部長の三田村が乾杯の音頭を取った。
なかには歌いだすものまでいた。

「里美学習院の駅伝大会優勝を祝って乾杯!」
「<さあ乾杯だ!>」
「ういーなんかヘンな味のジュースだな。」

徹が配った缶ジュースは実は酒であった。もちろんわざとである。
特に陸上部の男子に行きわたるよう配って歩いた。
彼の兄、春海には彼の目論見を邪魔されないよう近寄らなかった。
徹は無邪気な声で言った。

「え、たこハイってジュースじゃなかったの?」
「こら!徹!なんてことするんだ!」

徹の肩に春海が手をかけようとした。
彼はかわいらしく返事をし、すばやく兄の手を振り切った。

「ぼくこどもだからわかんな〜い!」

徹は風のように砂浜をどこまでも行った。
空は青くどこまでも続いていた。
かもめがニャア、と猫のような声で鳴いていた。
今年は忘れられない夏になりそうだ・・幸せな予感に徹は頬を紅潮させた。

中学時代の雪山合宿を思い出し、一馬は呆れたように言った。
血は争えない・・そう思った。
「さすが春海の弟だな。」

既に3本目の缶チューハイに手を伸ばした巧巳はゴキゲンで言った。
少々ろれつが怪しい。
「まあまあ。いいじゃねえか。アイツもなかなか気が利くぜ。」

春海は彼の顔色を見てちょっと心配になった。
ずいぶんペース速いな・・彼が長期停学になった理由をふと思い出した。
彼はたしなめた。
「巧巳おまえふらふらしてるじゃないか。」

巧巳は遠くから返事をした。
「大丈夫だよこれくらい・・。お、スイカ割りか?」

彼はパンチドランカーのような足跡を残し、砂浜をぶらぶらと歩いていた。
ふと、女の子の黄色い声がするほうに足を向けた。
皆がなにかを囲んでボコボコやっているのを見て、巧巳はスイカ割りと勘違いした。
お、ギャルばっかり・・。いいところを見せるチャンスだ。

「超高校級バッター東条巧巳くん4番の出番だな。いくぜ!」

巧巳は金属バットを取り上げた。
彼がバットを振り上げる姿を認め、ギャラリーが悲痛な声を上げた。
「あー!!それはスイカじゃなくて・・。」

うるせえな・・
彼は静かに目を閉じ、甲子園のバッターボックスに立った自分を思い描いた。
”心頭滅却すれば火もまた涼し”邪魔な野次は・・無視するに限る。
しかし騒ぎはますます大きくなり、誰かが巧巳のバットに手をかけようとした。
巧巳は激昂して叫びながら金属バットを振り上げた。

「<邪魔をすると殺すぞ!>」
しかし金属バットを振り下ろした先には・・
「ぎゃー!!」
「高中だよ・・って聞いてねえな。」

その瞬間、砂浜には見たこともない大きさのまがまがしい彼岸花が散った。
高中の霞む目に、咲いたばかりの花びらを踏みにじり、せわしない様子で歩を
進めるすらりとした長身の影が写った。

山本春海、その人である。
彼は”黄金のトランペット”と絶賛されたあの輝かしい声を砂浜中に響かせた。

「<武器を捨てろ!>」
「春海!」
「この騒ぎはなんだ!・・高中!おまえまた女子の着替えを除こうと・・。
しかしだからといって金属バットで脳天かち割るほどの罪ではあるまい。
巧巳!おまえは無期停学だ!」

「なにー!なんの権利があってそんなことを!」
「里美学習院高等部生徒会長山本春海としての権利だ!さあコイツをひっとらえろ!」
「ちくしょう覚えてろ!」

突然の逮捕劇に祝賀ムードは一気にしぼんでしまった。
先ほどまで心地よく感じていた風は一気に重く湿ったものとして感じられた。
メンバーは三々五々砂浜を後にした。

すっかり人気のなくなった海岸には2つの大小の影が映っていた。
ダミアンのように不吉な笑い方をするかわいい男の子と、残忍な光を目に宿した
これまた爽やかな好青年だった。
ふたりは顔を見合わせ、にっこり微笑んだ。
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「予定通り、だな。」

徹は不敵に微笑むと、砂浜にしゃがみこみ一心不乱に桜貝を拾っていた
正美に声をかけた。
「邪魔者は消えた。さて・・正美ちゃーん!」
「徹クン!呼んだ?」
「うん。いっしょにスイカ食べようよ!」
「うん!正美スイカ大好き!」
「ぼくもだよ!あはは!」

青い空、白い雲、澄んだ海、そして・・正美。
ぼくが望んでいた夏そのものだ・・徹は心から笑った。


同じ日の夕刻、いるかと春海は海岸にいた。
すでに日は落ち、満天の星と遠くの水平線に映る船の灯りだけを頼りに歩いた。
四方八方から怪しからん気配が感じられたが、気にせず砂浜に腰を下ろした。
春海はいるかの肩をそっと抱いた。
明るいところでは見えないものが暗闇では見える・・それは・・愛。
彼の持論である。

「きょうはいろいろあったな・・。疲れただろ?このまま眠っていいぜ。」
「大丈夫・・。春海と一緒に居られるなんて・・幸せすぎて眠れないよ。」
「いるか・・。」

ふたりは愛の二重唱をしっとりと歌い上げた。
「<<すでに夜も更け騒ぎもたえ・・>>」

さてそろそろ・・春海が段取りどおりキスをしようと首をかしげたところ、
いるかの肩越しに女の子の姿が見えた。
春海はいるかの肩から糸くずをとるフリをした。
正美はアカデミー賞モノの健気な調子でいるかに声をかけた。

「いるかお姉ちゃん!お兄ちゃんが大変なの!お願いすぐ来て!」

正美のただならぬ様子にいるかはぱっと腰を浮かせた。
そして言った。
「ええ!大丈夫かな。春海ゴメン、ちょっと行ってくる!」

春海はあてがはずれ、忌々しい気持ちで唇を噛んだ。
彼は言った。

「いるか?おい、あんな酔っ払いほっとけよ!
っていうかアイツいつの間に抜け出したんだ?」

正美はというとまたどこかに行ってしまった。
去り際、ちょっと微笑んだような気がしたが・・気のせいだな。

巧巳は岩陰に腰を下ろし、岩に張り付いたフジツボをはがしてみようと
懸命に爪を立てていた。いるかを見ると、大げさに頭を振った。
巧巳・・またヤケにならなきゃいいけど・・いるかは心配そうに声をかけた。

「巧巳!こんなところでどうしたの?大丈夫?」
「ちょっとくらくらする・・。」
「いくらお祝いだからって飲みすぎだよ!ほらこのお水飲んで・・。」
「ありがとう。」

巧巳はいるかのくれたミネラルウォーターを一気に飲み干した。
その様子をじっと見詰めていたいるかの真剣な眼差しが目に入った。
星が、映っていた。

すると、いつの間にか荒くなっていた波がふたりを覆った。
「このくらいなんてことないよ。・・っうわ!つめた・・。」
「ごめん、かばい切れなくて・・おれも酔ってるのかな。」

ふたりともびしょ濡れになってしまった。
いるかは白のTシャツを素肌に貼り付け寒そうにしていた。
ピンクのブラジャーがちょっと透けて見えた。
巧巳は迷わず突進した。

「平気だよ。・・・。ってなにすんのよー!!」
「いるか!好きだ!」
「ぎゃー!!」

巧巳はいつかの駅伝の練習のとき、無理やりキスしたときと同じ方法で
いるかのキスをゲットした。しかも3回。
だんだんコツがつかめてきた・・巧巳は思った。

巧巳の肩ごしに長い足がこちらに近づいてくるのが見えた。
あとを追いかけてきた春海である。
彼は状況を飲み込めるまでしばらく口を閉じていた。そして言った。

「・・遅いから心配したぜ。」
「春海・・あの・・。」
「なんでもないならいいんだ。それにアンカーに抜けられても困らない。
・・もう大会は終わったからな。」

あまりに冷たい春海の言葉にいるかの胸は張り裂けそうだった。
盛り上がってきた涙がこぼれないよう、彼女は一心に砂浜を駆け出した。
「あ、あたし先に帰る!」

残された巧巳と春海はしばらく無言でにらみ合っていた。
先に口を開いたのは春海だった。
「巧巳・・勝負だ!」

すると、どこからか正美がのんびりと声をかけた。
「おにいちゃーん!」

これから男と男の真剣勝負だというのに、巧巳は妹を見るとそちらに駆け寄った。
ナイスタイミング・・ますます妹が愛しくなった。
「あ、正美そんなに走るな!じゃ、春海またな!」
「ってまだ話終わってねーよ!どさくさにまぎれて3回もキスしやがって!!」

春海の絶叫をよそに、砂浜にはまるで恋人同士のような兄妹の影が躍った。
「正美〜。あはは待てよ!」
「おにいちゃ〜ん!正美を捕まえてみて!」
「正美ちゃん・・ぼくは?」

砂浜にはそれぞれ鬱屈した思いを抱えた山本家の兄弟が取り残された。


同じ日の夜、夕食を済ませたいるかはまた砂浜にいた。
食卓に姿を見せなかった東条家の兄妹が気がかりだったのだ。
彼女は彼らの名を呼びながら砂浜をさまよった。
「正美ちゃ〜ん!巧巳〜!どこにいるの?」

もしや・・いるかが断崖絶壁の松の根元に足を向けて歩き出した。
彼女の姿を認めると、巧巳は小さな声で言った。
「いるか?しー!」
「(巧巳?正美ちゃん寝てんの?)」

「(ああ。おれ、春海に見つからないうちに部屋に帰るよ。
これ以上騒ぐとマジまずいからな。)」
「(そうだね。ね、このままじゃ風邪引いちゃう。
このタオルで包めばちょっとはあったかいよ。あ、起きちゃったの?)」

彼女は正美を大きなバスタオルで包もうとした。
春海が先ほど寒いだろう・・といるかの肩にかけてくれたものである。
あざやかな海色をしたタオルはやや汗臭かったが、ないよりはましであろう。
巧巳は妹をタオルで包もうとか細い腕を持ち上げた。
その拍子に起きてしまったのだろうか、正美は小さな体を身じろぎさせ言った。

「うーん、いるかおねえちゃん・・
お願い、おにいちゃんのお嫁さんになって!」
ナイスアシスト・・巧巳は前にもまして妹が愛しくなった。
しかしその声の大きさにあせって言った。

「ば、ばかそんなでかい声で!」
「だれかそこにいるのか?!」
「やべ!春海だ!じゃあないるか!」

一番まずいヤツに見つかってしまった。
巧巳たちは闇にまぎれ疾風のように姿を消した。
「あ!あの夕ご飯は?!あーあ。行っちゃった・・。」
そのときまた、大波が押し寄せた。
いるかのセリフは波にかき消された。


春海はいるかの背後に立ちはだかっていた。
その顔が青く見えるのは闇のせいだろうか?
彼は抑揚のない声で言った。

「・・・。こんなところで何してるんだ。」
「はるうみ・・っ。」
「風邪ひくぜ。」

いるかはつと目をそらし、松の根元に腰をかけた。そして言った。
「大丈夫。・・あたしここでしばらく星を見ていたいの。ほっといて。」
「ほっておけないさ。こんな暗いところで女の子が危ないだろ。
それとも・・アイツに会いに来たのか?」

春海はなんでもないことのように言った。
彼の声からはなんの表情も読み取れなかった。
いるかは彼の真意がわからず、ぼそぼそと昼間の出来事を口にした。
「っ!・・春海は巧巳に厳しすぎるよ。あれくらいで無期停学なんて・・。」

いるかが彼をかばう姿を見ると、春海の顔はみるみるうちに紅潮した。
嫉妬のあまり体が震えだした。
しかし、つとめて冷静な声で答えた。

「未成年が飲酒のうえ金属バット殺人未遂が”あれくらい”か?
高中はいま死の淵をさまよっているんだぞ!!」
「でもっ!あいつ丈夫だし!・・ゴメン。」
いるかは思わず叫び返したが、事の重大さに気づき声を落とした。

春海は彼女の顔を探るように見つめた。
いるかは頬を赤らめ目を伏せていた。
そのまつげには星色の光が宿っていた。
泣いているのか・・誰のために?
春海はかすれた声で呟いた。

「おまえっ。おまえこそ・・。」

いるかは目を上げた。
春海を見ると、額にじっとりと汗をかき青ざめた顔をしていた。
まだ調子悪いのかな・・彼女はやさしく手を伸ばした。
「どうしたの春海。そんなに汗かいて・・。暑い?」

触らないでくれ・・おれのマグマが爆発してしまう・・。
春海は激情を滴らせた声で叫んだ。
「触るな!」

春海の鋭い視線に射ぬかれ、彼女は呆然となった。
しばらく彼の瞳を見つめていたが、その光は微動だにしなかった。
いるかは哀しそうに視線をはずし言った。
こう呟くのがやっとだった。

「はるうみ・・。ひどいよ。」
「・・・。」
「あたしのこと、嫌いになった?もう、信用できない?」

春海の胸に激しい後悔の念が浮かんだ。
証拠も無いのに彼女をこんなに責めて・・
春海はいつかのセリフをまたそっと繰り返した。

「ぼくはきみを信じているから・・。」
「よかった。春海・・好きだよ。」
「いるか・・おれもだよ。」

春海の心に小さな灯りが燈った。
しかし、次の瞬間彼女のセリフであっけなく吹き消された。
「ね、巧巳のこと許してあげて?」

彼女の小さな吐息が彼の希望を消してしまった。
春海は目の前が真っ暗になるのを感じた。
口の中が粘ってうまくしゃべれない。
彼はまたかすれた声をだした。
「もしかしてきみはもう・・巧巳のものに?」

その瞬間、また大きな波が打ち寄せた。
彼らが座っている断崖に勢いよくあたり、砕け散った。
「え?波が・・ゴメンよく聞こえなかった。」
「・・・。考えておくよ。」
「よかった!あたしそろそろ寝るね!おやすみ!」


春海は彼女の背中をじっと目で見送っていた。
そのうちに闇にまぎれ見えなくなった。
彼は絞り出すように言った。

「・・・。<さらば神聖な思い出よ!>
ぼくは、きみを信じている・・だが、証拠がほしい!」


どれくらい時間が経っただろうか・・月はすっかり昇りきっていた。
やっぱりここか・・徹はそっと兄に近寄り言った。
「おにいちゃん・・。」
「徹か。どうした?」
「おにいちゃん、なにか悩みがあるんじゃない?」

徹・・おれを心配してくれるのか・・。
そのいじらしい姿に打たれ、頑なだった彼の心は春の雪解け水のよう
に溶けだした。
春海は答えの代わりに和歌を詠んだ。

「っふ・・。
<山びこの 相響むまで 妻恋に 鹿鳴く山辺に 独りのみして>
ってところかな・・。おまえにはまだわからないだろうけど・・。」

”雄鹿が山中で妻を慕い、恋しさゆえに鳴いている。
やまびこが響くほど鳴いている。
そんな寂しい山のほとりで自分はたった一人でいる・・。”

この歌はまさにいまの彼の心情を表していた。
おれ意外と才能あるかも・・春海はわれながらうっとりとした。
そして自作の和歌に心を慰められるのを感じた。

それに”鹿”という文字が入っているのも重要なポイントだ。
いるかの名は漢字で射鹿と書く・・
倉鹿修学院時代、上野助が得意げに語っていたのを思い出したのだ。
巧巳は知るまい・・彼はにやりとした。

その他にもいるかのおばさんに取り入って仕入れたいるかについての
マメ知識がいくつかあったが、それはすべて”いるヨロ通信”・・
彼が会長を務める会の会報にまとめられていた。その他にも折々の
写真などをレイアウトした秘蔵のお宝通信である。

会報は限られた範囲・・具体的に言うと山本春海だけに配られていた。
誰の入会も許さない、閉鎖的な倶楽部であった。
普段の彼だったらこの詩もそっと胸に秘めておいただろう。

・・春海はオリジナルの歌を作ったつもりだった。
が、まんま万葉集からのパクリである。

しかし、徹は彼のかわいい弟である。
それに・・徹は将来彼女の弟になるのだ。
そろそろ入会させてやろうか・・春海は恩着せがましく微笑んだ。
徹は兄の不気味な微笑をあっさり無視し、気になる点を指摘した。

「にいちゃん季語が違うよ!っていうかここ海だし!」

弟の冷静なつっこみに春海はわれを忘れて激昂した。
おれとしたことが・・痛いところをつかれ、どなりちらした。
「じゃかあしい!ガキは早く寝ろ!」

しかし徹は小首を傾げ、兄の顔をかわいらしく覗き込んだ。
「おにいちゃん・・ぼく聞いたんだ。」
「話変えるなよ・・なにを聞いたんだ?」

釣れた・・徹はちょっとじらしてみることにした。
じらされるとますますしつこくなる兄の性癖を知り尽くしてのことだ。
あ、余計なこと言っちゃった・・という風に後悔を浮かべた顔で呟いた。
「きょうのお昼に巧巳おにいちゃんが寝言で・・ゴメンぼくもう寝るね!」

春海は予想通りこの話題に食いついてきた。
「徹!あずきアイスがあるぞ。おまえ好きだろ。」
「え、いいの?いつも寝る前にもの食べるなって。」
「きょうはお祝いだから特別さ!・・で?」

徹はとぎれとぎれに話し出した。
「巧巳おにいちゃんが・・”いるか、愛してる”って言ってて・・。」
「ああ。」
「それで・・”この海岸で待ってる”って言って・・。」
「それで?」
「”おまえもおれのことを好きなら・・”」
「好きなら?」

徹は演出効果を狙い、すこし間をためた。そして一息に言った。
「・・・。”愛の証に、あの海色のタオルを持ってきてくれ”って言ってた。」
「それはおれがやったタオルじゃないか!・・あいつらやっぱり・・!!」

春海はいきり立って叫んだ。大成功だ!徹はほくそ笑んだ。
そしてその微笑みをすばやく隠し、けなげな調子で叫んだ。
「おにいちゃん!」

兄弟は心をひとつに合わせ、歌いだした。
大空に復讐を誓う怨念に満ちた二重唱である。
「<あの大空に誓い、あだを討つ!>」
「<<さあ復讐だ!>>」
「うん!」
2人の影は海岸から消えた。


いるかは花火を持ってドアの前でうろうろしていた。
ドアとは男子の部屋のドアである。
この部屋は陸上部員を中心に、きょう駅伝で走ったメンバー達が宿を取っていた。
彼女はしばらく行きつ戻りつしていたが、決心を固めドアを勢いよく開けた。

「春海〜!みんなで花火しない?」
「花火?しかし・・。」

春海が応対のため戸口に出てきた。
その肩越しに部屋の内部を覗くと、入院したはずの高中がいた。
高中はあざやかな白い光をまとい神々しく輝いていた。
白い光と見えたのは・・彼をぐるぐる巻きにした包帯であった。
生きてたんだ・・いるかはほっとして軽口をたたいた。

「げっ高中!あんた退院したの?やっぱり丈夫だね!」
「けっこう頭痛が・・・。」
「平気だよ!あ、巧巳!進!みんなもほら!」

いるかは巧巳と進を手招きした。
春海はかっとなり叫んだ。不意に目じりに涙が浮かんだ。

「いるか!浮かれるのもいいかげんにしろ!部屋に帰れ!」
「え・・。春海?どうしてそんな・・泣いてるの?」
「帰れっ・・。」
「はるっ うみ・・。」

いるかを追い出すと、春海は独り暗い声でぼそぼそと歌った。
「<恥と悲しみに満ちて>」

そんなやり取りを知ってか知らずか、巧巳は春海に声をかけた。
春海は暗い瞳でじっとりと巧巳を睨んだ。
「あれ?いるかは?」
「・・・。さあな。」
「なんだよ感じわりぃな。こんなヤツほっとこうぜ。」

部屋の中央では酒盛りが始まっていた。
こんな時話題に上るのはもちろん・・恋・・の話題である。
巧巳を捕まえると、徹は無邪気に質問した。

「ねえ巧巳おにいちゃん教えて?」
「なんだ?」
「(女の子の好きなものって・・なにかな?)」
「あっはっは。徹、おまえませてんな!それはな・・。」
「(なに?)」

酔いも手伝ってか、巧巳は自信満々の態度で答えた。
あとの悲劇の元凶になるとは夢にも思わず・・。
「おれみたいな男に決まってんだろ!どんな女もイチコロさ!」
「へ、へぇ・・。」
「さ、風呂にでも入るか。」

その様子を物陰からうかがっていた春海は歯軋りをして悔しがった。
「(あ、あれは・・。おれのタオル・・。やっぱりあいつ・・殺してやる!)」

もうすっかり真夜中だった。
風呂と聞き、入りそびれた高中も続いた。
高中は嬉しそうに言った。

「そういえば露天風呂は混浴なんだよな!おれも行く!」
「高中おまえは入らないほうが・・怪我に障るぜ。」
「風呂に入れば一発さ!」

彼のあまりに嬉しそうな様子に他の男達も心を動かされた。
全員がいそいそと支度をし始めた。
進が春海に声をかけた。

「春海おまえはどうするんだ?みんな行っちまうぜ。」
「・・おれも行く。」

露天風呂の入り口に行くと、いるかが退屈そうに花火をしていた。
あ・・おれが相手してやらなかったから・・春海の胸は少し痛んだ。
先ほど冷たくあしらったばかりなのでばつが悪かったが、勇気を
出して声を掛けてみた。

「・・・いるか?入らないのか?」
「ん・・もうシャワー浴びたからいいや。」
「あのさ・・。」
「なに?」

いるかの態度はそっけなかった。
目も上げず返事を返した。
彼はますます不安になった。
あの疑いは本当なのか・・ここらではっきりさせよう。
春海は言った。

「タオルかえしてくれないか?」

いるかはかっとなった。
「なによ!あんな汗くさいタオル捨てちゃったよ!」
「なにおうー!!」
「なにすんのよ!あ・・。」

もみ合ううち、いるかはパジャマを着たまま湯のなかに沈んだ。
差し出した春海の腕は、間に合わなかった。
みんなは彼女の名を呼んだ。

「いるか!」

春海はいるかが湯の中に沈んでいく様子をまるでスローモーション
のように見た。春海は慌てて声をかけた。
「あっ・・・。湯加減どうだ?」

いるかはうつむいたまま返事をした。
「しらないよっ・・。」
髪に隠れ表情は見えない。
しかしその声色は・・涙に曇っていた。

その一部始終を離れたところでみていた一馬は言った。
「春海・・・。おまえいくらなんでもひどいんじゃないか?」

春海は恥ずかしさのあまり顔をあげられなかった。
そして逃げるように体の向きを変えた。
「うるさい!おれは部屋に帰る!」

一方、この騒ぎをよそにひとりだけ幸せそうな男がいた。
高中である。彼はいるかのパジャマ姿をしみじみと眺めた。
濡れたパジャマは彼女の皮膚にぴったりと張り付いていた。
その下はノーブ・・これ以上はいうまい。

「なんか・・水着よりかえって興奮するなぁ・・。はあはあ・・。」
「た、高中!おまえは死ね!」
「ぎゃーっ!頭はやめて・・。」
春海が去った後、露天風呂の中はいつにない熱気に包まれた。


いるかは一足先に部屋に戻り、着替えをすませた。
みなの帰りを待つ間、暇なので歌を歌ってみた。
「<さびしい野原にひとり泣いていたの>・・。」
するとよけい寂しくなり、涙が一粒こぼれた。

しばらくすると銀子らが戻ってきた。
みな口々に慰めてくれる。

「いるかちゃんだいじょうぶ?」
「もーあいつ最悪だね。あしたからシカトしようぜ。」
「しかし・・山本春海のやつ、なんか様子おかしくなかったか?」

湊は言った。
「あいつ昔からそうだよ!」
手にはいも焼酎のグラスが握られている。
何も足さずにストレートで楽しむのが彼女の流儀のようだった。

「み、湊まで・・。」
「さ、酒でも飲んでぱーっとやろう!!」
「賛成!」

酒盛りは楽しい雰囲気のまま絶頂を迎えた。
しかし、夜が耽るうち先ほどまでの気遣いを忘れ恋の話題に移っていった。
一子は言った。

「で、あんたたち結局どうなのよ?」
「え。ど、どうって。あんなヤツしらないよ!」
「またまた〜。あの嫉妬深さはただもんじゃないよ。」
「夫婦喧嘩は犬も食わないって言うよ〜。」

いるかはみなにからかわれ、顔を真っ赤にして言い返した。
よりによってこんな日に・・また先ほどの春海のそっけない態度が思い出され、
胸がつんと詰まった。

「春海なんか!巧巳のほうがずっといいよ!」
「そうなの?へえー。あいつもまあカッコいいっちゃカッコいいけど・・。」
「山本春海と東条巧巳なんて五十歩百歩だろ。どっちでもいいじゃん。」
「とにかく春海はだめ!あたしもう寝るから!おやすみ!」
「いるかちゃん!あーあ怒っちゃった・・。」


いるかは独り寝所に戻った。
もう時計は3時を回っているが宴は一向に終焉を迎える気配が無かった。
彼女は布団にもぐりこんだ。すると・・。
「<祈りはすませたか?>」

地獄の底から響くような暗い歌声が聞こえた。
すぐ近く・・彼女の頭の20cmほど横からである。
聞き覚えのある声だった。彼女は暗闇に目を凝らした。
「げっ春海・・ここ女子の部屋なんだけど・・。どっから入ってきたの?」
「ベランダ。」
「見つからないうちに帰んなよ。あんた一応生徒会長なんだし・・。」

春海は布団の中をごそごそと移動しながら叫んだ。
「いるか!巧巳に渡すくらいならいっそ・・。」
「ぎゃーっ!」
「一緒に死んでくれ!」
「おまえだけ死ね!」

騒ぎを聞きつけたかのように、隣の部屋から影が飛び込んできた。
兵衛である。たくましい彼の顔は痛々しい痣に隈どられていた。
「春海来てくれ!巧巳と進が喧嘩で大怪我して・・。」

春海はそっけなく言った。つい、本音が出た。
「ほっとけよ。チャンスだぜ。」
「何いってんだよおまえ!」

春海は面倒くさそうにごろんと横を向いた。
「あーおれもう死んだ。動けない。」
「む、むかつく・・。おまえ明日から口きいてやらないぞ!な、みんな!」

春海はまた歌った。
「<おれを恐れる者はない>」
歌いながらウトウトとしてきた。歌は尻切れトンボにやんだ。

兵衛はさらにつっこんだ。
「シカトされてるしな。しかしそんなところで寝るなよ。
おい・・。春海・・春海?!」

「・・・。」
真剣に寝てしまったようである。

いるかは布団を跳ね除け一心不乱に春海の体を揺すった。
「やだやだ死んじゃやだ!あたし春海のこと世界で一番好き!」

その言葉が欲しかったんだ!
春海は飛び起きた。
録音しておけばよかった、と思った。
「いるか!おれもだよ!」

そのセリフを聞くと、死の淵をさまよっていたはずの進までが
つっこんだ。
「オテロ生き返るな!」

しかしいるかと春海はふたりの世界に突入していた。
もはやふたりを地上に引き止められるものは何も無い。
ふたりは誓いの接吻をした。

「春海・・愛してる。ってなんで3回もキスするの?」
「おまえを愛してるからだよ!」

春海はいるかを熱烈に抱きしめた。
これがやりたかったんだ・・2年ぶりに夢がかなった。

あまりにラブシーンが長いので、最初は祝福していたみんなもだんだん
イライラしてきた。酔いも覚め、眠くなってきた。
どいてほしい・・みんなの願いがひとつになった。
声を揃えて怒鳴った。

「おまえらひとの話聞けよ!」

春海はいそいそといるかの手をとりどこかに消えた。


春海はまた寝返りを打った。
すると、そのとき頬にやわらかい手を感じた。
誰かが自分の名を呼んでいる・・。
「・・み。春海。起きて・・。あたしの声聞こえる?起きてにょ、起きて・・。」

うまく声が出ない。
喉が渇いて今にもひび割れそうだった。
春海はいるかの名を呼び、そっと彼女の手をとった。
「ん・・。いるか?」

夢だったのか・・。
春海の悪夢は終わった。

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